10月17日

20261017土曜日旧暦9月7日先負(1番甲子きのえねコウシ)月齢 6.4

43番丙午ひのえうま年 35番戊戌つちのえいぬ月 1番甲子きのえね日

吉方位 隠遁日 甲子きのえね日 南東 南西 大吉 年末まであと75日

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10月17日の出来事

1346年 – ネヴィルズ・クロスの戦い。第二次スコットランド独立戦争および百年戦争の一端で、スコットランド国王デイヴィッド2世がラルフ・ネヴィル (バロン男爵2世)(英語版)指揮するイギリス軍に敗れ、捕えられる。

<ネヴィルズ・クロスの戦い>

時             1346年10月17日

場所        イングランド、ダラム西方のネヴィルズ・クロス(英語版)

北緯54.776度 西経1.597度座標: 北緯54.776度 西経1.597度

結果        イングランドの大勝利 スコットランド王が捕虜となる

損害  スコットランド軍 12000人中 戦死1000人から3000人 イングランド軍 7000人中 戦死 軽微

1597年(慶長2年9月7日)- 慶長の役・稷山の戦い:

年月日:慶長2年9月7日(1597年10月17日)

場所:朝鮮国忠清道天安郡稷山県

結果:決着つかず両陣営退却 損害 明軍 4千人中 戦死200人 豊臣軍 3万人中 戦死600人。

1777年 – アメリカ独立戦争・サラトガの戦いで英軍のジョン・バーゴイン将軍がホレイショ・ゲイツ将軍に降伏。

年月日:1777年9月19日および10月7日

場所:サラトガ

結果:大陸軍の決定的勝利 損害 大陸軍 1万5千人中 死傷800人 イギリス軍 7千8百人中 戦死傷1600人 捕虜6000人。

1814年 – ロンドンビール洪水。ロンドンのビール醸造所でビールの入った大樽が爆発。溢れたビールが連鎖的に別の大樽を次々と破壊し、ビールが洪水の様に流出。8人が死亡した[1][2]。

1962年 – 北海道乙部町で函館バスが土砂崩れに巻き込まれて海へ転落(豊浜山津波)。死者・行方不明者14名、重軽傷14名[9][10]。

1992年 – アメリカ・ルイジアナ州で日本人留学生射殺事件[17]。

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1346年 – ネヴィルズ・クロスの戦い。第二次スコットランド独立戦争および百年戦争の一端で、スコットランド国王デイヴィッド2世がラルフ・ネヴィル (バロン男爵2世)(英語版)指揮するイギリス軍に敗れ、捕えられる。

<ネヴィルズ・クロスの戦い>

時             1346年10月17日

場所        イングランド、ダラム西方のネヴィルズ・クロス(英語版)

北緯54.776度 西経1.597度座標: 北緯54.776度 西経1.597度

結果        イングランドの大勝利 スコットランド王が捕虜となる

損害  スコットランド軍 12000人中 戦死1000人から3000人 イングランド軍 7000人中 戦死 軽微

ネヴィルズ・クロスの戦い(ネヴィルズ・クロスのたたかい。英語: Battle of Neville’s Cross)は、第二次スコットランド独立戦争中の1346年10月17日に、イングランド王国のダラム西方で起こった戦いである。イングランドに侵攻したデイヴィッド2世率いるスコットランド軍12,000人が、ラルフ・ネヴィル卿(英語版)率いる約6,000-7,000人のイングランド軍に大敗した。戦いの名称は、スコットランド軍が布陣した丘に立っていた十字架石碑(英語版)(Stone cross)に由来する。勝利の後、ネヴィルはこの戦いを記念する新たな十字架を建てた。

この戦いは、百年戦争におけるイングランド王エドワード3世のフランス侵攻が背景にある。フランス王フィリップ6世はスコットランドに対して古い同盟に基づくイングランド侵攻を要請し、デイヴィッド2世がイングランド北部を襲撃した[注 1]。しかしイングランド軍に不意を突かれた戦いはスコットランド軍の大敗に終わる。デイヴィッド2世が捕虜となったほか、指揮官の大半が戦死するか捕虜となった。戦略面では、国境地域におけるスコットランドの脅威が低下したことで、イングランドは兵力をフランスとの戦争に向けることができるようになった。そしてデイヴィッド2世の身代金を支払うことで休戦が成立し、40年間平和が続いた。

1597年(慶長2年9月7日)- 慶長の役・稷山の戦い:

年月日:慶長2年9月7日(1597年10月17日)

場所:朝鮮国忠清道天安郡稷山県

結果:決着つかず両陣営退却 損害 明軍 4千人中 戦死200人 豊臣軍 3万人中 戦死600人。

9月7日未明、黒田長政は部将黒田直之、栗山利安ら先鋒の若干の兵をまず前進させた。直之らは稷山へ一里ほどまで前進し、日の出と共に敵兵が山野に充満し近迫する様を見る。諸将は軍議を開いて進退を議論した。毛屋武久が「敵は多く我は少なし。我若し一歩を退かば彼必ず追撃し我兵殲きん死は一なり寧ろ進んで死するに若かず且つ我兵一致団結して奮進すれば必ず敵の一部を突破せん。我その機に乗じて退却すれば或は軍を全うするを得ん。是れ武田勝頼が長篠の敗後に攻勢に出て敵の追撃を遅緩ならしめたる故智なり」と発言すると、諸将もこれを然りと為し乃ち歩率をして斉しく銃射せしめ士卒硝煙中より喊声を発して突撃する。明軍は大いに驚き防戦短時間で破れ退く。直之等これを機とし兵を収めて退く。時に長政は遥かに銃声を先鋒の方向に聞き麾下3000を率いてこれに馳せる。先鋒の兵敵に追躡せられ其勢は甚だ危うし。黒田一成曰く「先鋒がもし敗れたならば我が本軍もまた恐らくは支え難からん是れ吾が死所なり。」と手兵を以て敵を側撃した。後藤基次は一高地を占領し其部兵を馳駆せしめ、以て敵をして我衆寡を測らさしめ、且つ先鋒兵に声援する。一成遂に先鋒の兵を収容して還る。

長政は戦場に到着すると直ぐに東方の高地に上がって自ら敵情を偵察し、乃ちその隊の部署を改め右備一番隊は母里友信、栗山利安、黒田利高をこれに任じ、井上九郎兵衛、野村市右衛門を二番隊としてこれに次き、左備一番隊は後藤基次、黒田一成がこれに当り、黒田直之、桐山孫兵衛が二番隊としてこれに次いた。長政は自ら爾餘の兵2000人を率いて本隊たり。この時、明将解生等が水原より到来する。遊撃擺寨、千総李盆喬、把総劉遇節等2000人の援軍を得て再び兵気を回復して攻め寄せた。両軍末院の野に戦い奮闘数合にして勝敗はなかなか決まらなかった。

毛利秀元は天安に在り稷山の戦急を聞き、直ちにその兵を率いてこれに赴援し先鋒の将宍戸元続、吉見広行等に先ず進ませた。元続等は急駆してこれに赴き、黒田隊を助けて敵の側背に突撃する。これにより明軍は遂に大いに敗れて水原方向に退いた[5]。午後3時を過ぎた頃、日本軍は敢えて追撃せず兵を収めて天安に還った。この日の戦闘で日本軍の黒田兵29人が戦死、明軍は約200余人が戦死した[1]。朝鮮王朝実録には日本軍の戦死500~600、明軍も戦死者が多い、との記事がある。 [6] 朝鮮王朝実録においては明軍は自軍の勝利と報告している[7]。

1777年 – アメリカ独立戦争・サラトガの戦いで英軍のジョン・バーゴイン将軍がホレイショ・ゲイツ将軍に降伏。

年月日:1777年9月19日および10月7日

場所:サラトガ

結果:大陸軍の決定的勝利 損害 大陸軍 1万5千人中 死傷800人 イギリス軍 7千8百人中 戦死傷1600人 捕虜6000人。

サラトガの戦い(サラトガのたたかい、英: Battle of Saratoga )は、アメリカ独立戦争中の1777年9月から10月にかけて、ニューヨーク州サラトガの近くで、大陸軍とイギリス軍の間に行われた戦いである。サラトガの戦いとは、2つの小戦闘の総称である。すなわち、フリーマン農場の戦い(第一次サラトガの戦い)とベミス高地の戦い(第二次サラトガの戦い)である。この戦いの結果はジョン・バーゴイン将軍指揮するイギリス軍の降伏につながり、イギリス軍のカナダからの侵攻作戦(サラトガ方面作戦)が終わった。

戦いの後

バーゴイン将軍の降伏

バーゴイン軍は既に戦力比が3対1になっていた上に、フリーマン農場の戦いからの損害が1,000名に達した。一方大陸軍は約500名の死傷者であった。バーゴインは有能な部下も何人かを失っていた。作戦は失敗し前進も叶わなくなった。その夜、最前線に灯りをともし、闇の中を引き返した。翌10月8日朝、バーゴインは9月16日に確保した陣地まで戻った。

バーゴインの軍は戦力が弱まり、物資も少なくなった。大陸軍はさらにその数を増し続けていた。バーゴインは更に8マイル(12 km) 撤退しサラトガに着いた。サラトガの戦いの最終章についた。

イギリス軍のタイコンデロガ砦まで戻ろうという試みは、ゲイツ将軍の指揮する大陸軍に遮られた。イギリス軍は8月に渡河した地点でサラトガからハドソン川を渡ろうと試みたが、既に包囲されており兵の数でも負けていた。タイコンデロガ砦まではまだ40マイル (60 km) あり、物資が尽きかけているのに冬が近づいており、バーゴインに残された選択肢は無かった。バーゴインはサラトガにキャンプを張り、大陸軍と交渉を始めることに決めた。

最初、ゲイツは無条件降伏を要求したが、イギリス軍将軍は即座に撥ね付け戦って死ぬ道を選ぶと宣言した。ゲイツは妥協案に合意した。その案ではイギリス軍は降伏しないし捕虜ともならない、二度と大陸で従軍しないという条件でボストンまで行軍し、イギリスに戻るというものだった。ゲイツはバーゴインとこれ以上死闘を演じることは代償が大きくなることに心を痛め、またサラトガで窮地に陥っている部隊を救うためにイギリス軍のヘンリー・クリントン将軍の増援部隊がニューヨークから向かっている知らせが心配であった。華々しい礼装に身を包み、バーゴイン将軍は10月17日にキャンプを出発し、ゲイツの麗辞に祝福された。他のものは傷ついているか、捕虜の世話をする士官夫人達の手伝いをしていた。

サラトガでは5,791名が降伏した。リードセルの証言では、戦えるものは4,000名に満たなかったという。ドイツ人傭兵の場合、2,431名が降伏し、ベニントンの戦いでの損失を含め10月6日までに1,122名が死傷、捕虜または不明となった。サラトガ方面作戦において、ドイツ人を含めたイギリス軍全体の損害は捕虜や脱走を含めて9,000名に達した。

バーゴインの部隊は武装解除され18世紀の軍事的習慣に従って、イギリスに戻った後は二度と大陸での戦闘に従軍しないと誓わされた。しかし、大陸会議はその「協定書」の批准を拒んだ。協定書はゲイツとバーゴインの間で降伏の条件を定めたものであった。イギリスとドイツの士官達は最終的に捕虜となっていた大陸軍の士官と交換されたが、協議の軍隊に入っていた者の多くは、戦争終結までニューイングランドとバージニア、ペンシルベニアの捕虜収容所にいれられていた。

1814年 – ロンドンビール洪水。ロンドンのビール醸造所でビールの入った大樽が爆発。溢れたビールが連鎖的に別の大樽を次々と破壊し、ビールが洪水の様に流出。8人が死亡した[1][2]。

ロンドンビール洪水(ロンドンビールこうずい、英: London Beer Flood)は、1814年10月17日にイギリス・ロンドンのセント・ジャイルズ(英語版)教区で発生したビールの破裂・流出事故である。

1962年 – 北海道乙部町で函館バスが土砂崩れに巻き込まれて海へ転落(豊浜山津波)。死者・行方不明者14名、重軽傷14名[9][10]。

1992年 – アメリカ・ルイジアナ州で日本人留学生射殺事件[17]。

日本人留学生射殺事件(にほんじんりゅうがくせいしゃさつじけん)は、1992年10月17日にアメリカ合衆国・ルイジアナ州バトンルージュ市の郊外で日本人留学生が射殺された事件である[1]。

チャットgpt先生の10月17日のエッセイ

10月17日という日付に並ぶ出来事を、善悪や教訓ではなく、**「戦力・地形・情報・偶然・制度が、どのように結果を作ったか」**という構造から見ると、かなり一貫した輪郭が浮かびます。

10月17日――均衡が崩れる日

10月17日の歴史を並べてみると、奇妙な共通項がある。

1346年のネヴィルズ・クロスでは、イングランドに侵攻したスコットランド軍が敗れ、国王デイヴィッド2世自身が捕虜になった。

1597年の稷山では、明軍と豊臣軍が衝突し、決着をつけないまま双方が戦場を離れた。

1777年のサラトガでは、イギリス軍のバーゴインが降伏した。

1814年のロンドンでは、巨大なビール樽が破裂し、その流出が別の樽を破壊し、最終的に街へ洪水のように流れ出した。

1962年には北海道で土砂崩れによってバスが海へ転落し、1992年にはルイジアナで日本人留学生が射殺された。

一見すると、戦争、事故、犯罪というまったく別の事件である。

しかし構造だけを取り出すと、そこには一つの共通した動きがある。

積み上がった状態が、ある一点で崩れる。

歴史上の大事件は、必ずしも「その日に突然発生した」わけではない。

むしろ逆である。

その日までに、兵力が配置され、補給線が伸び、政治的な選択肢が減り、地形が決まり、情報が集まり、あるいは巨大な樽に圧力が蓄積している。

10月17日は、その蓄積の結果が表面化した日として見ることができる。


ネヴィルズ・クロスでは、スコットランド軍は約12,000人、イングランド軍は6,000~7,000人程度だった。

数字だけなら、スコットランド側が有利に見える。

しかし戦場では、兵力の絶対数だけでは結果は決まらない。

侵攻側には、移動というコストがある。

敵地では情報が不足する。

地形の選択にも制約がある。

そして、戦闘が始まった後には「どこまで状況を把握できているか」という差が効いてくる。

スコットランド軍は数では上回っていたにもかかわらず、指揮官層を失い、国王まで捕らえられた。

ここで重要なのは、12,000対7,000という数字ではない。

戦力とは、人数ではなく、人数を組織的に使える能力である。

兵士が多くても、指揮系統が崩れれば、その兵士は一つの戦力として機能しなくなる。

さらに国王そのものが捕虜になると、戦場の敗北は政治的な損失へ変換される。

つまり、

兵力差
↓
戦場での配置
↓
指揮系統の崩壊
↓
指揮官の喪失
↓
国王の捕虜
↓
外交・財政上の問題

というように、一つの戦闘結果が別の領域へ連鎖していく。

歴史を動かすのは、しばしば最初の衝突そのものではなく、衝突によって何が連鎖するかである。


1597年の稷山の戦いは、逆に「決着しない戦い」の構造を示している。

戦闘では、黒田長政の部隊が明軍と交戦し、双方が激しく戦った。

しかし最終的には、日本軍は追撃せず、天安へ戻った。

ここでは「勝ったか負けたか」という二択だけでは、実態を捉えにくい。

軍事行動では、敵を撃破することと、戦争全体で有利な状態を作ることは別だからである。

目の前の敵を追撃すれば、さらに損害が出る。

敵を完全に壊滅させるためには、自軍もまた前進しなければならない。

前進すれば補給線は伸びる。

敵地深く入れば情報も減る。

したがって、ある地点で戦闘を止めることには合理性がある。

戦争とは「相手を倒すゲーム」というより、限られた資源を使って、どこまでリスクを引き受けるかを決めるゲームに近い。

稷山の戦いが示すのは、その現実である。

戦場では、完全勝利よりも「これ以上損をしない」という判断が結果を決めることがある。


1777年のサラトガでは、さらに分かりやすい。

バーゴイン軍は戦力を失い、物資も減少し、大陸軍の包囲を受けていた。

ここで重要なのは、10月17日に突然イギリス軍が弱くなったわけではないということだ。

すでに数週間にわたって、

損害が蓄積する。

兵力差が広がる。

補給が苦しくなる。

退路が狭くなる。

援軍への期待が不確実になる。

そして選択肢が消えていく。

最後に残る選択肢が「降伏」になる。

つまり降伏とは、その瞬間の意思決定というより、それ以前の選択の累積によって形成された状態である。

ここに歴史のリアリズムがある。

人間は、いつでも自由に選択できるわけではない。

状況が進むにつれて、選べる手段が減っていく。

最初は、

「進む」

「退く」

「待つ」

「戦う」

「交渉する」

という複数の選択肢がある。

しかし補給を失えば「待つ」が消える。

退路を断たれれば「退く」が消える。

兵力差が開けば「戦う」が消える。

援軍が来なければ「時間を稼ぐ」ことも難しくなる。

最後には、残された一つの選択肢を選ぶことになる。

外から見ると「決断」に見える。

内部から見ると、実際には選択肢の消滅なのである。


1814年のロンドンビール洪水は、これを軍事ではなく物理現象として見せている。

巨大なビール樽が破裂する。

その流出が別の樽を破壊する。

さらに別の樽が破裂する。

そして大量のビールが街へ流れ込む。

これは「一つの事故」ではない。

連鎖する事故である。

最初の樽だけを見れば、局所的な故障にすぎない。

しかし巨大な樽が並んでいる環境では、一つの破裂が隣接する構造物にエネルギーを伝える。

結果として、最初の故障よりはるかに大きな現象になる。

歴史や社会でも同じことが起きる。

小さな問題が小さいまま終わるとは限らない。

重要なのは、その問題が置かれている環境である。

孤立した一つの故障なら、被害は限定される。

しかし相互依存した構造の中では、一つの故障が次の故障を発生させる。

ここでは、

原因の大きさより、接続の多さが結果の大きさを決める。


1962年の北海道の事故も、別の形で同じ構造を持つ。

土砂崩れという自然現象だけなら、山の一部が崩れる現象で終わる。

しかし道路上にバスが存在する。

そのバスが土砂崩れに巻き込まれる。

そして海へ転落する。

自然現象が交通システムと接続した瞬間、被害規模が変わる。

つまり災害の大きさは、自然現象そのものだけでは測れない。

自然現象 × 人間の配置

によって決まる。

同じ規模の土砂崩れでも、人がいなければ人的被害は発生しない。

逆に、人間の活動が危険な地点に集中していれば、小さな自然現象でも大きな事故になる。

事故を考えるとき、「何が起きたか」だけを見ると原因を一つに還元してしまう。

しかし実際には、

地形
交通
時間
気象
設備
人間の移動

が重なった場所で事故が発生する。


1992年の日本人留学生射殺事件も、別の意味で「環境と個人の接続」を示す。

個人が異なる社会環境の中に入ると、それまで当然だと思っていた前提が通用しなくなる場合がある。

ここで重要なのは、個人の属性だけを見ることではない。

場所、制度、社会慣行、武器へのアクセス、警察・司法制度、言語、文化的な認識差など、複数の条件が同じ空間に存在する。

個人はその巨大な構造の中に入る。

そして、個人には構造そのものを変更する力がほとんどない。

これは海外生活に限った話ではない。

社会にいる人間は、基本的に自分で設計していない制度の中で行動している。

道路も法律も市場も、学校も会社も、国境も、自分が生まれる前から存在している。

だから現実を見るときには、

「自分はどう考えるか」

だけでは足りない。

「自分が置かれている構造は何か」

を見る必要がある。


こうして10月17日の出来事を並べると、戦争と事故と犯罪を一つの線で結ぶことができる。

それは「善悪」ではない。

もっと機械的なものだ。

蓄積 → 制約 → 臨界点 → 連鎖 → 結果

である。

ネヴィルズ・クロスでは、侵攻と軍の配置が戦闘を生み、戦闘が指揮系統を崩し、国王の捕虜という政治的結果につながった。

稷山では、兵力と地形と援軍と撤退判断が組み合わさり、決着しない戦闘になった。

サラトガでは、損害と補給不足と包囲によって選択肢が消え、最後に降伏という結果へ到達した。

ロンドンでは、一つの樽の破裂が別の樽へ伝わった。

北海道では、地形上の危険と交通が接続した。

ルイジアナでは、一人の人間が異なる社会環境の中に置かれ、そこで事件が発生した。

いずれも、「その瞬間」だけを見ると理解しにくい。

その瞬間に至るまでに、すでに多くの条件が積み上がっているからだ。


だから歴史を見るとき、最も注意すべきなのは「事件が起きた日」そのものかもしれない。

10月17日に何かが突然始まったのではない。

多くの場合、10月17日にはすでに結果がかなり形成されていた。

その日に現れたのは、見えなかった構造が、誰の目にも見える形になった瞬間だった。

戦場では敗走として現れる。

政治では降伏として現れる。

事故では崩落として現れる。

都市では洪水として現れる。

個人にとっては、一瞬の事件として現れる。

しかし、その一瞬の背後には、それまで積み上がっていた条件がある。

歴史を読むということは、出来事の表面を追うことではない。

むしろ、

「なぜ、その瞬間にそれが起きたのか」

「なぜ、それ以前には起きなかったのか」

「なぜ、その後に被害や効果が拡大したのか」

を追うことである。

10月17日の歴史が面白いのは、そこに「運命の日」という神秘性があるからではない。

むしろ反対だ。

そこには、かなり冷たい現実が見えている。

結果は、結果が発生した瞬間よりずっと前から作られている。

そして臨界点を越えた後は、人間の意思だけでは簡単に止められない。

だから現実を見るなら、事件そのものよりも、その事件を可能にした配置を見る。

誰が強かったか。

誰が弱かったか。

誰が正しかったか。

誰が悪かったか。

それだけでは足りない。

どこにいたのか。

何を持っていたのか。

何を知らなかったのか。

どの選択肢が残っていたのか。

どの選択肢が消えていたのか。

そして、どの小さな変化が次の変化を引き起こしたのか。

歴史とは、英雄や敗者の物語である以前に、条件が積み重なり、ある地点で不可逆的な結果へ変換されていく過程なのだ。

10月17日に残るのは、その「変換点」の記録である。