kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月17日 1777年サラトガの戦い終結、ほか写真wikipedia降伏するバーゴイン将軍

10月17日

20251017旧暦8月26日先負(己未つちのとひつじキビ)月齢 25.2

乙巳きのとみ年戊辰つちのえたつ月己未つちのとひつじ日 年末まであと75日

吉方位 隠遁日 己未つちのとひつじ日

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8817%E6%97%A5

10月17日の出来事

1597年(慶長2年9月7日)- 慶長の役・稷山の戦い:

年月日:慶長2年9月7日(1597年10月17日)

場所:朝鮮国忠清道天安郡稷山県

結果:決着つかず両陣営退却 損害 明軍 4千人中 戦死200人 豊臣軍 3万人中 戦死600人。

1777年 – アメリカ独立戦争・サラトガの戦いで英軍のジョン・バーゴイン将軍がホレイショ・ゲイツ将軍に降伏。

年月日:1777年9月19日および10月7日

場所:サラトガ

結果:大陸軍の決定的勝利 損害 大陸軍 1万5千人中 死傷800人 イギリス軍 7千8百人中 戦死傷1600人 捕虜6000人。

1814年 – ロンドンビール洪水。ロンドンのビール醸造所でビールの入った大樽が爆発。溢れたビールが連鎖的に別の大樽を次々と破壊し、ビールが洪水の様に流出。8人が死亡した[1][2]。

1962年 – 北海道乙部町で函館バスが土砂崩れに巻き込まれて海へ転落(豊浜山津波)。死者・行方不明者14名、重軽傷14名[9][10]。

1992年 – アメリカ・ルイジアナ州で日本人留学生射殺事件[17]。

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1597年(慶長2年9月7日)- 慶長の役・稷山の戦い:

年月日:慶長2年9月7日(1597年10月17日)

場所:朝鮮国忠清道天安郡稷山県

結果:決着つかず両陣営退却 損害 明軍 4千人中 戦死200人 豊臣軍 3万人中 戦死600人。

9月7日未明、黒田長政は部将黒田直之、栗山利安ら先鋒の若干の兵をまず前進させた。直之らは稷山へ一里ほどまで前進し、日の出と共に敵兵が山野に充満し近迫する様を見る。諸将は軍議を開いて進退を議論した。毛屋武久が「敵は多く我は少なし。我若し一歩を退かば彼必ず追撃し我兵殲きん死は一なり寧ろ進んで死するに若かず且つ我兵一致団結して奮進すれば必ず敵の一部を突破せん。我その機に乗じて退却すれば或は軍を全うするを得ん。是れ武田勝頼が長篠の敗後に攻勢に出て敵の追撃を遅緩ならしめたる故智なり」と発言すると、諸将もこれを然りと為し乃ち歩率をして斉しく銃射せしめ士卒硝煙中より喊声を発して突撃する。明軍は大いに驚き防戦短時間で破れ退く。直之等これを機とし兵を収めて退く。時に長政は遥かに銃声を先鋒の方向に聞き麾下3000を率いてこれに馳せる。先鋒の兵敵に追躡せられ其勢は甚だ危うし。黒田一成曰く「先鋒がもし敗れたならば我が本軍もまた恐らくは支え難からん是れ吾が死所なり。」と手兵を以て敵を側撃した。後藤基次は一高地を占領し其部兵を馳駆せしめ、以て敵をして我衆寡を測らさしめ、且つ先鋒兵に声援する。一成遂に先鋒の兵を収容して還る。

長政は戦場に到着すると直ぐに東方の高地に上がって自ら敵情を偵察し、乃ちその隊の部署を改め右備一番隊は母里友信、栗山利安、黒田利高をこれに任じ、井上九郎兵衛、野村市右衛門を二番隊としてこれに次き、左備一番隊は後藤基次、黒田一成がこれに当り、黒田直之、桐山孫兵衛が二番隊としてこれに次いた。長政は自ら爾餘の兵2000人を率いて本隊たり。この時、明将解生等が水原より到来する。遊撃擺寨、千総李盆喬、把総劉遇節等2000人の援軍を得て再び兵気を回復して攻め寄せた。両軍末院の野に戦い奮闘数合にして勝敗はなかなか決まらなかった。

毛利秀元は天安に在り稷山の戦急を聞き、直ちにその兵を率いてこれに赴援し先鋒の将宍戸元続、吉見広行等に先ず進ませた。元続等は急駆してこれに赴き、黒田隊を助けて敵の側背に突撃する。これにより明軍は遂に大いに敗れて水原方向に退いた[5]。午後3時を過ぎた頃、日本軍は敢えて追撃せず兵を収めて天安に還った。この日の戦闘で日本軍の黒田兵29人が戦死、明軍は約200余人が戦死した[1]。朝鮮王朝実録には日本軍の戦死500~600、明軍も戦死者が多い、との記事がある。 [6] 朝鮮王朝実録においては明軍は自軍の勝利と報告している[7]。

1777年 – アメリカ独立戦争・サラトガの戦いで英軍のジョン・バーゴイン将軍がホレイショ・ゲイツ将軍に降伏。

年月日:1777年9月19日および10月7日

場所:サラトガ

結果:大陸軍の決定的勝利 損害 大陸軍 1万5千人中 死傷800人 イギリス軍 7千8百人中 戦死傷1600人 捕虜6000人。

サラトガの戦い(サラトガのたたかい、英: Battle of Saratoga )は、アメリカ独立戦争中の1777年9月から10月にかけて、ニューヨーク州サラトガの近くで、大陸軍とイギリス軍の間に行われた戦いである。サラトガの戦いとは、2つの小戦闘の総称である。すなわち、フリーマン農場の戦い(第一次サラトガの戦い)とベミス高地の戦い(第二次サラトガの戦い)である。この戦いの結果はジョン・バーゴイン将軍指揮するイギリス軍の降伏につながり、イギリス軍のカナダからの侵攻作戦(サラトガ方面作戦)が終わった。

戦いの後

バーゴイン将軍の降伏

バーゴイン軍は既に戦力比が3対1になっていた上に、フリーマン農場の戦いからの損害が1,000名に達した。一方大陸軍は約500名の死傷者であった。バーゴインは有能な部下も何人かを失っていた。作戦は失敗し前進も叶わなくなった。その夜、最前線に灯りをともし、闇の中を引き返した。翌10月8日朝、バーゴインは9月16日に確保した陣地まで戻った。

バーゴインの軍は戦力が弱まり、物資も少なくなった。大陸軍はさらにその数を増し続けていた。バーゴインは更に8マイル(12 km) 撤退しサラトガに着いた。サラトガの戦いの最終章についた。

イギリス軍のタイコンデロガ砦まで戻ろうという試みは、ゲイツ将軍の指揮する大陸軍に遮られた。イギリス軍は8月に渡河した地点でサラトガからハドソン川を渡ろうと試みたが、既に包囲されており兵の数でも負けていた。タイコンデロガ砦まではまだ40マイル (60 km) あり、物資が尽きかけているのに冬が近づいており、バーゴインに残された選択肢は無かった。バーゴインはサラトガにキャンプを張り、大陸軍と交渉を始めることに決めた。

最初、ゲイツは無条件降伏を要求したが、イギリス軍将軍は即座に撥ね付け戦って死ぬ道を選ぶと宣言した。ゲイツは妥協案に合意した。その案ではイギリス軍は降伏しないし捕虜ともならない、二度と大陸で従軍しないという条件でボストンまで行軍し、イギリスに戻るというものだった。ゲイツはバーゴインとこれ以上死闘を演じることは代償が大きくなることに心を痛め、またサラトガで窮地に陥っている部隊を救うためにイギリス軍のヘンリー・クリントン将軍の増援部隊がニューヨークから向かっている知らせが心配であった。華々しい礼装に身を包み、バーゴイン将軍は10月17日にキャンプを出発し、ゲイツの麗辞に祝福された。他のものは傷ついているか、捕虜の世話をする士官夫人達の手伝いをしていた。

サラトガでは5,791名が降伏した。リードセルの証言では、戦えるものは4,000名に満たなかったという。ドイツ人傭兵の場合、2,431名が降伏し、ベニントンの戦いでの損失を含め10月6日までに1,122名が死傷、捕虜または不明となった。サラトガ方面作戦において、ドイツ人を含めたイギリス軍全体の損害は捕虜や脱走を含めて9,000名に達した。

バーゴインの部隊は武装解除され18世紀の軍事的習慣に従って、イギリスに戻った後は二度と大陸での戦闘に従軍しないと誓わされた。しかし、大陸会議はその「協定書」の批准を拒んだ。協定書はゲイツとバーゴインの間で降伏の条件を定めたものであった。イギリスとドイツの士官達は最終的に捕虜となっていた大陸軍の士官と交換されたが、協議の軍隊に入っていた者の多くは、戦争終結までニューイングランドとバージニア、ペンシルベニアの捕虜収容所にいれられていた。

1814年 – ロンドンビール洪水。ロンドンのビール醸造所でビールの入った大樽が爆発。溢れたビールが連鎖的に別の大樽を次々と破壊し、ビールが洪水の様に流出。8人が死亡した[1][2]。

ロンドンビール洪水(ロンドンビールこうずい、英: London Beer Flood)は、1814年10月17日にイギリス・ロンドンのセント・ジャイルズ(英語版)教区で発生したビールの破裂・流出事故である。

1962年 – 北海道乙部町で函館バスが土砂崩れに巻き込まれて海へ転落(豊浜山津波)。死者・行方不明者14名、重軽傷14名[9][10]。

1992年 – アメリカ・ルイジアナ州で日本人留学生射殺事件[17]。

日本人留学生射殺事件(にほんじんりゅうがくせいしゃさつじけん)は、1992年10月17日にアメリカ合衆国・ルイジアナ州バトンルージュ市の郊外で日本人留学生が射殺された事件である[1]。

チャットgpt先生の10月17日のエッセイ


10月17日 ― 歴史の同じ日に立つ

暦の上では2025年10月17日、旧暦では8月26日、己未(つちのとひつじ)の日。
先負、隠遁日。
月齢25.2の月は、欠けゆく光を静かに宿しながら夜空の端に留まる。
年の残りはあと75日。
季節は確かに終わりへと傾き、空気にかすかな焦げの匂いを感じる時節である。

同じ10月17日という日を、過去の歴史は幾度となく刻んできた。
1597年、朝鮮の稷山では黒田長政らの軍が明・朝鮮連合軍と激突した。
戦の結末は決着つかず、双方が退いた。
それでもその退却の裏には、生き残るための選択と、戦いを続ける覚悟の揺らぎがあった。
戦場を駆け抜けた兵たちの息遣いは、ただの数字では測れないものだっただろう。

1777年の10月17日、海の向こうアメリカの地では、サラトガの戦いが終結した。
イギリス軍のバーゴイン将軍は、アメリカ大陸軍のゲイツ将軍に降伏する。
この勝利がフランスを独立戦争の支援へと動かし、歴史の流れを大きく変えた。
一国の命運を決めた“降伏”という選択。
そこにもまた、戦いの中で生き延びることを選んだ人間の理性があった。

1814年のロンドンでは、戦ではなく“ビール”が街を襲った。
巨大な樽が破裂し、溢れたビールが通りを飲み込んだ。
人々は洪水のような麦の香りに巻き込まれ、八人が命を落とす。
文明の象徴である生産の仕組みが、ひとたび崩れれば災厄となる。
人の営みの脆さを、泡のごとく見せつけた事件だった。

そして1992年、ルイジアナ州の静かな住宅街で、日本人留学生が射殺された。
仮装パーティーに向かう途中、誤って他人の家を訪ねた若者に向けられた銃口。
“Freeze!”という言葉の意味を取り違えた小さな誤解が、命を奪った。
彼の死は、銃社会への問いを世界に投げかけたまま、いまも消えてはいない。

――同じ10月17日。
戦い、降伏、事故、そして悲劇。
どの出来事も、人が選択を誤った瞬間、あるいは避けようのない偶然が重なった瞬間に起きている。
けれど、それらを知る私たちはもう、同じ過ちをただ繰り返す者ではない。
歴史を知ることは、同じ「日」を違う意味で生きることでもあるのだ。

今日の己未の日は、陰陽道では「隠遁日」と呼ばれる。
外に出て戦うよりも、内に籠もり、静かに自分を整える日。
この日が戦や悲劇をも刻んできたことに、どこか運命の皮肉を感じる。
しかし同時に、隠遁とは「逃避」ではなく「熟考」である。
過去を見つめ、次の一歩を選ぶための静けさこそが、未来を変えるのだろう。

10月17日。
世界のどこかで、また誰かが小さな決断をする日。
その選択が、百年後の同じ日を照らす光になるかもしれない。