今日という日10月15日 1815ナポレオンセントヘレナへ流刑、ほか写真wikipediaロングウッドハウス
10月15日
20261015木曜日旧暦9月5日先勝(59番壬戌みずのえいぬジンジュツ)月齢 4.4
43番丙午ひのえうま年 35番戊戌つちのえいぬ月 59番壬戌みずのえいぬ日
吉方位 隠遁日 壬戌みずのえいぬ日 西 大吉 年末まであと77日
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10月15日の出来事
1815年 – ナポレオン・ボナパルトがセントヘレナに流刑になる。セントヘレナは 聖人ヘレナのことで、このひとはローマ帝国コンスタンティヌス1世の母。
1934年 – 国民政府軍に敗れた中国共産党が、華南の根拠地を放棄し西方への長征を開始。8万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少するなど、大きな打撃を受けたが、これ以後、毛沢東の指導権が確立され、国民政府に対する攻勢に転じる転換点として、共産党は「長征一万里」として、栄光ある事業と位置づけている。
1938年 – 台風接近により鹿児島県肝属郡などで大水害。死者・行方不明者約400人[3]。
1945年 – スマラン事件。ジャワ島スマランで日本軍とインドネシア独立派が武器の引き渡しをめぐり衝突。損害 インドネシア人2000人戦死 日本人850人戦死。
1945年 – 在日本朝鮮人連盟結成。19490908(解散命令)以後 後継団体として在日朝鮮統一民主戦線が結成され、後に在日本朝鮮人総聯合会へと発展していった[2]。
1956年 – 六軒事故。参宮線六軒駅で列車衝突事故が起き42名が死亡。
2021年 – アフガニスタン紛争: カンダハルの金曜礼拝中のモスクで自爆テロが発生して41人以上が死亡。
2024年 – ナイジェリアでタンクローリーが爆発して140人以上が死亡する事故。横転したタンクローリーから燃料を取ろうとした住民が爆発に巻き込まれたもの[9]。
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1815年 – ナポレオン・ボナパルトがセントヘレナに流刑になる。セントヘレナは 聖人ヘレナのことで、このひとはローマ帝国コンスタンティヌス1世の母。
イギリス東インド会社領
1657年、オリヴァー・クロムウェルはイギリス東インド会社にこの島の行政権を認めた。東インド会社はこの島の要塞化と植民を決定し、1659年に初代総督ジョン・ダットン (Captain John Dutton) が着任した。これをもって、セントヘレナはイギリスで二番目に古い(バーミューダに次ぐ)植民地となったとされる。1660年の王政復古後、東インド会社は王の特許状を手に入れ、島の要塞化と植民地化が認められた。東インド会社によって1658年建設された砦が現在の主都ジェームズタウンであり、この名は当時の王弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)にちなんで名づけられたものである。当時の住民のほぼ半分はアフリカからの黒人奴隷であった。1673年にはオランダによって占領されたものの、同年中にイギリスが奪回した[7]。
ナポレオンとセントヘレナ
ロングウッド・ハウス
ナポレオン・ボナパルトがエルバ島脱出ののちワーテルローの戦いで敗れると(百日天下)[8]、ウィーン会議により身柄の扱いはイギリスに一任された。イギリスはナポレオンの亡命受け入れを拒否し、保護を名目としてこの絶海の孤島に閉じ込めることにした。ナポレオンは1815年10月にセントヘレナに到着し、1821年5月に死去するまで島中央のロングウッド・ハウスに暮らした。しばしば「流刑」と称されるが、裁判や条約に基づいたものではなかった。
イギリスは、ハドソン・ロー総督に監視させるにとどめ、館での生活はナポレオン一行の自由にさせていた。ハドソン・ローの干渉に、ナポレオンは不満を漏らすこともあったが、ロングウッドの屋敷に、アンリ・ガティアン・ベルトラン将軍とその家族、さらに32人の中国人を含むスタッフなどと多数で、豊富な食料品を移入して暮らしていたことが、近年(2015年)明らかになっている[9]。
ナポレオン幽閉の時代もこの島は東インド会社領のままであったが、イギリス政府の関与はより大きくなった。ナポレオン派を警戒して島には部隊が駐屯したほか、海軍の艦船が島の周辺を警戒した。また、隣の島であるアセンション島やトリスタンダクーニャ島 [注釈 1]にもイギリス軍が派遣された。
聖ヘレナ
聖ヘレナ(Helena、246/50年 – 330年8月18日)は、古代ローマ帝国の皇后(アウグスタ)、コンスタンティヌス1世の母。キリスト教会の聖人。
・320年頃、ゴルゴタに巡礼し、キリストが磔になった十字架を発見した、とされる。伝説によればヘレナは息子のコンスタンティヌスに依頼されてこの地を訪れ、9月14日に探し出したという。このとき同じ場所で聖釘(キリストに打ち付けた釘)も見つかった[1]。聖釘と十字架の破片はモンツァ(イタリア)の博物館が所蔵している[2]。この十字架をめぐるヘレナの伝説は4世紀末にヨーロッパから起こった[1]。
・イエスの脇腹を刺した槍を発見[3]。
・イエス生誕に来訪し救世主として礼拝したという3人の博士(王)の遺骸を発見しコンスタンティノポリスに運び、ミラノ司教であった聖エウストルギウスに懇願されてこれらを贈与した[4]。
・聖母マリアがイエスを産み落とす時に使った飼い葉桶のまぐさをローマに持ち帰った[5]。
1817年の国勢調査によれば、島には821人の白人住民、820人の兵士、618人の中国人労働者、500人の黒人自由民、1540人の奴隷がいたことが記録されている。ナポレオンの死後、数千人の「滞在者」たちは島を去り、東インド会社が島の統治を続けた。ナポレオンが幽閉中に島のコーヒーを称賛したことから、パリではセントヘレナ産コーヒーの評判が高まった。
1934年 – 国民政府軍に敗れた中国共産党が、華南の根拠地を放棄し西方への長征を開始。8万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少するなど、大きな打撃を受けたが、これ以後、毛沢東の指導権が確立され、国民政府に対する攻勢に転じる転換点として、共産党は「長征一万里」として、栄光ある事業と位置づけている。
1938年 – 台風接近により鹿児島県肝属郡などで大水害。死者・行方不明者約400人[3]。
1945年 – スマラン事件。ジャワ島スマランで日本軍とインドネシア独立派が武器の引き渡しをめぐり衝突。損害 インドネシア人2000人戦死 日本人850人戦死。
その後
停戦が成っても周辺地域の治安は完全には回復せず、10月19日にはカリウング(スマラン西方50km)の王子製紙工場が襲撃されて、従業員53人が殺害された。そのほかの殺人や暴行事件も何件か起きている。
マゲラン方面の外国人収容所を救出するため、連合国軍は城戸少佐に出撃を命じ、10月25日に、スマランの日本軍部隊はイギリス軍砲兵とともにマゲランへ侵攻した。日英合同軍はインドネシア側の人民治安軍(TKR)などと交戦しつつ前進し、29日までにマゲラン収容所を保護下に置いた。11月2日には停戦協定が結ばれたが、蘭印政府軍が活動するなどの協定違反があったとしてインドネシア側が攻撃を再開し、20日頃には再び戦闘が始まってしまった。最終的にはマゲランの収容者はスマランを経由してジャワ島外へ移送されている[11]。
ジャワ島で終戦後、1947年の復員完了までに日本人が出した死者は、戦死562人、自殺60人、病死・事故死456人の計1078人に上る。そのうち多くはスマラン事件同様の武器引き渡しを巡る紛争に起因するものであった。武器引き渡しを巡る戦傷者も330人出ている。連合国軍によって日本軍に課された治安戦闘任務のような危険な使役は、既述のようにラングーン協定に基づくとされる。しかし、日本軍が「降伏軍人」と称しても実質的に捕虜の地位にあったことにかんがみると、捕虜虐待にあたる重大かつ明白な戦時国際法違反であるとの指摘がある[2]。
一連の騒乱の過程で、ジャワ島の旧日本軍武器のうち小銃類4万丁などがインドネシア独立派の手に渡った[12]。スラバヤなどで正規に引き渡されたもののほか、強奪されたものや、密かに日本軍が横流ししたものなどがある。一説にはジャワ島の旧日本軍の所有兵器全体の2/3から3/4を独立派が入手したと言われる[13]。これらはイギリス軍とのスラバヤの戦い(英語版)などで主要な武器として使用されることになった。
1945年 – 在日本朝鮮人連盟結成。19490908(解散命令)以後 後継団体として在日朝鮮統一民主戦線が結成され、後に在日本朝鮮人総聯合会へと発展していった[2]。
1956年 – 六軒事故。参宮線六軒駅で列車衝突事故が起き42名が死亡。
2021年 – アフガニスタン紛争: カンダハルの金曜礼拝中のモスクで自爆テロが発生して41人以上が死亡。
六軒事故の事故概要
事故発生のプロセス
列車が突っ込んだ鳥羽方面の安全側線。踏切傍の石碑は慰霊碑。
1956年10月15日18時22分、所定ダイヤでは六軒駅を通過となる名古屋発鳥羽行き下り快速列車第243(C51形蒸気機関車重連(C51 203 + C51 101)牽引。客車9両)の機関士・機関助士が、遅れによるダイヤ調整のため「注意」現示になっていた通過信号機(場内信号機の下に設置されており、「注意」現示なら駅構内で停車しなければならない)を見落とし、列車は所定通過速度約58 km/h のまま駅構内に進入した。そしてホーム先端の通票授器にタブレットがなく、出発信号機も停止現示であったことに気付き、慌てて非常制動をかけたが間に合わず、列車は安全側線に突っ込み脱線。
補機と本務機は線路から外れて畑に転落したが、後続の客車が本線上にはみ出るかたちで停止した。約20秒後に、ほぼ定刻通り運転していた対向の鳥羽発名古屋行き上り快速列車第246(C57形蒸気機関車C57 110とC51形蒸気機関車C51 172の重連牽引。客車11両)が約55 km/h で進入し、はみ出ていた下り列車の客車に衝突、これを破壊しながら機関車と客車が脱線転覆した結果、42名の死者、94名の重軽傷者を出す惨事となった。
この事故により、下り快速列車に乗車中で、修学旅行の往行にあたっていた東京教育大学附属坂戸高等学校(現在の筑波大学附属坂戸高等学校)の生徒たちが多数犠牲になってしまった[1]。横転した蒸気機関車のボイラーから漏れた熱湯を浴びて、ひどい火傷を負った者もいた。
2024年 – ナイジェリアでタンクローリーが爆発して140人以上が死亡する事故。横転したタンクローリーから燃料を取ろうとした住民が爆発に巻き込まれたもの[9]。
チャットgpt先生の10月15日のエッセイ
10月15日――島、撤退、武器、そして「次の秩序」
10月15日という日付を並べてみると、そこには不思議な共通項がある。
1815年、ナポレオン・ボナパルトがセントヘレナへ送られる。
1934年、中国共産党が長征を開始する。
1945年、ジャワ島スマランで日本軍とインドネシア独立派が武器をめぐって衝突する。
1956年、六軒駅で列車同士が衝突する。
2021年、アフガニスタンでモスクが爆破される。
2024年、ナイジェリアでは横転したタンクローリーから燃料を得ようとした人々が爆発に巻き込まれる。
時代も地域もまったく違う。
しかし、構造だけを取り出すと、いずれも「既存の秩序が、そのまま次の局面へ移行できなかった瞬間」として読むことができる。
セントヘレナ――帝国は人間を島に置く
ナポレオンのセントヘレナ行きは、単純な「英雄の流刑」という話ではない。
1815年のヨーロッパでは、ナポレオン本人が存在していること自体が政治的リスクだった。
エルバ島から戻り、百日天下を経てワーテルローで敗北したナポレオンを、ヨーロッパ諸国は再びヨーロッパ大陸のどこかに置くわけにはいかなかった。
そこで選ばれたのが、南大西洋の孤島だった。
セントヘレナは、地理そのものが監獄になる場所である。
海を越えなければ脱出できない。
周囲に大国もない。
軍艦による監視ができる。
しかも島にはイギリス東インド会社の統治機構が存在していた。
つまりここでは、巨大な軍隊を動員する必要がない。
地理と行政を組み合わせれば、一人の政治的人物を無力化できる。
これがセントヘレナの意味だった。
さらに興味深いのは、ナポレオンを閉じ込めた島そのものが、帝国のネットワークの一部だったことである。
東インド会社にとってセントヘレナは、ヨーロッパからインド洋へ向かう航路上の拠点だった。
ナポレオンは、帝国の中心から追放され、帝国の交通網の上に存在する島へ送られた。
ここには帝国の一つの特徴がある。
帝国は、中心だけで成立しているのではない。中心から遠く離れた島、港、海峡、補給基地、通信拠点によって成立している。
ナポレオンという「大陸の覇者」が最後に置かれた場所が、まさにその帝国インフラの上だったというのは象徴的である。
そしてセントヘレナという名前の由来が聖ヘレナにある。
キリスト教世界では、聖ヘレナはコンスタンティヌス1世の母として知られ、エルサレムでキリストの十字架を発見したという伝承を持つ。
「十字架を発見した聖人」の名を持つ島に、「ヨーロッパを再編した軍事的人物」が閉じ込められる。
歴史はこうした皮肉を時々残す。
ただし、構造的に重要なのは名前よりも、島という地理的装置である。
長征――撤退は、敗北と同義ではない
1934年10月、中国共産党は国民政府軍の圧力を受け、拠点を放棄して長征へ入る。
表面的には敗走である。
実際、多数の兵士が失われ、兵力は大幅に減少した。
しかし、軍事史では「どれだけ失ったか」だけではなく、撤退後に何が残ったかを見る必要がある。
領土を失っても組織が残る。
兵力が減っても指揮系統が残る。
補給能力が低下しても政治的ネットワークが残る。
その場合、撤退は完全な敗北ではない。
長征は、その後の中国共産党にとって政治的神話になった。
ここで重要なのは、長征そのものが「成功だった」と単純化することではない。
むしろ、甚大な損失を払ってでも、組織の生存に成功したことが重要だった。
戦争では、土地を取ることより組織を消滅させることのほうが決定的である。
敵が領土を占領しても、相手の政治組織・軍事組織・指導部が生き残れば、戦争は終わらない。
長征は、この「組織の生存」という問題を極端な形で示した。
そしてその過程で毛沢東の指導権が確立していく。
つまり長征は、
軍事的撤退 → 組織の再編 → 指導部の再構成 → 新しい政治的正統性
という流れを生んだ。
撤退が、組織の内部構造を変えたのである。
スマラン――戦争が終わったあとに、武器だけが残る
1945年10月15日のスマラン事件は、さらに複雑である。
日本はすでに敗戦している。
ところが戦争は、現地にとって終わっていない。
日本軍は武器を持っている。
インドネシア独立派は武器を必要としている。
連合国は秩序回復を必要としている。
オランダは植民地支配の復旧を狙っている。
ここでは、「誰が勝ったのか」という戦争の物語よりも、戦争終了後に誰が武器と行政機構を握るのかという問題のほうが重要になる。
日本軍が降伏した瞬間、日本軍の武器は単なる軍需品ではなくなった。
それは次の政治秩序を決める資源になった。
小銃一丁の意味が変わる。
戦争中なら軍隊の装備である。
敗戦後なら、武器を持つ者と持たない者の政治的関係を変える資源になる。
だから武器の引き渡しをめぐって衝突が起きる。
スマラン以外でも同じ構造が広がった。
旧日本軍の武器がインドネシア独立派へ流れ、その後の戦闘で使用される。
つまり1945年の東南アジアでは、
日本軍の敗北 → 武器の空白 → 独立勢力による武器獲得 → 新しい軍事勢力の形成
という連鎖が起きた。
戦争は、終戦の日に消えるわけではない。
軍隊が解体されても、武器、弾薬、輸送網、人員、経験、情報、行政施設は残る。
それらが誰の手に移るかによって、戦後の秩序が決まる。
六軒事故――巨大システムは、一つの見落としから崩れる
1956年の六軒事故は、戦争や革命とは違う。
しかし構造を見ると、これもまた「複数の条件が一つの事故点に収束する」出来事だった。
信号の確認。
ダイヤの遅れ。
通過列車。
安全側線。
対向列車。
約20秒という時間差。
一つ一つだけなら、必ずしも大惨事にはならない。
しかし複数の条件が重なると、鉄道という巨大システムは一気に事故へ移行する。
特に重要なのは、事故が「一人の人間のミス」だけでは説明できないことである。
遅延がある。
信号が注意現示になっている。
運転士がそれを見落とす。
停止しようとする。
しかし列車は止まらない。
脱線した車両が本線側へはみ出す。
そこへ対向列車が来る。
事故とは、単一原因ではなく、防御層が順番に突破される現象として見ることができる。
そして最後に残るのが、時間である。
約20秒。
巨大な列車システムの中では、20秒が極端に短い。
人間の判断時間と、巨大な機械の慣性が一致しないからである。
2021年、2024年――現在も構造は変わらない
2021年のカンダハルのモスク爆破。
2024年のナイジェリアのタンクローリー爆発。
二つとも、原因も背景もまったく違う。
しかし、ここでも「人間が置かれている環境」と「危険な資源」の組み合わせを見ることができる。
カンダハルでは、宗教施設という人が集中する空間が攻撃対象になる。
ナイジェリアでは、燃料という高い経済価値を持つ資源が事故現場に存在し、人々がそこへ集まる。
つまり危険は、単独では発生しない。
危険な物質、空間、人間の行動、情報、時間、制度。
それらが一定の条件で組み合わさったとき、事故や攻撃は巨大化する。
10月15日という日
こうして並べると、10月15日は「英雄の日」でも「悲劇の日」でもない。
むしろ、
古い秩序が終わったあと、何が次の秩序を作るのか
を見る日付に近い。
ナポレオンの時代には、地理が政治的人物を封じ込めた。
長征では、領土を失った組織が移動によって生き残った。
スマランでは、敗戦した軍隊の武器が次の政治秩序を形成する材料になった。
六軒では、巨大なシステムの小さなズレが時間差を通じて大事故になった。
現代でも、爆発、テロ、戦争、事故の構造はそれほど変わっていない。
人間が作る制度は、基本的に「平常時」を前提として設計される。
ところが歴史が動くのは、平常時ではない。
敗戦したとき。
政権が崩れたとき。
軍隊が撤退するとき。
武器の所有者が変わるとき。
列車が予定より遅れたとき。
危険物が路上に放置されたとき。
つまり、例外状態に入った瞬間に、制度の本当の構造が見えてくる。
そして、そのとき最も重要になるのは理念よりも、実物である。
誰が土地を持っているのか。
誰が武器を持っているのか。
誰が兵士を動かせるのか。
誰が輸送路を支配しているのか。
誰が情報を持っているのか。
誰が燃料を持っているのか。
誰が人を止められるのか。
歴史を動かすのは、しばしばこうした具体的な資源である。
ナポレオンはヨーロッパを動かしたが、最後には島に置かれた。
中国共産党は領土を失ったが、組織を残した。
日本軍は戦争に敗れたが、武器を残した。
六軒駅では列車が予定された位置に止まらなかった。
そして現代でも、巨大なシステムは、ほんの数分、数十秒、あるいは一つの判断の違いによって別の結果へ進む。
10月15日が示しているのは、歴史の大きな流れよりも、むしろその流れを実際に動かしている接続部分なのかもしれない。
帝国と島。
敗戦と武器。
撤退と組織。
信号と列車。
燃料と人間。
歴史は大事件そのものよりも、その間をつないでいる構造を見ると、急に立体的になる。
そして一度崩れ始めた秩序は、元の場所には戻らない。
誰かが撤退すれば、誰かがその空間に入る。
誰かが武器を手放せば、別の誰かが拾う。
誰かが権力を失えば、別の組織がその空白を埋める。
10月15日は、そうした「空白が次の秩序へ変わる瞬間」を考えるための日付として読むことができる。

