10月15日
20251015水曜日旧暦8月24日先勝(丁巳ひのとみテイシ)月齢 23.2
乙巳きのとみ年丙戌ひのえいぬ月丁巳ひのとみ日 年末まであと77日
吉方位 隠遁日 丁巳ひのとみ日
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10月15日の出来事
1815年 – ナポレオン・ボナパルトがセントヘレナに流刑になる。セントヘレナは 聖人ヘレナのことで、このひとはローマ帝国コンスタンティヌス1世の母。
1934年 – 国民政府軍に敗れた中国共産党が、華南の根拠地を放棄し西方への長征を開始。8万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少するなど、大きな打撃を受けたが、これ以後、毛沢東の指導権が確立され、国民政府に対する攻勢に転じる転換点として、共産党は「長征一万里」として、栄光ある事業と位置づけている。
1938年 – 台風接近により鹿児島県肝属郡などで大水害。死者・行方不明者約400人[3]。
1945年 – スマラン事件。ジャワ島スマランで日本軍とインドネシア独立派が武器の引き渡しをめぐり衝突。損害 インドネシア人2000人戦死 日本人850人戦死。
1945年 – 在日本朝鮮人連盟結成。19490908(解散命令)以後 後継団体として在日朝鮮統一民主戦線が結成され、後に在日本朝鮮人総聯合会へと発展していった[2]。
1956年 – 六軒事故。参宮線六軒駅で列車衝突事故が起き42名が死亡。
2021年 – アフガニスタン紛争: カンダハルの金曜礼拝中のモスクで自爆テロが発生して41人以上が死亡。
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1815年 – ナポレオン・ボナパルトがセントヘレナに流刑になる。セントヘレナは 聖人ヘレナのことで、このひとはローマ帝国コンスタンティヌス1世の母。
イギリス東インド会社領
1657年、オリヴァー・クロムウェルはイギリス東インド会社にこの島の行政権を認めた。東インド会社はこの島の要塞化と植民を決定し、1659年に初代総督ジョン・ダットン (Captain John Dutton) が着任した。これをもって、セントヘレナはイギリスで二番目に古い(バーミューダに次ぐ)植民地となったとされる。1660年の王政復古後、東インド会社は王の特許状を手に入れ、島の要塞化と植民地化が認められた。東インド会社によって1658年建設された砦が現在の主都ジェームズタウンであり、この名は当時の王弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)にちなんで名づけられたものである。当時の住民のほぼ半分はアフリカからの黒人奴隷であった。1673年にはオランダによって占領されたものの、同年中にイギリスが奪回した[7]。
ナポレオンとセントヘレナ
ロングウッド・ハウス
ナポレオン・ボナパルトがエルバ島脱出ののちワーテルローの戦いで敗れると(百日天下)[8]、ウィーン会議により身柄の扱いはイギリスに一任された。イギリスはナポレオンの亡命受け入れを拒否し、保護を名目としてこの絶海の孤島に閉じ込めることにした。ナポレオンは1815年10月にセントヘレナに到着し、1821年5月に死去するまで島中央のロングウッド・ハウスに暮らした。しばしば「流刑」と称されるが、裁判や条約に基づいたものではなかった。
イギリスは、ハドソン・ロー総督に監視させるにとどめ、館での生活はナポレオン一行の自由にさせていた。ハドソン・ローの干渉に、ナポレオンは不満を漏らすこともあったが、ロングウッドの屋敷に、アンリ・ガティアン・ベルトラン将軍とその家族、さらに32人の中国人を含むスタッフなどと多数で、豊富な食料品を移入して暮らしていたことが、近年(2015年)明らかになっている[9]。
ナポレオン幽閉の時代もこの島は東インド会社領のままであったが、イギリス政府の関与はより大きくなった。ナポレオン派を警戒して島には部隊が駐屯したほか、海軍の艦船が島の周辺を警戒した。また、隣の島であるアセンション島やトリスタンダクーニャ島 [注釈 1]にもイギリス軍が派遣された。
聖ヘレナ
聖ヘレナ(Helena、246/50年 – 330年8月18日)は、古代ローマ帝国の皇后(アウグスタ)、コンスタンティヌス1世の母。キリスト教会の聖人。
・320年頃、ゴルゴタに巡礼し、キリストが磔になった十字架を発見した、とされる。伝説によればヘレナは息子のコンスタンティヌスに依頼されてこの地を訪れ、9月14日に探し出したという。このとき同じ場所で聖釘(キリストに打ち付けた釘)も見つかった[1]。聖釘と十字架の破片はモンツァ(イタリア)の博物館が所蔵している[2]。この十字架をめぐるヘレナの伝説は4世紀末にヨーロッパから起こった[1]。
・イエスの脇腹を刺した槍を発見[3]。
・イエス生誕に来訪し救世主として礼拝したという3人の博士(王)の遺骸を発見しコンスタンティノポリスに運び、ミラノ司教であった聖エウストルギウスに懇願されてこれらを贈与した[4]。
・聖母マリアがイエスを産み落とす時に使った飼い葉桶のまぐさをローマに持ち帰った[5]。
1817年の国勢調査によれば、島には821人の白人住民、820人の兵士、618人の中国人労働者、500人の黒人自由民、1540人の奴隷がいたことが記録されている。ナポレオンの死後、数千人の「滞在者」たちは島を去り、東インド会社が島の統治を続けた。ナポレオンが幽閉中に島のコーヒーを称賛したことから、パリではセントヘレナ産コーヒーの評判が高まった。
1934年 – 国民政府軍に敗れた中国共産党が、華南の根拠地を放棄し西方への長征を開始。8万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少するなど、大きな打撃を受けたが、これ以後、毛沢東の指導権が確立され、国民政府に対する攻勢に転じる転換点として、共産党は「長征一万里」として、栄光ある事業と位置づけている。
1938年 – 台風接近により鹿児島県肝属郡などで大水害。死者・行方不明者約400人[3]。
1945年 – スマラン事件。ジャワ島スマランで日本軍とインドネシア独立派が武器の引き渡しをめぐり衝突。損害 インドネシア人2000人戦死 日本人850人戦死。
その後
停戦が成っても周辺地域の治安は完全には回復せず、10月19日にはカリウング(スマラン西方50km)の王子製紙工場が襲撃されて、従業員53人が殺害された。そのほかの殺人や暴行事件も何件か起きている。
マゲラン方面の外国人収容所を救出するため、連合国軍は城戸少佐に出撃を命じ、10月25日に、スマランの日本軍部隊はイギリス軍砲兵とともにマゲランへ侵攻した。日英合同軍はインドネシア側の人民治安軍(TKR)などと交戦しつつ前進し、29日までにマゲラン収容所を保護下に置いた。11月2日には停戦協定が結ばれたが、蘭印政府軍が活動するなどの協定違反があったとしてインドネシア側が攻撃を再開し、20日頃には再び戦闘が始まってしまった。最終的にはマゲランの収容者はスマランを経由してジャワ島外へ移送されている[11]。
ジャワ島で終戦後、1947年の復員完了までに日本人が出した死者は、戦死562人、自殺60人、病死・事故死456人の計1078人に上る。そのうち多くはスマラン事件同様の武器引き渡しを巡る紛争に起因するものであった。武器引き渡しを巡る戦傷者も330人出ている。連合国軍によって日本軍に課された治安戦闘任務のような危険な使役は、既述のようにラングーン協定に基づくとされる。しかし、日本軍が「降伏軍人」と称しても実質的に捕虜の地位にあったことにかんがみると、捕虜虐待にあたる重大かつ明白な戦時国際法違反であるとの指摘がある[2]。
一連の騒乱の過程で、ジャワ島の旧日本軍武器のうち小銃類4万丁などがインドネシア独立派の手に渡った[12]。スラバヤなどで正規に引き渡されたもののほか、強奪されたものや、密かに日本軍が横流ししたものなどがある。一説にはジャワ島の旧日本軍の所有兵器全体の2/3から3/4を独立派が入手したと言われる[13]。これらはイギリス軍とのスラバヤの戦い(英語版)などで主要な武器として使用されることになった。
1945年 – 在日本朝鮮人連盟結成。19490908(解散命令)以後 後継団体として在日朝鮮統一民主戦線が結成され、後に在日本朝鮮人総聯合会へと発展していった[2]。
1956年 – 六軒事故。参宮線六軒駅で列車衝突事故が起き42名が死亡。
2021年 – アフガニスタン紛争: カンダハルの金曜礼拝中のモスクで自爆テロが発生して41人以上が死亡。
六軒事故の事故概要
事故発生のプロセス
列車が突っ込んだ鳥羽方面の安全側線。踏切傍の石碑は慰霊碑。
1956年10月15日18時22分、所定ダイヤでは六軒駅を通過となる名古屋発鳥羽行き下り快速列車第243(C51形蒸気機関車重連(C51 203 + C51 101)牽引。客車9両)の機関士・機関助士が、遅れによるダイヤ調整のため「注意」現示になっていた通過信号機(場内信号機の下に設置されており、「注意」現示なら駅構内で停車しなければならない)を見落とし、列車は所定通過速度約58 km/h のまま駅構内に進入した。そしてホーム先端の通票授器にタブレットがなく、出発信号機も停止現示であったことに気付き、慌てて非常制動をかけたが間に合わず、列車は安全側線に突っ込み脱線。
補機と本務機は線路から外れて畑に転落したが、後続の客車が本線上にはみ出るかたちで停止した。約20秒後に、ほぼ定刻通り運転していた対向の鳥羽発名古屋行き上り快速列車第246(C57形蒸気機関車C57 110とC51形蒸気機関車C51 172の重連牽引。客車11両)が約55 km/h で進入し、はみ出ていた下り列車の客車に衝突、これを破壊しながら機関車と客車が脱線転覆した結果、42名の死者、94名の重軽傷者を出す惨事となった。
この事故により、下り快速列車に乗車中で、修学旅行の往行にあたっていた東京教育大学附属坂戸高等学校(現在の筑波大学附属坂戸高等学校)の生徒たちが多数犠牲になってしまった[1]。横転した蒸気機関車のボイラーから漏れた熱湯を浴びて、ひどい火傷を負った者もいた。
チャットgpt先生の10月15日のエッセイ
10月15日のエッセイ
10月15日という日付を振り返ると、歴史の濃淡が幾重にも重なり合っていることに気づかされる。カレンダーに記された一日は、単なる時間の通過点ではなく、人類が歩んできた軌跡の断片を宿している。
1815年のこの日、ナポレオン・ボナパルトはセントヘレナ島に幽閉された。大陸を震わせた「皇帝」も、最後は絶海の孤島に閉じ込められ、ひとりの人間として死を迎えることになる。裁判も条約もなく、ただ「力」によって運命を決定づけられる姿は、権力の儚さを象徴しているようだ。その舞台となったセントヘレナ島には、聖人ヘレナの名が与えられている。彼女は十字架や聖釘を発見したと伝えられる人物であり、宗教的記憶と帝国の政治が、遠い大西洋の孤島に重ねられていることは興味深い。
それから一世紀余り後、1934年10月15日には、中国共産党が「長征」を開始した。数万の兵士が山岳と河川を越え、死と脱落を繰り返しながら、生き残った者たちが新しい政治の核を形づくっていった。敗走と呼ぶこともできたその出来事を、のちに「栄光ある一万里」と語り直した歴史のダイナミズムは、ナポレオンが力を失った結末とは対照的だ。権力の消滅と誕生、この二つの出来事が同じ日に並んでいるのは偶然だが、人の営みの円環を示しているかのようである。
日本に目を移すと、1945年のスマラン事件がある。終戦後、武装解除をめぐって日本軍とインドネシア独立派が衝突し、双方に甚大な死者を出した。敗戦後も「降伏軍人」として、武器の管理や治安維持に従事させられた日本兵たちの姿は、歴史の矛盾の中に置かれている。植民地主義の終焉は、決して滑らかな道ではなかった。
さらに1956年の六軒事故。鉄道という近代文明の象徴が、人為的な過失によって一瞬にして大惨事へと転じる。修学旅行の高校生たちが犠牲になったその痛ましさは、ただの「鉄道史の一頁」ではなく、日常の中に潜む危うさを私たちに思い起こさせる。
そして2021年、アフガニスタンのモスクで自爆テロが起き、多くの命が奪われた。宗教が人々を救うものとなるのか、それとも争いの火種となるのかという問いは、聖ヘレナの時代から二千年を経た今なお繰り返されている。
10月15日。ナポレオンが見上げた大西洋の空、山岳を越え続けた長征の兵士たち、スマランの炎、六軒駅に響いた衝突音、そしてモスクの祈りの声。それらは時代も場所も異なるが、人が生き、信じ、闘い、そして倒れていった共通の証である。
年末まであと77日。季節は秋の深まりを迎え、空気は冷たさを帯びつつある。けれども、歴史の記憶を刻むこの日を過ごす私たちは、過去に繰り返された悲劇をただ記録するのではなく、未来にどう結びつけるかを問われているのだろう。
——10月15日は、歴史の残響がもっとも強く聞こえる一日かもしれない。