今日という日10月13日 1307テンプル騎士団一斉逮捕開始、ほか写真wikipedia火刑される団員
10月13日
20261013火曜日旧暦9月3日大安(57番庚申かのえさるコウシン)月齢 2.4
43番丙午ひのえうま年 35番戊戌つちのえいぬ月 57番かのえさる日
吉方位 隠遁日 庚申かのえさる日 南西 大吉 年末まであと79日
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10月13日の出来事
1307年 – フランス王フィリップ4世が、テンプル騎士団の壊滅と資産の略奪のためにフランス全土において会員を一斉に逮捕。
投獄や拷問による死亡が多かったとされている。処刑された人数は数十人程度であったと考えられており、一部の歴史学者は、直接火あぶりなどで処刑された人数は30~50人程度と推定される。
1574年(天正2年9月29日)- 伊勢国長島城の一向一揆勢が織田信長に降伏。城を退去するも、一斉射撃を受けて門徒多数が殺害。織田軍も逆襲を受け一門の武将を多数失う。(長島一向一揆)
損害 織田軍 12万中 1000人死傷 本願寺勢力 10万人中 30000人死。
1600年(慶長5年9月7日)- 大津城の戦いが始まる。
影響
この攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大津城が開城した9月15日は関ヶ原の戦いの当日であった。そのため西軍は、本来ならば関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦うという状況に陥った。結果として、大津城の落城という戦果は、その日のうちに無意味なものとなった[18]。
1812年 – 米英戦争: クィーンストン・ハイツの戦い。1812年, 10月13日
場所 オンタリオ州クィーンストン
結果 イギリス軍の決定的勝利
損害 イギリス軍1300人中 戦死傷100人 アメリカ軍1500人中 戦死傷400人残り900人は捕虜。
1931年 – 台風接近により和歌山県、高知県で被害。高知県では住民ら17人が死亡[1]。
1937年 – 第1回国民精神総動員強調週間が始まる(-19日まで)。
1972年 – パリ発モスクワ行きのアエロフロートIl-62型機がシェレメーチエヴォ国際空港への着陸に失敗して墜落、乗員乗客174名全員が死亡。
1972年 – ウルグアイ空軍機571便遭難事故。モンテビデオ発サンティアゴ行きのフェアチャイルド FH227型機がチリのアンデス山中に墜落。同年12月23日に生存者16名が救出。損害 乗客乗員45人中 29人死亡 16人生存。
1990年 – レバノン内戦が終結。
時 1975年4月13日 – 1990年10月13日
場所 レバノンの旗 レバノン
発端 アイン・ルンマーネ事件(英語版)
結果
ターイフ合意締結
キリスト教徒とムスリムの不均衡の是正
ムスリム側から選出される首相の権限強化
各武装勢力の武装解除(ヒズボラを除く)
PLOの追放
シリア軍の駐留とシリアの影響力増大
南レバノンでの紛争継続
交戦勢力 イスラエル パレスチナ解放機構 国連軍
損害 死亡者数:推定120,000–150,000人
2021年 – 2021年コングスベルグ襲撃事件が発生する。5人死亡。
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1307年 – フランス王フィリップ4世が、テンプル騎士団の壊滅と資産の略奪のためにフランス全土において会員を一斉に逮捕。
投獄や拷問による死亡が多かったとされている。処刑された人数は数十人程度であったと考えられており、一部の歴史学者は、直接火あぶりなどで処刑された人数は30~50人程度と推定する。
概要
テンプル騎士団は、構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第1次十字軍が得た「聖地エルサレムの防衛」に主要な役割を果たした。
特筆すべき点として、騎士団が保有する資産(構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など)の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。
ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は、聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の策略によって壊滅状態となり、1312年の教皇庁による異端裁判で正式に解体された。
1574年(天正2年9月29日)- 伊勢国長島城の一向一揆勢が織田信長に降伏。城を退去するも、一斉射撃を受けて門徒多数が殺害。織田軍も逆襲を受け一門の武将を多数失う。(長島一向一揆)
損害 織田軍 12万中 1000人死傷 本願寺勢力 10万人中 30000人死。
年月日:1573年9月 – 10月
場所:伊勢国長島
結果:織田軍が北伊勢を平定。本願寺勢力が長島を維持
兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、9月29日、降伏を申し出て長島から船で退去しようとしたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、この時に顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられた。これに怒った一揆衆800余が、織田軍の手薄な箇所(織田一門衆の一部の隊等)へ、裸になって抜刀するという捨て身で反撃を仕掛けた。『日本史』によれば、これは伏兵だったという。これによって信長の庶兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くの織田一族が戦死し、700 – 800人(『信長公記』)または1,000人(『フロイス日本史』)ほどの被害が出た。ここで包囲を突破した者は、無人の陣小屋で仕度を整え、多芸山や北伊勢方面経由で大坂へと逃亡した。
この失態を受けて、信長は、残る屋長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火攻めにした。城中の2万の男女が焼け死んだという。同日、信長は岐阜に向け帰陣した。
こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。
1600年(慶長5年9月7日)- 大津城の戦いが始まる。
影響
この攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大津城が開城した9月15日は関ヶ原の戦いの当日であった。そのため西軍は、本来ならば関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦うという状況に陥った。結果として、大津城の落城という戦果は、その日のうちに無意味なものとなった[18]。
1812年 – 米英戦争: クィーンストン・ハイツの戦い。1812年, 10月13日
場所 オンタリオ州クィーンストン
結果 イギリス軍の決定的勝利
損害 イギリス軍1300人中 戦死傷100人 アメリカ軍1500人中 戦死傷400人残り900人は捕虜。
1931年 – 台風接近により和歌山県、高知県で被害。高知県では住民ら17人が死亡[1]。
1937年 – 第1回国民精神総動員強調週間が始まる(-19日まで)。
標語一覧
国民精神総動員運動は、対内において、国際収支均衡確保のための外貨獲得政策となり、対外において、日本の目的が西洋的覇道でなく「八紘一宇の大理想」、換言すれば「東洋の王道」に基づき、「人類共同の敵たる共産主義」の絶滅にあることを明確にする役目を担った。しかし、実際には後者の役目が果たされたとは言い難い。逆に、企画院、興亜院、商工経済会などの官僚機構による計画経済が推進されていた。ジャーナリズムは1869年(明治2年)から新聞紙條例、新聞紙法によって統制されている状態であり、日本における検閲が存在した。
・ぜいたくは敵だ!
・日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!
・欲しがりません勝つまでは
・石油ガソリンの一滴、血の一滴
・東條首相の算術「2+2=80」
・パーマネントはやめましょう
・国民精神総動員
・進め一億火の玉だ
・遂げよ聖戦 興せよ東亜
・聖戦だ 己れ殺して 国生かせ
1972年 – パリ発モスクワ行きのアエロフロートIl-62型機がシェレメーチエヴォ国際空港への着陸に失敗して墜落、乗員乗客174名全員が死亡。
1972年 – ウルグアイ空軍機571便遭難事故。モンテビデオ発サンティアゴ行きのフェアチャイルド FH227型機がチリのアンデス山中に墜落。同年12月23日に生存者16名が救出。損害 乗客乗員45人中 29人死亡 16人生存。
1990年 – レバノン内戦が終結。
時 1975年4月13日 – 1990年10月13日
場所 レバノンの旗 レバノン
発端 アイン・ルンマーネ事件(英語版)
結果
ターイフ合意締結
キリスト教徒とムスリムの不均衡の是正
ムスリム側から選出される首相の権限強化
各武装勢力の武装解除(ヒズボラを除く)
PLOの追放
シリア軍の駐留とシリアの影響力増大
南レバノンでの紛争継続
交戦勢力 イスラエル パレスチナ解放機構 国連軍
損害 死亡者数:推定120,000–150,000人
レバノン内戦(レバノンないせん、アラビア語: الحرب الأهلية اللبنانية, ラテン文字転写: Al-Ḥarb al-Ahliyyah al-Libnāniyyah)は、レバノンで1975年から1990年にかけて断続的に発生した内戦。その規模などから第五次中東戦争とも呼ばれる。 また1982年から1985年にかけてのイスラエル軍と多国籍軍の出兵期間はレバノン戦争(英語版)もしくは第一次レバノン戦争と呼ばれる。
2021年 – 2021年コングスベルグ襲撃事件が発生する。5人死亡。
コングスベルグ襲撃事件( – しゅうげきじけん)は、ノルウェーの町コングスベルグで2021年10月13日に発生した襲撃事件。容疑者が弓矢(アーチェリー)や鋭器で人々を襲い、5人が死亡。負傷者は当初2人だともされたが[1][2]、その後は3人だとされている[3]。殺された人々のうち4人は女性で1人が男性で[3]、その年齢は50歳から70歳ほど[4][5]。当初5人は弓矢で殺害されたと誤報が流れたが、事件から5日後の10月18日に、5人は鋭器で殺害された、と警察が情報を訂正した[6]。
チャットgpt先生の10月13日のエッセイ
10月13日という日付を、善悪や教訓ではなく、権力・資源・軍事・情報・地理・偶然がどう作用したかという構造から見ると、かなり一貫した輪郭が浮かびます。
10月13日――秩序が組み替えられる日
10月13日の歴史を並べてみると、そこには奇妙な共通項がある。
1307年、フランス王フィリップ4世はテンプル騎士団の構成員を一斉逮捕した。
1574年、長島一向一揆は織田信長に降伏したものの、その後に大規模な殺戮が発生した。
1600年、大津城の戦いが始まった。
1812年、クィーンストン・ハイツの戦いが行われた。
1972年には航空機事故が二件発生し、1990年にはレバノン内戦が終結した。
2021年にはノルウェーのコングスベルグで襲撃事件が発生した。
一見すると、宗教戦争、国内戦争、国際戦争、航空事故、内戦終結、襲撃事件が並んでいるだけである。
しかし構造を見ると、別の共通点が見えてくる。
それは、既存の秩序が限界に達したとき、政治・軍事・地理・技術・情報のどこか一つが動くことで、全体の配置が一気に変わるということである。
1307年のテンプル騎士団事件は、その典型だ。
テンプル騎士団は単なる武装集団ではなかった。軍事力を持ち、ヨーロッパ各地に拠点を持ち、土地や財産を所有し、資金を移動させる仕組みを持っていた。
つまり、中世ヨーロッパの中に存在する一種の「国境をまたぐ組織」だった。
問題は、フランス王フィリップ4世にとって、その存在が政治的に便利ではなくなったことである。
王権が強くなればなるほど、国内に王とは別の資産・人的ネットワーク・軍事的信用を持つ組織は、潜在的な競争相手になる。
ここで重要なのは、テンプル騎士団が実際に反乱を計画していたかどうかではない。
権力政治において重要なのは、相手が危険であると権力者が認識できる条件が存在することである。
フィリップ4世は騎士団を攻撃し、その資産を押収する方向に動いた。
つまり1307年10月13日は、宗教史の一場面であると同時に、
「分散していた資産と権力を国家が回収する日」
として見ることができる。
ここでは宗教的理念よりも、財産、債務、組織、王権という現実的な変数が効いている。
1574年の長島一向一揆も、別の形で同じ構造を持つ。
長島は単なる城ではない。
河川と輪中に囲まれた地理的条件によって防御力を持ち、宗教的ネットワークによって人的資源を集め、織田政権に対抗できる地域的な自治圏となっていた。
つまり、織田信長が対峙したのは一つの城だけではなく、
地理+宗教+共同体+武装
という複合システムだった。
こうしたシステムを軍事的に解体する場合、城を落とすだけでは十分ではない。
人間を散らし、補給を断ち、拠点を消し、ネットワークを切断する必要がある。
長島で起きたことは、この「ネットワークの解体」として理解できる。
しかも戦争では、降伏したからといって必ずしも安全になるとは限らない。
現場の兵力配置、過去の戦闘による敵意、指揮官の判断、撤退経路などが絡み合うためである。
さらに興味深いのは、その過程で織田側にも大きな損害が出たことだ。
ここには戦争の基本的な現実がある。
優勢な側といえども、相手の抵抗コストをゼロにはできない。
長島の戦いは、軍事力の強さだけではなく、地理と共同体を含めた「抵抗能力」をどう破壊するかという問題だった。
1600年の大津城の戦いになると、戦場はさらに興味深い構造を見せる。
大津城そのものをめぐる攻防では西軍が勝利した。
しかし、戦争全体では西軍にとって有利な結果にならなかった。
理由は単純である。
戦術的勝利と戦略的勝利は別物だからだ。
大津城を攻撃するために投入された兵力は、その間、関ヶ原に存在しない。
つまり戦場Aで勝つために使った資源が、戦場Bでは使えなくなる。
軍事史では当たり前の話だが、これは企業経営でも外交でも同じである。
限られた資源を一つの問題に集中すれば、その瞬間、別の問題に投入できる資源が減る。
大津城の戦いは、
「目の前の勝利」と「全体最適」が一致するとは限らない
ことを示している。
そしてこれは1812年のクィーンストン・ハイツの戦いにもつながる。
国境を越えて攻撃する場合、兵力だけではなく、補給、地形、河川、輸送、指揮系統が重要になる。
戦場では、兵士一人ひとりの勇気よりも先に、兵站と地理が戦闘能力を決める。
戦争を人格の物語として見ると「誰が強かったか」という話になる。
しかし構造として見ると、
誰がどこに、どれだけの兵力を、どれだけ長く維持できたか
という話になる。
この違いは大きい。
そして1972年10月13日。
この日は二つの航空事故が起きた。
アエロフロート機は着陸に失敗し、乗員乗客174人全員が死亡した。
一方、ウルグアイ空軍機571便はアンデス山中に墜落し、45人のうち16人が生存した。
ここでは戦争とはまったく違う種類の「構造」が見える。
航空機は高度に複雑なシステムである。
機体、操縦、管制、気象、航法、地形、空港設備、人的判断。
そのどこかに異常が生じると、それまで積み上げられていた安全余裕が急速に失われる。
特にアンデスの事故では、墜落そのものよりも、その後の環境が問題になった。
高度、低温、雪、食料不足、通信の困難、救助能力の限界。
つまり事故は一瞬で起きても、生存を左右するのは、その後に残された環境である。
ここにも戦争と似た構造がある。
最初の出来事だけを見れば「事故」で終わる。
しかし現実には、
事故
↓
環境への曝露
↓
資源の減少
↓
意思決定
↓
生存可能性の変化
という連鎖が続いていく。
歴史的事件の多くは、この「二次効果」のほうが長く残る。
1990年10月13日、レバノン内戦が終結した。
1975年から約15年間続いた内戦で、推定12万~15万人の死者を出した。
ここで注目すべきなのは、「内戦が終わった」という事実よりも、何によって終わったのかである。
長期内戦は、単純に片方が完全勝利して終わるとは限らない。
複数の武装勢力、宗派、周辺国、大国、難民、経済利害、領土問題が絡み合うと、戦争そのものが一つの政治システムになる。
すると和平とは、単に銃を置くことではない。
各勢力の利害を再配置し、
誰が政治権力を持つのか、
誰が軍事力を保持するのか、
誰が武装解除するのか、
外国軍がどうなるのか、
宗派間の権力配分をどうするのか、
という問題を組み直す作業になる。
つまり内戦の終結とは、
暴力を止めることではなく、暴力を使わなくても各勢力が存続できる新しい均衡を作ること
なのである。
だから長い内戦の終結は、勝敗よりも「配置換え」として理解したほうが分かりやすい。
2021年のコングスベルグ襲撃事件は、これまでの大規模な歴史事件とは規模が違う。
しかし、ここにも「複雑な社会の中で、一つの出来事が突然発生する」という別種の構造がある。
国家間戦争や内戦では、原因を長期間追跡できる。
ところが個人による突発的な襲撃では、社会全体の巨大な構造と、個人の行動との間に大きな距離がある。
そのため現代社会は、巨大な軍事力を持っていても、すべての暴力を予測することはできない。
これは国家の能力の限界を示している。
国家は軍隊、警察、監視、情報機関、司法制度を持つ。
しかし、それらは「すべてを予測する装置」ではない。
巨大なシステムほど、全体を完全に制御することは難しい。
こうして10月13日の出来事を並べると、一つの共通する原理が浮かび上がる。
それは、
歴史を動かすのは、必ずしも最大の力ではない
ということである。
フィリップ4世が利用したのは、単純な軍事力だけではない。
テンプル騎士団の組織構造と資産を国家権力の側へ移すことが重要だった。
長島では、織田軍の兵力だけではなく、地理と補給を破壊することが重要だった。
大津城では、城を落とすこと自体より、そのために兵力を拘束されたことが関ヶ原に影響した。
航空事故では、巨大な航空システムの中にある小さな判断や条件の連鎖が結果を決めた。
レバノンでは、軍事的勝敗だけではなく、各勢力が受け入れられる政治的均衡が必要だった。
つまり歴史の実態は、
力 × 資源 × 地理 × 時間 × 情報 × 組織
の組み合わせで決まっていく。
そして重要なのは、これらが常に有限だということである。
兵力は有限。
資金も有限。
時間も有限。
補給能力も有限。
情報も不完全。
人間の判断力にも限界がある。
だから国家も軍隊も企業も組織も、「すべてを処理する」ことはできない。
何かを選べば、別の何かを捨てることになる。
10月13日の歴史には、その現実が繰り返し現れている。
戦争に勝っても戦略で負けることがある。
城を落としても戦争全体を失うことがある。
巨大な組織を持っていても、その組織そのものが権力者にとって脅威になることがある。
航空機の事故では、技術が極度に発達していても、一連の小さな条件が重なれば安全余裕が失われる。
内戦を終わらせるには、敵を倒すだけではなく、敵と味方が共存できる新しい配置を作らなければならない。
そして個人による突発的な事件は、巨大な国家システムにも予測限界があることを示す。
だから10月13日を一言で表現するなら、
「出来事の日」ではなく、「配置が変わる日」
と見ることができる。
歴史では、事件そのものより、その事件によって誰の資源が増え、誰の資源が減り、どの組織が残り、どのネットワークが切断され、どの勢力が次の局面に移動できたのかを見るほうが、はるかに多くのことが分かる。
歴史を動かすのは、劇的な一瞬だけではない。
その一瞬によって変化した、
人・金・土地・兵力・情報・時間の配置
である。
10月13日に並んだ事件は、時代も地域も規模も違う。
それでも、その背後では同じ原理が動いている。
有限の資源を持つ主体が、不完全な情報のもとで選択し、その選択が別の主体の選択を変え、最終的に全体の均衡が移動する。
歴史とは、その繰り返しである。

