kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月12日   1492コロンブス上陸、ほか写真wikipedia後に駆逐される原住民

10月12日

20251012日曜日旧暦8月21日仏滅(甲寅きのえとらコウイン)月齢 20.2

乙巳きのとみ年丙戌ひのえいぬ月甲寅きのえとら日 年末まであと80日

吉方位 隠遁日 甲寅きのえとら日 南西 吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8812%E6%97%A5

10月12日の出来事

紀元前539年 – ペルシャ国王キュロス2世が新バビロニア王国の首都バビロンを占領。

1492年 – クリストファー・コロンブス率いるスペイン船隊が西インド諸島に初上陸。

1654年 – デン・ハーグの南に位置するデルフトで弾薬庫の火薬が爆発。市街の4分の1が破壊され、100人以上が死亡。

1939年 – 栃木県日光町内で、東武日光線の下り電車が脱線して河原へ転落。死者18人、負傷者87人[2]。

2000年 – 米艦コール襲撃事件発生。イエメンのアデン港でアルカーイダメンバーによる自爆テロ。米兵17名が死亡。

2002年 – バリ島爆弾テロ事件 (2002年): インドネシアバリ島のナイトクラブで爆弾テロ。202人が死亡、300人以上が重軽傷。

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1492年 – クリストファー・コロンブス率いるスペイン船隊が西インド諸島に初上陸。

コロンブス1451―15060520

クリストファー・コロンブス(1451年[注 1]- 1506年5月20日)は、大航海時代の探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人。定説ではイタリアのジェノヴァ出身[1]。ランス・オ・メドーが発見されるまではキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したとされていた。

彼の実績により彼の子孫はスペイン王室よりベラグア公爵とラ・ベガ公爵(スペイン語版)に叙され、2024年現在までスペイン貴族の公爵家として続いている。

1492年「新大陸」上陸

コロンブスの航路

そして10月11日の日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。

1493年

1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上がり、周辺諸島ではアラワク族、タイノ族、ルカヤン族、カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。

最終的に、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。

1495年

1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れたインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、欧州人が繰り返した殺戮モデルとなった[30]。

コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化され、 あらゆる部族の子供以外のインディアンが、3か月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けたインディアンには、「スペイン人に敬意を表した」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。

コロンブスらスペイン人の幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったため、死にたくなかったインディアンたちは、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった。インディアンが逃亡を始めると飢饉はさらに悪化した。コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となったインディアンたちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。そしてコロンブスたちと同じく、スペイン軍は面白半分に男を殺し女を犯す楽しみを決してやめなかった。

1654年 – デン・ハーグの南に位置するデルフトで弾薬庫の火薬が爆発。市街の4分の1が破壊され、100人以上が死亡。

1939年 – 栃木県日光町内で、東武日光線の下り電車が脱線して河原へ転落。死者18人、負傷者87人[2]。

2000年 – 米艦コール襲撃事件発生。イエメンのアデン港でアルカーイダメンバーによる自爆テロ。米兵17名が死亡。

米艦コール襲撃事件(べいかんコールしゅうげきじけん)は、2000年10月12日に発生した、国際テロ組織アルカーイダによるアメリカ海軍所属のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦「コール」(USS Cole, DDG-67)に対する自爆攻撃である。

概要

コールを運搬中の重量物運搬船「ブルー・マーリン」

2000年10月12日、ミサイル駆逐艦「コール」(艦長、カーク・リッポルド中佐(CDR, Kirk Lippold)は定時燃料補給のため、イエメンのアデン港に停泊中であった。09:30に係留作業を完了し、燃料補給は10:30に開始された。現地時間11:18(08:18 UTC)、小型ボートが艦の左舷に接近し、自爆した。爆発によって左舷に12x18mの破孔が生じ、艦は大きく損傷した。これにより大量の浸水が発生し、ダメージコントロールの努力によりその日の晩までに機関部への浸水を食い止めることに成功したが、完全に浸水を止めるには3日間を要した。浸水を食い止めた後にダイバーが船体を検査したが、竜骨の損傷は認められなかった。

自爆攻撃は2名のテロリスト、イブラヒム・アル=サウアとアブドラ・アル=ミサワによって行われた。彼らは、オサマ・ビンラディンの率いるテロ組織、アルカーイダのメンバーであった。アルカーイダは同年1月3日に同じアデン港でミサイル駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」を同様の自爆攻撃で撃沈する予定であったが、ボートに搭載した爆薬の量が多すぎて失敗していた。そのため、マレーシアのクアラルンプールで1月5日から極秘裏に行われたアルカーイダの最高首脳会議で改めて計画が策定された。

攻撃は、ガラス繊維強化プラスチック製の小型ボートを用い、被害の規模から算定されたところでは約180kgから320kgの爆薬を搭載しており、爆薬は成形炸薬として加工されていたと推定されている[1]。

この自爆攻撃により17名の水兵が死亡し、39名が爆風で負傷した。負傷者はドイツのラムシュタイン空軍基地にあるラントシュトゥール戦域医療センター(LRMC)に搬送され、その後本国へ帰還した。

2002年 – バリ島爆弾テロ事件 (2002年): インドネシアバリ島のナイトクラブで爆弾テロ。202人が死亡、300人以上が重軽傷。

概要

2002年10月、バリ島南部の繁華街クタで、路上に止めてあった自動車爆弾が爆発、向かいのディスコ(サリクラブ)など多くの建物が吹き飛んで炎上し、外国人観光客を含む202名が死亡した。犯行声明は無かったが、インドネシア当局は国内のイスラム過激派「ジェマ・イスラミア」(Jemaah Islamiyah、通称JI)幹部の多数を犯行容疑で拘束した。世界有数の観光地で発生したテロは衝撃を与えた。

この爆弾テロによる被害者は21ヶ国の外国人観光客に及び、88名のオーストラリア人、38人のインドネシア人、28人のイギリス人を含んだ[1]。2008年11月9日、インドネシア政府は実行犯3名の死刑を執行した。現地近くには犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑が建てられ、毎年10月12日に慰霊祭が行われている[2]。

チャットgpt先生の10月12日のエッセイ


10月12日 ― 発見と破壊の交差点

10月12日は、人類史のなかで「発見」と「破壊」が交錯する日である。

1492年、この日コロンブスの船隊が西インド諸島に到達し、サン・サルバドル島に上陸した。長らく「新大陸発見」と称えられてきた出来事である。しかし同時に、それは先住民にとって、虐殺と収奪、強制労働と疫病の流入の幕開けでもあった。コロンブス自身が主導した虐殺や奴隷化の記録は、発見の栄光を覆い隠すほどの暗い影を残している。文明の拡大と進歩は、しばしば他者の犠牲によって築かれるという歴史の残酷な事実を、10月12日は象徴している。

時を経て、この日付は偶然のように、破壊の出来事と重なっていく。1654年、デルフトの火薬庫爆発。1939年、日光での鉄道脱線事故。いずれも都市や人々の暮らしを一瞬で崩壊させ、命を奪った。20世紀に入るとその破壊は、自然や事故ではなく人為的な暴力として現れる。2000年、イエメン・アデン港での米艦コール襲撃事件。そして2002年、バリ島の爆弾テロ。いずれも無辜の人々を巻き込み、世界に恐怖と怒りを刻みつけた。

こうした歴史の連なりを眺めると、10月12日は「人類が他者と出会う日」であり、その出会いが協力や共生ではなく、暴力と支配に傾いたとき、悲劇が生まれることを示しているように思える。発見は本来、新しい世界を知り、互いに学び合う可能性を持つ。だがそこに欲望や権力が絡むと、発見は征服へと転じ、交流は破壊へとすり替わる。

今日、私たちは「国際化」や「グローバル化」を当たり前のものとして受け入れている。しかしその基盤には、コロンブス以降の暴力的な歴史が伏流のように横たわっている。10月12日を記憶することは、その歴史の光と影をともに見つめ、未来において「出会い」を暴力ではなく理解と尊重に結びつけるための課題を思い出すことなのだろう。

年末まであと80日。去りゆく一年を振り返る季節に、この日が与える問いは重い。人類が「発見」を祝うためには、まず「破壊の記憶」を忘れずに受け止めることから始めなければならない。