kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月10日  680カルバラーの戦い、ほか写真wikipedia大軍とフセイン軍

10月10日

20251010金曜日旧暦8月19日友引(壬子みずのえねジンシ)月齢 18.2

乙巳きのとみ年丙戌ひのえいぬ月壬子みずのえね日  年末まであと82日

吉方位 隠遁日 壬子みずのえね日

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8810%E6%97%A5

10月10日の出来事

680年 – カルバラーの戦い。

ウマイヤ朝第2代カリフヤズィード1世の派遣した軍勢と、第4代正統カリフアリーの次男フサインの戦闘というか抹殺。前者三万人対フサイン一族150人。損害 150人は全滅。

732年 – トゥール・ポワティエ間の戦い。場所           フランスのトゥールとポワティエの間 結果                 フランク王国の勝利、ウマイヤ朝の撤退  損害 フランク軍 1万人中 戦死傷1500人 ウマイヤ軍6万人中 不明だが甚大。

1780年 – 1780年のグレートハリケーンがバルバドス周辺海域を通過。カリブ海の諸島で死者約2万人を出す、歴史上最悪の被害を出したハリケーンとなる。損害:オーストリア軍 イタリア軍 双方で死傷5万人以上。

戦争:第一次世界大戦

年月日:1916年10月10日 – 10月12日

場所:イゾンツォ川、西スロベニア

結果:オーストリア=ハンガリー軍の勝利(イタリア軍攻勢失敗)

戦闘

8度目の攻勢は、第七次イゾンツォを継続する形で行われた。ルイージ・カドルナ参謀総長はあくまでゴリツィアから北東部への進出に固執したが、第7次・第9次攻勢と共にこの試みは領土面での前進には繋がらなかった。短期間での相次ぐ攻勢計画はイタリア側にも重い負担となり、数日後に攻勢は終了した。果てしない攻勢は11月1日に第9次攻勢として再開される。

1933年 – ユナイテッド航空機チェスタートン爆破事件が発生。死亡7人(全員)。

1944年 – 第二次世界大戦:米軍が沖縄本島を初空襲、那覇市の9割を焼失し死者548人。(十・十空襲)

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680年 – カルバラーの戦い

ウマイヤ朝第2代カリフヤズィード1世の派遣した軍勢と、第4代正統カリフアリーの次男フサインの戦闘というか抹殺。前者三万人対フサイン一族150人。損害 150人は全滅。

預言者ムハンマドの聖裔家(アフル・アル=バイト)に連なるアリーの一族のみがカリフに就き得るとする勢力とウマイヤ朝との決裂は決定的となり、シーア派が形成される端緒となった。後に第3代イマームとなるフサインが殉教した戦いとして、シーア派にとっては重大な日であり、毎年ムハッラム月の最初の10日間は追悼の催しが行われる。[7]

732年 – トゥール・ポワティエ間の戦い。場所           フランスのトゥールとポワティエの間 結果                 フランク王国の勝利、ウマイヤ朝の撤退  損害 フランク軍 1万人中 戦死傷1500人 ウマイヤ軍6万人中 不明だが甚大。

トゥール・ポワティエ間の戦い(トゥールポワティエかんのたたかい、フランス語: Bataille de Poitiers、アラビア語: معركة بلاط الشهداء‎)は、732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間で、フランク王国とウマイヤ朝の間で起こった戦い。ツール・ポアティエの戦いと呼称することがある。

その後も735-739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したがカール・マルテル率いるフランク王国連合軍により撃退された。

1780年 – 1780年のグレートハリケーンがバルバドス周辺海域を通過。カリブ海の諸島で死者約2万人を出す、歴史上最悪の被害を出したハリケーンとなる。

1780年に発生した「グレート・ハリケーン (Great Hurricane of 1780) 」は、大西洋を襲ったハリケーン(熱帯低気圧)の中でも、史上最悪の被害をもたらしたハリケーンとみなされている。1780年10月10日から10月16日にかけてこのハリケーンに襲われたカリブ海の小アンティル諸島の、マルティニーク島、シント・ユースタティウス島、バルバドス島などは、およそ2万2千人が死亡するという壊滅的な被害を受けた。[1] また、海上での死者も数千人に上ると見られている。

人的被害の大きなハリケーン

1位:グレート・ハリケーン(1780年)、小アンティル諸島、フロリダ、ジョージアで22,000人

2位:ハリケーン・ミッチ(1998年)、ホンジュラスを中心に中米で9,000人-18,000人

3位:ガルベストン・ハリケーン(1900年)、テキサス州ガルベストンを中心に8,000人-12,000人

4位:ハリケーン・フィフィ(1974年)、ホンジュラスを中心に中米で8,000人-10,000人

5位:ドミニカ共和国ハリケーン(1930年)、ドミニカ共和国、ハイチ共和国などイスパニョーラ島を中心に2,000人-8,000人

1916年 – 第一次世界大戦:第八次イゾンツォの戦い。損害:オーストリア軍 イタリア軍 双方で死傷5万人以上。

戦争:第一次世界大戦

年月日:1916年10月10日 – 10月12日

場所:イゾンツォ川、西スロベニア

結果:オーストリア=ハンガリー軍の勝利(イタリア軍攻勢失敗)

1933年 – ユナイテッド航空機チェスタートン爆破事件が発生。死亡7人(全員)。

1944年 – 第二次世界大戦:米軍が沖縄本島を初空襲、那覇市の9割を焼失し死者548人。(十・十空襲

十・十空襲(じゅう・じゅうくうしゅう)または沖縄大空襲(おきなわだいくうしゅう)[1]は、第二次世界大戦(太平洋戦争)後期の1944年(昭和19年)10月10日に南西諸島の広い範囲でアメリカ海軍機動部隊が行った大規模な空襲。所在の日本軍艦船などに甚大な損害を与えるとともに、那覇市の市街地の大半が焼失するなど民間人にも大きな被害が出た。那覇市の空襲被害を特に那覇空襲と呼ぶこともある。日本軍の防衛態勢は不十分で、アメリカ艦隊に対する有効な反撃も行えなかった。

チャットgpt先生の10月10日のエッセイ


10月10日という日をめぐって

カレンダーの一日が持つ意味は、人によっては記念日であり、またある人にとっては祈念の日である。10月10日は、歴史を振り返ると「戦い」「災厄」「破壊」といった言葉が繰り返し現れる、重苦しくも考えさせられる日付である。

680年、カルバラーの戦いで預言者ムハンマドの血を引くフサインが倒れた。この戦いは数の上ではあまりに一方的でありながら、精神史的な重みは計り知れない。シーア派とスンナ派の断絶はこの瞬間に決定的となり、宗教共同体の分岐が後世にまで連鎖していく。ひとつの家族の殉教が、千年以上の宗教的・政治的対立の象徴となったのだ。

732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでは、フランク王国がウマイヤ朝の進撃を退けた。数万人の軍勢が激突したその地で、ヨーロッパの歴史の針は方向を変えたとも言える。文明の交差点で、宗教と権力の均衡が取られた瞬間だった。

そして1780年、自然はさらに冷酷であった。グレート・ハリケーンがカリブ海を襲い、2万を超える命を奪った。人の武力がいかに大軍であれ、自然の猛威には比ぶべくもない。海と風は、人間の営みを一瞬にして塵と化す。

さらに第一次世界大戦下のイゾンツォ川流域、そして太平洋戦争の十・十空襲。人が自らを「文明人」と称する時代にあっても、空から降る火と鉄は都市を焼き尽くし、数百人、数千人の命を一瞬で消し去った。沖縄の空に黒煙が立ちのぼったその日、地上の人々にとって空は脅威の象徴でしかなかっただろう。

こうしてみると、10月10日は歴史の中で「境界の日」であったように思える。信仰と権力の境界、文明の広がりの境界、自然と人間の境界、そして生と死の境界。そこには「勝利」と「敗北」という言葉が並ぶが、そのどちらも結局は無数の命を犠牲にした先にしか立ち現れない。

しかし同時に、人間はこうした出来事を「記録し」「語り継ぎ」「追悼する」。それは単なる惨劇の繰り返しを防ぐためであり、また亡くなった人々の存在を無にしないためである。

今日という一日が暦の上では平凡に見えても、歴史の襞には数え切れない血と涙が染み込んでいる。10月10日を顧みることは、同時に「人はなぜ戦い、なぜ祈り、なぜ自然に挑み、なぜまた同じ過ちを繰り返すのか」を問い直すことである。

暦は未来に向かって進み続ける。しかし10月10日の記録が語りかけてくるのは、歴史を背負いながらそれでも前に進むしかない人間の姿である。