kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月1日  1946ニュルンベルグ裁判終結、ほか写真wikipedia法廷の被告たち

10月1日

20251001火曜日旧暦8月9日仏滅(癸卯みずのとうキボウ)月齢 8.2

乙巳きのとみ年乙酉きのととり月癸卯みずのとう日 年末まであと91日

吉方位 隠遁日 癸卯みずのとう日

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%881%E6%97%A5

10月1日の出来事

紀元前331年 – ガウガメラの戦い。アレクサンダー大王がペルシア帝国を破る。損害 ギリシア連合軍 4万7千人中 戦死傷4000人 アケメネス朝ペルシア軍 15万人中 戦死傷40000人。

1933年 – 熊本県三角町の沖合で観光船(船名、トン数不詳)が沈没。乗客ら90人が死亡[2]。

1946年 – ドイツの戦争犯罪者を裁くニュルンベルク裁判が終了。

1946年 – 大邱10月事件。南朝鮮人230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起。136人が死亡。

1966年 – ウェストコースト航空956便墜落事故(英語版)。18人死亡 生存0。

2015年 – アメリカオレゴン州でアムクワ・コミュニティー・カレッジ銃撃事件が発生。10人が死亡、7人が負傷した[9]。

2017年 – 2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件[10]。死亡者                 61人(容疑者1人、事件後の2019年と2020年に合併症で死亡した2人を含む)負傷者                 867人(うち直接の銃撃によって411人)

2022年 – カンジュルハン・スタジアムの悲劇: インドネシアカンジュルハン・スタジアムにて暴動が起き、125人が死亡した[16]。

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紀元前331年 – ガウガメラの戦い。アレクサンダー大王がペルシア帝国を破る。損害 ギリシア連合軍 4万7千人中 戦死傷4000人 アケメネス朝ペルシア軍 15万人中 戦死傷40000人。

ガウガメラの戦い(ガウガメラのたたかい)は、ティグリス川上流、現在のイラク北部と推定されるガウガメラにおいて、紀元前331年10月1日に行われたアルゲアス朝(マケドニア王国)およびコリントス同盟の連合軍とアケメネス朝の戦いである。アレクサンドロス3世(大王)率いる連合軍(以下「マケドニア軍」)がダレイオス3世率いるペルシア軍を破った。アルベラの戦いともいう[1]。

1933年 – 熊本県三角町の沖合で観光船(船名、トン数不詳)が沈没。乗客ら90人が死亡[2]。

1946年 – ドイツの戦争犯罪者を裁くニュルンベルク裁判が終了。

ニュルンベルク国際軍事裁判(ニュルンベルクこくさいぐんじさいばん)は、第二次世界大戦において連合国によって行われたナチス・ドイツの戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日 – 1946年10月1日)。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれた。日本の極東国際軍事裁判(東京裁判)と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。

アメリカ合衆国最高裁・裁判長ハーラン・ストーン判事は、ニュルンベルク裁判は連合国による集団リンチであると述べている。

検事ジャクソンは、ニュルンベルクで高度な集団リンチ (high-grade lynching party in Nuremberg) を行なっている。彼がナチスに何をしているのかについては気にかけていないが、彼が法廷と審理をコモン・ローにしたがって運営しているという振りをしているのを見ることは耐え難い。

— Alpheus T. Mason, Harlan Fiske Stone: Pillar of the Law, Viking, New York 1956, p.716.

1946年 – 大邱10月事件。南朝鮮人230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起。136人が死亡。

概要

1946年5月に南朝鮮全土にコレラが流行し、慶尚北道だけで、4000人が死亡した[1]。その後、水害による交通破綻や強制拠出などにより、米価が日本統治時代に比べて10倍以上に高騰していた[1]。そのような中、9月からは市民による抗議デモが行われていたが、10月1日に大邱府庁前での抗議デモに対して南朝鮮警察が発砲して市民を射殺した。抗議活動が収拾がつかない事態となったため、10月2日にはアメリカ軍が戒厳令を布告した。これに触発され、南朝鮮全土で230万人が参加する騒乱が起きた[1]。事態を収拾するために、アメリカ軍や南朝鮮防衛隊や警察、右翼団体が投入され、136名の犠牲者が出ることになった。事件後には、南朝鮮人のアメリカ軍への支持が失われ、共産主義団体への支持が強まることとなった。

1966年 – ウェストコースト航空956便墜落事故(英語版)。18人死亡 生存0。

2015年 – アメリカオレゴン州でアムクワ・コミュニティー・カレッジ銃撃事件が発生。10人が死亡、7人が負傷した[9]。

概要

2015年10月1日午前10時頃、アムクワ・コミュニティ・カレッジに男が侵入。理系棟内の教室を移動しながら次々と学生、教師を銃撃した。

通報を受けた警察官と男は学内で銃撃戦を行い、男は死亡[2]した。

後日、男は自殺していたことが判明した[3]。

犯人像

犯人の26歳の男で精神病院への入院歴がある銃器マニアであった。

自宅には複数の銃を保管しており、当日も防弾チョッキをまとい多数の武器や弾薬を所持していた[4][5]。

2017年 – 2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件[10]。死亡者                 61人(容疑者1人、事件後の2019年と2020年に合併症で死亡した2人を含む)負傷者                 867人(うち直接の銃撃によって411人)

概要

男はマンダレイ・ベイ・ホテルの32階から大通りのラスベガス・ストリップで開かれていた音楽祭会場に向けて銃を乱射した。

現地ネバダ州在住のスティーブン・パドックがマンダレイ・ベイ・リゾート アンド カジノの32階のスイートから[3]大通りラスベガス・ストリップ沿いのラスベガス・ヴィレッジで開かれていたThe Route 91 Harvestカントリー・ミュージックフェスティバル会場に向け1049発を発砲[4]し、58人が死亡、867人が負傷した[5]。

パドックはその後、警官隊の突入前に自殺したとみられる。アメリカでの単独犯による銃乱射事件としては前年のフロリダ銃乱射事件の死傷者数を超え、史上最悪の被害となった[6][7][8]。

2022年 – カンジュルハン・スタジアムの悲劇: インドネシアカンジュルハン・スタジアムにて暴動が起き、125人が死亡した[16]。

カンジュルハン・スタジアムの悲劇(カンジュルハン・スタジアムのひげき)は、2022年10月1日にインドネシアのカンジュルハン・スタジアムで行われたサッカーの試合後に発生した暴動であり[1]、サッカー史上では1964年に発生したエスタディオ・ナシオナルの悲劇に次いで、2番目に死者数が出た事件である。

アレマFCはこの試合で、宿敵のペルセバヤ・スラバヤの山本奨に決勝点を許し2-3で敗れた[4]。アレマFCの本拠地であるマラン県でここ20年以上無かった敗戦を喫し、アレマFCのサポーターがグラウンドに侵入した[4][5]。サポーター同士の乱闘を止める為に警察官2名が死亡した為、警察が催涙剤を発射した後に暴動が起きた[6]。

死傷者

133人が死亡し、547人が負傷した[7]。その多数が呼吸困難による窒息死や圧死であり、催涙剤を発射されてパニックになった観客が、武器を持った警察官から逃げようとして一斉に出口に殺到したことで、多数の死者を出す要因となった[1][6]。

チャットgpt先生の10月1日のエッセイ


10月1日という日をめぐって

暦の上で10月1日は、年の終わりへと加速していく季節の始まりに位置する。秋分を過ぎ、空気が澄み渡り、朝夕の冷え込みが強まっていくこの頃、人の心は静けさとともに内面へ向かう傾向を強めるのかもしれない。日本では旧暦8月9日にあたり、月齢は8.2、ちょうど半月へと満ちていく途中にある。年末まで残り91日という響きには、日々の営みを見直し、今年をどう結ぶかを考えさせる力がある。

しかし歴史を振り返れば、10月1日は必ずしも穏やかな日ではなかった。むしろ人間の営みの激しさ、時に悲劇すら伴う日であることが浮かび上がってくる。

紀元前331年、ガウガメラの戦い。この日はアレクサンドロス大王がダレイオス3世の率いるペルシア帝国を打ち破り、世界史の転換点を作り上げた日である。マケドニア軍はわずか4万7千、対するペルシア軍は15万とされる。兵数の差を戦術と統率で覆した勝利は「世界史を動かした戦い」と呼ばれるにふさわしい。だがその陰には両軍あわせて数万人の犠牲があり、歴史の大いなる転換は常に流血の上に築かれることを忘れてはならない。

同じくこの日、1946年にニュルンベルク裁判が閉幕したことも象徴的だ。第二次世界大戦の惨禍のあと、ナチス・ドイツの指導者たちを裁くために開かれた国際軍事裁判。そこで語られた「正義」は、勝者の側から見た裁きであるとの批判も多い。だがそれでもなお、国際社会が「人類に対する罪」という普遍的な規範を明示したことは、戦後世界の一つの礎となった。正義と報復、記憶と忘却のはざまで、人間はいかにして過去と向き合うのか――10月1日はその問いを突きつける日でもある。

また、同じ年の韓国・大邱では民衆蜂起が起こり、230万人が米軍政に抗議して立ち上がった。射殺され、戒厳令が敷かれ、結果的に136人の命が失われた。権力と民衆の対立はいつの時代も形を変えて繰り返される。ガウガメラからニュルンベルク、そして大邱へとつながるこの日には、権力をめぐる人間の苦悩が色濃く刻まれている。

さらに近年では、2015年のオレゴン州の銃撃事件、2017年ラスベガス銃乱射事件、2022年インドネシア・カンジュルハン・スタジアムの悲劇と、10月1日はなぜか大量の死者を伴う事件の舞台となっている。人々が集う場、学びの場、楽しみの場が、一瞬にして地獄へと変わる。その痛ましさは、ガウガメラの戦場とどこかで響き合っているように思える。

こうして眺めると、10月1日は「人間社会の緊張」が露わになる日であるかのようだ。権力と反抗、裁きと報復、祭りと暴動、歓喜と悲劇――その両極の出来事が歴史の上で重なり合っている。

けれども、暦は淡々と進む。月は満ち、年は巡り、残り91日という数字は確実に減っていく。だからこそ、この日に私たちはただ過去の悲劇を反芻するだけではなく、自らの「これから」を見つめ直す必要があるのだろう。暴力や悲劇の記憶に埋もれるのではなく、それを超えて新しい関係を築けるかどうか。

10月1日は、その問いを静かに、しかし強く私たちに投げかける日なのである。