1月9日
20260109金曜日旧暦11月21日先勝(癸未みずのとひつじ)月齢 20
乙巳きのとみ年 己丑つちのとうし月 癸未みずのとひつじ日 年末まであと356日
https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%889%E6%97%A5
1月9日の出来事
1127年(靖康元年11月5日) – 靖康の変: 金の軍勢によって首府開封が陥落、北宋が滅亡し、皇帝欽宗と太上皇徽宗は金に連行。開封の人口は100万人とされるので数十万単位の死者、難民の発生と推測される。
1863年 – 南北戦争: アーカンソー・ポストの戦いが始まる。時 1863年1月9日-11日場所 アーカンソー州アーカンソー郡 結果 北軍の勝利 損害:北軍30000人中 戦死1000人 南軍5500人 戦死5500人(全滅)。
1905年 – サンクトペテルブルク冬宮殿前広場で、血の日曜日事件勃発。グレゴリウス暦1月22日。死者1000人以上(反政府側の報告では4000人)
1916年 – 第一次世界大戦: ガリポリの戦い。英軍部隊がヘレス岬からの離脱を終了。年月日:1915年2月19日 – 1916年1月9日場所:ダーダネルス海峡 ガリポリ半島
結果:オスマン帝国軍の勝利(協商軍の撤退)損害:オスマントルコ軍 350000人中 戦死傷210000人 連合国軍500000人中 戦死傷300000人。
1918年 – 三俣の大雪崩: 新潟県三俣村(現・湯沢町)で大規模な雪崩が発生、死者155名。記録に残るものでは日本最悪の雪崩災害。
1945年 – 第二次世界大戦・ルソン島の戦い: 米軍がルソン島上陸を開始。年月日:1945年1月6日 – 8月15日 場所:ルソン島 結果:アメリカ軍の勝利 損害:日本軍250000人中 戦死217000人 米軍 175000人中 戦死傷37000人。
1968年 – マラソン選手円谷幸吉が自殺。
1975年 – ビートルズ解散。
1996年 – 足立区で女性の首なし焼死体が発見される。(足立区首なし殺人事件)
———————————————
1127年(靖康元年11月5日) – 靖康の変: 金の軍勢によって首府開封が陥落、北宋が滅亡し、皇帝欽宗と太上皇徽宗は金に連行。開封の人口は100万人とされるので数十万単位の死者、難民の発生と推測される。
靖康の変(せいこうのへん)は、1126年、宋(北宋)が、女真族(後世の満洲族の前身)を支配層に戴く金に敗れて華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。
この事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員[注釈 1]が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦となった[1]。宋の皇帝(欽宗)と太上皇(徽宗)の二人も俘虜になった。
洗衣院(せんいいん、またの名を浣衣院)は、金王朝における官設の妓院である[1][2]。『靖康稗史箋証』の記載によると、靖康の変(1126年)の後、宋の皇太后、皇后、妃嬪、皇女(公主[3])、宗女[4]、女官、宮女、さらに官吏や平民に至るまでの多数の女性が、遠く金に連行された。一部は現地で洗衣院に入れられて、性的奉仕を強要された[5]。複数の幼い皇女たちも洗衣院で育てられ、成長後に金国人の妻妾、あるいは洗衣院の娼婦となった[6]。
靖康の変の結果、金の捕虜となって北方へ拉致された女性の数は、『開封府状』によると、宋の妃嬪83名、王妃24名、皇女22名、嬪御98名、王妾28名、宗姫52名、御女78名、宗室に近い姫195名、族姫1241名、女官479名、宮女479名、采女604名、宗婦2091名、族婦2007名、歌女1314名、貴戚、官民の女性3319名の計11635名で、それぞれが金額を課された上で、洗衣院に入れられた。
1863年 – 南北戦争: アーカンソー・ポストの戦いが始まる。時 1863年1月9日-11日場所 アーカンソー州アーカンソー郡 結果 北軍の勝利 損害:北軍30000人中 戦死1000人 南軍5500人 戦死5500人(全滅)。
アーカンソー・ポストの戦い(アーカンソー・ポストのたたかい、英:Battle of Arkansas Post、またはハインドマン砦の戦い、英:Battle of Fort Hindman)は南北戦争のビックスバーグ方面作戦の一部として、1863年1月9日から11日にかけて、アーカンソー州アーカンザス川河口近くのアーカンソー・ポストで行われた戦闘である。
1905年 – サンクトペテルブルク冬宮殿前広場で、血の日曜日事件勃発。グレゴリウス暦1月22日。死者1000人以上(反政府側の報告では4000人)
血の日曜日事件(ちのにちようびじけん)とは、1905年1月9日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では1月22日。以下、日付はすべてユリウス暦による)、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件。ロシア第一革命のきっかけとなった。
1916年 – 第一次世界大戦: ガリポリの戦い。英軍部隊がヘレス岬からの離脱を終了。年月日:1915年2月19日 – 1916年1月9日場所:ダーダネルス海峡 ガリポリ半島
結果:オスマン帝国軍の勝利(協商軍の撤退)損害:オスマントルコ軍 350000人中 戦死傷210000人 連合国軍500000人中 戦死傷300000人。
ガリポリの戦い(ガリポリのたたかい、英語: The Gallipoli Campaign、トルコ語: Çanakkale Muharebeleri[7])は、第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブール占領を目指し、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたるダーダネルス海峡の西側のガリポリ半島(現・トルコ領ゲリボル半島)に対して行った上陸作戦。ガリポリ半島とは英語名であり、現在トルコ語でゲリボル半島と呼ばれている。また、ガリポリ(ゲリボル)の町は半島の付け根にあり、主戦場から外れている。イギリスではこの戦いをダーダネルス戦役(英語版)と、トルコではチャナッカレの戦い(トルコ語: Çanakkale Savaşı)と呼ぶ。
1918年 – 三俣の大雪崩: 新潟県三俣村(現・湯沢町)で大規模な雪崩が発生、死者155名。記録に残るものでは日本最悪の雪崩災害。
1945年 – 第二次世界大戦・ルソン島の戦い: 米軍がルソン島上陸を開始。年月日:1945年1月6日 – 8月15日 場所:ルソン島 結果:アメリカ軍の勝利 損害:日本軍250000人中 戦死217000人 米軍 175000人中 戦死傷37000人。
1996年 – 足立区で女性の首なし焼死体が発見される。(足立区首なし殺人事件)
概要
1968年 – マラソン選手円谷幸吉が自殺。
1975年 – ビートルズ解散。
1996年(平成8年)1月9日、足立区東六月町の駐車場で布団に包まれた女性の首なし焼死体が発見された。女性死体は陰部が切り取られていた。警察は被害者が41歳女性であり、当時同居していた人物が小野 悦男だったことをつきとめた。
小野は1968年から1974年に発生した首都圏女性連続殺人事件で犯人視され、その内の松戸市の1事件で殺人罪で起訴され1986年に一審で無期懲役判決が出たが、1991年に無罪を勝ち取っていた。その後、小野は代用監獄や自白偏重捜査を批判する冤罪のヒーロー的存在となっており、刑事裁判の過程で出来た支援団体の存在があった。そのため警察は慎重に捜査を進め、遺体に付着していた体液と照合しようと、浮浪者に変装するなどして彼の唾液を採取した。
4月26日、小野が5歳の幼女に性的暴行を加え首を絞めた殺人未遂罪の容疑で逮捕される。DNA鑑定により、首なし遺体に付着していた体液のDNAと、小野のDNAが一致。
5月2日、小野の家宅捜索で、裏庭の地中から首なし遺体と切断面が合致する頭蓋骨と遺体切断に使われたノコギリ、さらに切り取られた陰部を冷蔵庫から発見。これにより小野が殺害を自供した。
供述によると「女性と公園で出会い同居生活を始めたが、1月5日の夜、女性が家事をしないことで口論となり、頭をバットで殴ったところ死亡してしまった。せめて彼女の実家に骨だけでも返したくて、遺体を焼いたがなかなか骨にならず、頭部だけ持ち帰った」という。
1999年(平成11年)2月9日、小野に対して殺人罪で有罪とし、無期懲役が確定した。
その他
この事件では、窃盗や暴行などの数々の前科がありながら小野が殺人事件で無罪となったことで冤罪のヒーローとして無批判に持ち上げたことは一面的な観点であったと批判が出た。
また、無罪となった松戸事件を始め、その他の首都圏女性連続殺人事件の中にも、小野が関与した事件もあったのではないかという疑念も出た。
チャットgpt先生の1月9日のエッセイ
1月9日――歴史が静かに血を記憶する日
1月9日は、暦の上では年の始まりに近い。
しかし歴史を辿ると、この日は不思議なほど多くの「終わり」と「断絶」を内包している。王朝の崩壊、戦争の撤退と敗北、国家暴力の発砲、自然災害、そして個人の絶望的な死。1月9日は祝祭ではなく、静かな警鐘として繰り返し現れる。
1127年、靖康の変。
北宋の首都・開封が陥落し、王朝は事実上滅びた。皇帝と太上皇は捕虜となり、都に生きていた百万人規模の人々の運命は、一夜にして崩れ落ちた。記録に残る女性たちの数は万を超える。だが数字の多さは、悲劇を説明する代わりにはならない。そこにあったのは、国家が敗れたとき、最も弱い立場の人間が最も深く踏みにじられるという、歴史の冷酷な法則だった。
1863年、アーカンソー・ポスト。
戦いは数日で終わったが、南軍は事実上壊滅した。戦史においては「勝敗」で語られる出来事も、兵士一人ひとりにとっては、帰る場所が永遠に失われた瞬間である。1月9日は、戦争が統計に変換される日でもある。
1905年、血の日曜日。
皇帝に請願するための行進は、銃声によって革命へと変質した。民衆が権力に向かって声を上げ、その声が弾丸でかき消される。この日付は、近代史において「国家が国民に銃を向けた瞬間」として刻まれている。
1916年、ガリポリからの撤退。
膨大な犠牲を払った末の撤退は、勝者なき戦争の象徴だった。戦場から人が引き揚げられても、失われた命と身体は戻らない。1月9日は、戦争が終わっても終わらないことを教える。
1918年、新潟・三俣の雪崩。
敵意も思想もない自然が、一瞬で村を奪った。日本最悪の雪崩災害とされるこの出来事は、人間がどれほど文明を築いても、自然の前では無力であることを突きつける。1月9日は、人間中心の歴史観を崩す日でもある。
1968年、円谷幸吉の死。
国家の期待と個人の限界の狭間で、彼は孤独に追い詰められていった。栄光の裏側で、声を上げられなかった一人の人間の最期は、成功や名誉が人を必ずしも救わないことを示している。
1996年、足立区首なし殺人事件。
現代日本においても、暴力は日常の隙間に潜む。冤罪の象徴とされた人物が、のちに重大犯罪で有罪となった事実は、「正義の物語」がいかに脆く、一面的であるかを示した。1月9日は、善悪の単純な二分法が崩れる日でもある。
こうして並べると、1月9日は何かが始まる日というより、むしろ「崩れる日」「露呈する日」だ。
国家の虚構、勝利の幻想、正義の物語、個人の強さへの過信。それらが剥がれ落ち、残るのは、人間の脆さと残酷さ、そして忘れてはならない記憶である。
暦は毎年同じ日付を繰り返す。
だが、歴史は決して同じ意味では繰り返さない。1月9日が私たちに突きつけるのは、「忘却こそが次の悲劇を準備する」という無言の警告なのだ。
静かな冬の日に、この日付を思い出すこと自体が、過去に対する小さな抵抗なのかもしれない。

