1月8日
20260108木曜日旧暦11月20日赤口(壬午みずのえうまジンゴ)月齢 19
乙巳きのとみ年 己丑つちのとうし月 壬午みずのえうま日 年末まであと357日
吉方位 隠遁日 壬午みずのえうま日
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1月8日の出来事
645年(貞観18年12月5日) – 唐の仏僧の玄奘三蔵がインドなどを巡る16年の旅から帰国。
871年 – イングランド王エゼルレッドとその弟アルフレッド率いるアングロ・サクソン軍が、デーン人ヴァイキングの軍勢をアッシュダウンの戦いで撃破した。
時 871年1月8日
場所 バークシャー
結果 西サクソン人の勝利 損害 詳細不明。
1558年 – 1月1日始まったカレー包囲戦が終結。フランソワ・ド・ギーズの手により、1347年8月4日以来イングランド領となっていた同市がフランス王国領に戻る。時 1558年1月1日 – 1月8日[1]
場所 フランスの旗 フランス、カレー
結果 フランス王国の勝利
フランスがカレー及び周辺を占領[2] 損害 フランス軍27000人 対 イングランド軍2500人 。2500人全滅 捕虜 奴隷売買はあり。
1815年 – 米英戦争: ニューオーリンズの戦い。年月日:1815年1月8日
場所:アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ルイジアナ州シャルメット(ニューオーリンズの南)
結果:アメリカの勝利。損害 英軍 8000人中 戦死傷2000人 米軍5000人中被害僅少。
1877年 – クレイジー・ホースがモンタナ州でアメリカ騎兵隊(英語版)との最後の戦いに挑む。36歳没。
2011年 – 米アリゾナ州ツーソンで男が銃を乱射。ガブリエル・ギフォーズ民主党下院議員を含む人が7名が死亡し、十数人が負傷した[5]。
2025年 – ジョー・バイデン大統領が1月7日のロサンゼルスの山火事を大規模災害に認定することを宣言。ロサンゼルスでは3万人に避難命令が出された。
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645年(貞観18年12月5日) – 唐の仏僧の玄奘三蔵がインドなどを巡る16年の旅から帰国。
玄奘(げんじょう、602年 – 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(ちんい)。諡は大遍覚[1]で、尊称は法師、三蔵など。玄奘三蔵と呼ばれ、鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とされる。
629年にシルクロード陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院などへ巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著した。
871年 – イングランド王エゼルレッドとその弟アルフレッド率いるアングロ・サクソン軍が、デーン人ヴァイキングの軍勢をアッシュダウンの戦いで撃破した。
時 871年1月8日
場所 バークシャー
結果 西サクソン人の勝利 損害 詳細不明。
アッシュダウンの戦い(アッシュダウンのたたかい、英語:Battle of Ashdown)とは、871年1月8日に西サクソン人がデーン人を打ち破った戦闘である。戦闘地は定かではないが、現在のイギリスにおけるバークシャー地方にあるモールスフォード(英語版)村ではないかと言われている[注釈 1]他の作家の中には、アルドウォース村の少し北側、ローベリーヒルの南東に位置するスターべオール周辺で行われたと主張する者もいる[2][3] 。
1558年 – 1月1日始まったカレー包囲戦が終結。フランソワ・ド・ギーズの手により、1347年8月4日以来イングランド領となっていた同市がフランス王国領に戻る。時 1558年1月1日 – 1月8日[1]
場所 フランスの旗 フランス、カレー
結果 フランス王国の勝利
フランスがカレー及び周辺を占領[2] 損害 フランス軍27000人 対 イングランド軍2500人 。2500人全滅 捕虜 奴隷売買はあり。
1558年のカレー包囲戦(フランス語:Siège de Calais、英語:Siege of Calais)は、当時神聖ローマ帝国側で第六次イタリア戦争に参加していたスペイン王国のオランダ侵攻を受けて、時のフランス王アンリ2世によって北フランスに緊急招集された王国の中将ギーズ公フランソワが、カレーの地を包囲した戦いのこと。この戦いにより1558年1月8日に、1347年8月4日以来イングランド領となっていた[注釈 1]同市は210年の時を経て、フランス王国領に戻ることになった。
1815年 – 米英戦争: ニューオーリンズの戦い。年月日:1815年1月8日
場所:アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ルイジアナ州シャルメット(ニューオーリンズの南)
結果:アメリカの勝利。損害 英軍 8000人中 戦死傷2000人 米軍5000人中被害僅少。
1877年 – クレイジー・ホースがモンタナ州でアメリカ騎兵隊(英語版)との最後の戦いに挑む。36歳没。
人物
人物
タシュンケウィトコ、通称クレイジー・ホースは1840年頃に、現在のサウスダコタにあるベア・ビュット近くのベル・フーシェ川のそばで生まれた。クレイジー・ホースと親しかった「ホーン・チップス」、または「エンコーラジング・ベアー」という名のスー族の呪い師は、スー族がショーショーニー族から大量の馬を盗んだ年が、クレイジー・ホースが生まれた年だと考え、証言したので、彼の誕生年は「1840年」ということになっている。しかし実際は、この「大襲撃」は、1841年の出来事である。
父親(1810年生)はオグララ・スー族の呪い師で、戦士ではなかった。その治癒術が非常に評判がよく、戦士である必要がなかったのである。母親ラトリング・ブランケット・ウーマン(1814年生)はシチャング(ブルーレ)・スー族だった。彼は幼い頃からシチャング族やシャイアン族のキャンプを出入りしていた。
彼の名は正式には「タ・シュンカワカン・ウィトコ(彼の奇妙な馬)」である。略して「タシュンケ・ウィトコ」と呼ばれることが多い。幼児期は「くせ毛」と呼ばれていた。「タシュンケ・ウィトコ」は代々受け継ぐ名であり、手柄を立てればこの名が譲られた。彼の父も、この名が譲られるまでは「ワグルラ(みみず)」という名だった。息子にこの名を譲った後、彼の父はまた「みみず」という名に戻った。
少年時代から馬を盗む(インディアンにとっての栄誉あるスポーツである)のが非常に上手く、「ヒズ・ホーシズ・ルッキング(彼はすぐれた馬の見立てだ)」という名で呼ばれていた時期がある。
彼自身は、部族の儀式やしきたりに興味を持たず、参加もしなかった。同じインディアンの仲間からも常に距離を置き、「一匹狼」の姿勢を貫いた。放浪癖があり、しばしば姿を消し、瞑想に耽った。白人と接することを非常に嫌い、このため写真に写ることもなかった。彼の肖像は残されていない。が、その肌の色は非常に明るく、小柄だがハンサムだったという。少年時代の親友たちは、彼を「肌の明るい少年」と呼んでいた。
友人のスー族戦士ショート・バッファローは、クレイジー・ホースについて、「背は高くなく、またそれほど低くもなかった。太っても痩せてもいない。彼の髪の色は非常に明るく、顔色も他のインディアンよりずっと明るかった。顔の幅は広くはなく、高く鋭い鼻を持っていた。彼の黒い目は人をまっすぐ見ることはほとんどなかったが、何者をも見逃さなかった」と語っている。
白人との戦いが激化し、「皮シャツを着る者」を選ぶ儀式が復活したとき、この名誉ある地位に任ぜられた四人の戦士のひとりとなった。が、これ以外に正式な地位にあったことはない。ひとつには、彼の家柄が部族の中では名門ではなく、また名門家のレッド・クラウドと反目しあう関係だったことがある。が、白人との妥協を拒む主戦派として主要な立場にあった。ちなみに、完全な個人主義であるスー族の文化には、戦法を誰かが指示するような「戦争指導者」という立場はない。
レッド・クラウドの姪であるブラック・バッファロー・ウーマン(ウィンヤン・ワカン・サパ)に恋焦がれていたが、レッド・クラウドは彼女をクレイジー・ホースの友人ノー・ウォーターと結婚させた。その後もクレイジー・ホースの想いは止まず、今で言うストーカー行為をしていた。
1870年、クレイジー・ホースは彼女と駆け落ちをしたが、ノー・ウォーターは彼らを追い、その日の晩には彼らを見つけ、二人が寝ているティーピーに押し入って、クレイジー・ホースの心臓目がけて銃を撃った。このとき、友人のタッチ・ザ・クラウドがとっさにノー・ウォーターを押さえたので弾は逸れて上顎に当たり、クレイジー・ホースは大怪我を負った。完全個人主義のスー族では、女性が離婚するのはまったくの自由であり、ノーウォーターのこの行いは、スー族のしきたりを破るものである。長老たちはノー・ウォーターに賠償として馬を三頭クレイジー・ホースに譲らせ、またクレイジー・ホースも「皮シャツを着る者」の職を解任された。ブラック・バッファロー・ウーマンの4番目の娘は、非常に肌の色が明るく、恐らくクレイジー・ホースの子と思われる。
そののち、部族のとりなしでブラック・ショールという女性を妻に娶る。彼女は結核に罹り、彼女を親切に治療したヴァレンタイン・マクギリカッディ博士とは、白人としては例外的に友交を結んだ。マクギリカッディはクレイジー・ホースを看取った医者となった。また後に保留地監督官に任ぜられ、スー族を苦しめることとなる。
彼女との間に「ゼイ・アー・アフレイド・オブ・ハー(They Are Afraid of Her)」という娘をもうけたが、幼くしてコレラで亡くし、失意の中しばらく戦の場から離れる。二人目の妻には、ネリー・ララビーというシャイアン族とフランス人の混血女性を迎えた。
彼のヴィジョン
1854年、12歳の時にグラッタン中尉によってコンクァーリング・ベアー酋長たちが虐殺されるのを見た(グラッタンの虐殺)。これを契機に、一人で山に分け入り、岩の上に座禅を組んで[1]「ハンブレチア(ヴィジョン・クエスト)」を行い、ヴィジョン(幻視)を得た。ヴィジョンの中で、ふわふわと影の様に踊り回る奇妙な馬に乗り、顔と体に不思議な模様を描いた男性が現れ、彼に様々な啓示を与えた。父親の名もタ・シュンカワカン・ウィトコだったが、のちにこの夢のことを聞き、啓示のその中の男性が息子だと確信して、すぐさま父親は自分の名を息子に譲ったのである。
このときの幻視で、二つのタブーを得た。それは「他人に腕を捉まれてはいけない」というものと、「自分のための物を持たない」というものである。このタブーを破った際、白人の頭の皮を剥いだことで大怪我をし、二度目は白人に腕を捉まれたことで刺殺されたのである。ノー・ウォーターに撃たれた際がどうだったのかは伝わっていない。
また、「常に質素ないでたちでいるように」との啓示も受けた。このため、彼の服装はいつも必要最小限で、彼を描いた映画や絵画にあるように、派手な羽根冠をつけて戦に出るようなことは一度もなかったとハンプやヒー・ドッグ、ブラック・エルクら近しい者たちは揃って証言している。「常に弱きものを助け、分け与えよ」との啓示を受け、生涯それを実行した。そのために、彼は部族の中の弱い立場の人たちから熱烈に愛された。
戦では負傷したことがないが、スー族の伝統派呪い師であるレイムディアーやレオナルド・クロウドッグによれば、これはクレイジー・ホースが最初のヴィジョンとともに不思議な力をもつ小石を得ていて、戦の際は必ず耳の後ろに挟んでいたおかげだという[2]。スー族は彼を、「われらの稀有なる男」と呼んでいた。
その最期
1877年9月5日(合衆国陸軍の公式記録では6日。9日とする資料もある)、司令官との会談を申し入れられ、ジェシー・リーという政府管理官によって、「スポッテッド・テイル管理所」からロビンソン砦へ、強引に連行された。が、総司令官のクルック将軍は会談には来ておらず、連れていかれた場所は営倉だった。クレイジー・ホースは激しく抵抗し、元仲間だったリトル・ビッグマンとタッチ・ザ・クラウド、白人兵に押さえ込まれ、ウィリアム・ジェントルズという歩哨によって銃剣で刺殺された。36歳だった。クレイジー・ホースの幼馴染で呪い師のホーン・チップスはこのとき、これを制止しようとして突き飛ばされ、肩を脱臼した。ジェシー・リー管理官はのちに、営倉でクレイジー・ホースに対する拷問があったことを認めている。
クルック将軍はのちに、すべてを嘘で固めたうえで[3] クレイジー・ホースの死に関して、「私はその会談に行くべきだった。どんな場所だろうと、私が到着するまで決して始めさせることはなかったのだ。私はドライ=トーチュガス島監獄[4] にクレイジー・ホースを送致していただろう」と述べ、遺憾の意を表している。
その遺体は親族と、幼馴染のホーン・チップスによって持ち去られ、埋葬場所は公開されていない。
2011年 – 米アリゾナ州ツーソンで男が銃を乱射。ガブリエル・ギフォーズ民主党下院議員を含む人が7名が死亡し、十数人が負傷した[5]。
2025年 – ジョー・バイデン大統領が1月7日のロサンゼルスの山火事を大規模災害に認定することを宣言。ロサンゼルスでは3万人に避難命令が出された。
チャットgpt先生の1月8日
1月8日という日 ― 帰還と抵抗の記憶
1月8日は、静かな暦注の裏側に、長い旅と激しい衝突、人間の信念が幾重にも折り重なる日である。玄奘三蔵が16年に及ぶインドへの旅を終えて唐へ帰還したのも、アングロ・サクソン軍がヴァイキングを破ったのも、フランスが210年ぶりにカレーを取り戻したのも、そしてニューオーリンズで新興国家アメリカが大国イギリスを退けたのも、すべて1月8日だ。
玄奘の帰還は、この日の中でも異質な光を放っている。剣も軍旗も持たず、ただ真理を求めて砂漠と雪山を越え、経典を携えて戻った一人の僧。その成果は戦利品ではなく、翻訳という知の営みだった。力によらず、理解によって世界を結び直そうとした彼の旅は、戦いの記録が並ぶ1月8日に、深い対照を与えている。
一方で、この日は「勝利」の日でもある。アッシュダウン、カレー、ニューオーリンズ。いずれも軍事的勝敗がその後の歴史を大きく変えた。勝者は称えられ、敗者は記録の行間に沈む。カレーでは2500人の守備兵が全滅し、捕虜や奴隷売買という言葉が冷たく残る。勝利とは常に、誰かの生存と引き換えに成立するものだという事実を、1月8日は否応なく突きつけてくる。
クレイジー・ホースの最期の戦いもまた、この日の重い象徴である。彼は国家も階級も拒み、ただ自らのヴィジョンと掟に従って生きた。写真すら残さず、名誉や地位にも執着しなかった「一匹狼」は、白人社会との妥協を拒み続け、36年の生涯を終える。彼の生き方は、勝敗や領土とは別の次元で、人が何を守るために生き、死ぬのかを問いかけている。
現代に目を向ければ、2011年の銃乱射事件、2025年の大規模山火事と災害宣言が並ぶ。剣や銃の時代は終わったかに見えても、暴力や破壊は形を変えて続いている。自然災害すら、人間の選択と無関係ではなくなった時代に、1月8日は「制御できないもの」と向き合う日とも言える。
壬午の日、隠遁日とされるこの日は、前へ攻めるよりも、一度立ち止まり、何を持ち帰り、何を手放すのかを考えるのにふさわしい。玄奘が持ち帰ったのは経典であり、クレイジー・ホースが最後まで手放さなかったのは生き方そのものだった。
1月8日は、勝利の日ではあるが、同時に「問いの日」でもある。力で得たものと、信念で守ったもの。そのどちらが未来に残るのかを、静かに私たちに考えさせる日なのだ。

