kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月7日 1943ニコラ・テスラ逝去、ほか写真wikipediaラボで読書するテスラ

1月7日
20250107火曜日旧暦12月8日先勝(丙子ひのえねヘイシ)月齢 7.1
甲辰きのえたつ年丁丑ひのとうし月丙子ひのえね日  年末まであと358日
https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%887%E6%97%A5
1月7日の出来事
1935年 – 神奈川県川崎市内で赤痢患者が大量発生。死者21人以上、市内における同月末までの発病者は1357人となった[2]。
1943年 – ニコラ・テスラ、電機技師、発明家(* 1856年)逝去87歳
1989年 – 昭和天皇が崩御したことに伴い、当時の皇太子明仁親王が皇位を継承。元号法並びに元号を改める政令(昭和64年政令第1号)に基づき、新・元号を「平成」と決定(昭和最後の日)。
1996年 – 岡本太郎、芸術家(* 1911年)逝去85歳

2021年 – 菅義偉首相が、新型コロナウイルス感染拡大に伴い、首都圏の1都3県(東京・神奈川・千葉・埼玉)に対し、2度目の緊急事態宣言を発令(期間は8日から2月7日まで)[14]。

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1935年 – 神奈川県川崎市内で赤痢患者が大量発生。死者21人以上、市内における同月末までの発病者は1357人となった[2]。
1943年 – ニコラ・テスラ、電機技師、発明家(* 1856年)逝去87歳

ニコラ・テスラ(Nikola Tesla [ˈtɛslə] TESS-lə; セルビア語キリル・アルファベット: Никола Тесла, 発音: [nǐkola têsla]; 1856年7月10日 – 1943年1月7日)は、セルビア系アメリカ人[1]の発明家、電気技師、機械技師。

渡米から後半生

ところが、欧州では彼が開発した誘導モーターに興味を抱く人に巡り会えず、渡米を決意[3]。1884年の渡米時点では所持金も殆ど無く、自分で詠んだ詩や飛行機械のアイディアに関する計算を記した書類といったような物しか持っていない状態であった[3]。エジソンのエジソン電灯会社の求人を見つけ採用される。当時、同社は直流による電力事業を展開していて、一方、テスラは交流による電力事業を提案し、エジソンと対立して数ヶ月で失職する。

1887年4月、独立したテスラは Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)を設立し、独自に交流による電力事業を推進して同年10月に交流システムの特許を出願[9]する。

1888年、彼が発明した誘電モーターおよび(交流式の)電気システムについて説明した論文“A New System of Alternating Current Motors and Tran.”を執筆[3]。(これが、テスラとウェスティングハウス社との連携へとつながり、「電流戦争」へと繋がってゆくことになる[3]。)1888年5月16日、アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、感銘したジョージ・ウェスティングハウスから研究費100万米ドルと特許使用料を提供される。テスラの特許を使用した交流発電機は、ウェスティングハウス・エレクトリック社ベンジャミン・G・ランム(英語版)の設計で、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所(英語版)に三相交流25サイクルのものが設置された。

この時期、ウェスティングハウスはテスラのためにラボ(研究所)を設立し、さまざまなプロジェクトをまかせた。その中にはたとえばヴィルヘルム・レントゲンのX線の装置の開発などというものもあった[3]。テスラは同年に循環磁界を発見して超高周波発生器を開発するが、ウェスティングハウス社技術陣の中で孤立して1年で離れる。

1891年、申請が通り米国の国籍を取得[3]。同年、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器(テスラコイル)を発明。

1893年、無線トランスミッターを発明する。

シカゴ万博会場内の電気供給に、電気館の電源システムをウェスティングハウス社が構築して交流システムで電気のいっさいをまかなった[10]。これは、20台の単相500馬力発電機を2群にわけ、それぞれ回転子を90度ずらして二相交流12000馬力発電機として構成し、蒸気機関により駆動して発電した電力を変圧器で昇圧して送電後、再度変圧器で降圧して16燭光の電灯を1000個点灯するとともに誘導電動機を回したもので、ほかに回転変流機を設置して直流電源電車を走行させた。

1898年、点火プラグの米国特許を取得し、無線操縦特許を取得してニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで無線操縦の船舶模型を実演した[11]。

1901年、J・P・モルガンの援助により、ロングアイランドのショアハムに高さ57メートルの無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」を建設開始し[12]、1905年に完成するもモルガンとの関係悪化により資金繰りが悪化し研究を中断する[13]。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、タワーは新しいオーナーと鉄鋼会社の契約に基づいて1917年に撤去[14]された。

1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となったという噂が流れるが共に受賞しなかった[15]。1938年にも受賞候補に選ばれるが受賞しなかった[16]。

1916年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になり一度は辞退するが(後述)再考後1917年にこれを受ける[17][18]。

雑誌『タイム』の1931年7月20日号。75歳の誕生日を迎えたテスラが表紙を飾った。

1928年、「フリバー(Flivver)」と言う名称の「空中輸送装置」の特許を得たが、これは垂直離着陸機(ティルトローター式)の最初期に当たる。

1943年1月7日、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで死去。享年86歳であった。検死の結果死因は冠動脈血栓症とされた。[要出典]晩年は金銭苦に陥り、亡くなった時点でほぼ無一文であった[19][20]。

1989年 – 昭和天皇が崩御したことに伴い、当時の皇太子明仁親王が皇位を継承。元号法並びに元号を改める政令(昭和64年政令第1号)に基づき、新・元号を「平成」と決定(昭和最後の日)。


昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 – 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 3](在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 – 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)[3]。お印は若竹(わかたけ)。1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政となり、自身の天皇即位まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇である[4]。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った。

1996年 – 岡本太郎、芸術家(* 1911年)逝去85歳

生い立ち

岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は町書家の岡本可亭であり、当時可亭に師事していた北大路魯山人とは、家族ぐるみの付き合いがあった。

父・一平は朝日新聞で”漫画漫文”という独自のスタイルで人気を博し[注 1]、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。

母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 お嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさにかの子の邪魔をすると、彼女は太郎を兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で自宅に住まわせていた。そのことについて、かの子は創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなく、自身も放蕩経験がある一平は容認せざるを得なかった。後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。

1942年(昭和17年)、大東亜戦争下の軍備増強の為、補充兵役召集され大日本帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。岡本は最下級の陸軍二等兵扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。

1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争が終結。岡本は長安で半年ほど俘虜生活[5]を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。

1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高、安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が死去するまで支え続けた。

1950年(昭和25年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美、小松義雄、村井正誠、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加 1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている[6]。また琉球諸島や東北地方の古い習俗を紹介した。

1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て[注 4]、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。

1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)[1]。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には作品が展示され、参加者たちは別れを惜しんだ。墓所は多磨霊園にあり、同地の父・一平、母・かの子の墓碑の対面に太郎の墓が建てられ、墓石として1967年に太郎が制作した像・『午後の日』の複製が据えられている。

2021年 – 菅義偉首相が、新型コロナウイルス感染拡大に伴い、首都圏の1都3県(東京・神奈川・千葉・埼玉)に対し、2度目の緊急事態宣言を発令(期間は8日から2月7日まで)[14]。

チャットgpt先生の1月7日のエッセイ

1月7日:歴史が語る日常の特異点

1月7日は、何気ない日付に思えるが、その背後にはさまざまな歴史の重みが潜んでいる。この日を紐解くと、過去の出来事や人々の人生が私たちの日常にどれほど大きな影響を及ぼしてきたかを思い知らされる。


まず、この日はニコラ・テスラが生涯を閉じた日である。彼の名前を聞くと、科学技術の偉大さが思い浮かぶ。エジソンとの「電流戦争」、交流システムの発明、そしてその独創性がもたらした数々の革新。彼の死後も彼の功績は日常生活に息づいている。スマートフォンを充電するたびに、私たちは彼の発明した交流電力の恩恵を受けていると言っても過言ではない。だが、彼の晩年は孤独と金銭的困窮に苦しむものであったことを考えると、科学の栄光の裏に潜む人間的な葛藤にも目を向けたくなる。

また、1989年1月7日は昭和天皇が崩御し、平成という新しい時代の幕が上がった日だ。当時の日本は、バブル経済の絶頂にありながら、文化や価値観の変化が進行していた。昭和という戦争と復興の時代を締めくくり、平成という平和と挑戦の時代が始まったこの転換点は、多くの日本人の記憶に刻まれているだろう。元号の変更は単なる名前の切り替えではなく、時代の空気そのものを象徴する。

さらに、この日は岡本太郎の命日でもある。彼の作品に触れると、芸術が持つ力の奥深さに驚かされる。岡本は縄文土器の影響を受け、その野性的で原始的な美しさを現代芸術に持ち込んだ。その活動は、単なるアートにとどまらず、人生そのものを表現しようとする情熱に溢れている。「芸術は爆発だ」と語った彼の言葉は、今でも強烈なインパクトを持つ。


歴史に名を刻んだ人々の営みは、こうして1月7日という一日にも濃縮されている。テスラが描いた未来、昭和から平成への橋渡しをした天皇、そして岡本が爆発させた芸術の力。それぞれの物語は一見バラバラだが、どれも「未来を創る」ことに共通している。

日常の中でこの日を迎える私たちには、過去を振り返りつつ、その意味を今に問い直す義務があるのかもしれない。1月7日――それは、歴史が語る「特異点」として、私たちに時代の流れの中で何を成すべきかを静かに問いかけている。