kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月6日 1919セオドア・ルーズベルト死去、ほか写真wikipedia大統領一家

1月6日

20260106火曜日旧暦11月18日仏滅(庚辰かのえたつコウシン)月齢 17

乙巳きのとみ年 己丑つちのとうし月 庚辰かのえたつ日 年末まであと359日

吉方位 隠遁日 庚辰かのえたつ日

https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%886%E6%97%A5

1月6日の出来事

1842年 – イギリスのカーブル撤退。アフガニスタンに侵攻したインドのイギリス軍に対するアフガン人の抵抗に、イギリス軍がアクバル=ハーンと協議、撤退を開始。しかし途中で攻撃を受け、4500人のイギリス軍は全滅。
1919年 – セオドア・ルーズベルト、第26代アメリカ合衆国大統領(* 1858年)逝去61歳
1940年 – 釜山市の沖合で密航船が転覆。密航者114人が行方不明[1]。
1950年 – 二俣事件。二俣事件(ふたまたじけん)とは、1950年(昭和25年)1月6日に当時の静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で一家4人が殺害された事件である。強盗殺人罪で逮捕・起訴された被告人の少年(事件当時18歳)が第一審(静岡地裁)・控訴審(東京高裁)とも死刑判決を受けたが、最高裁が審理を破棄差戻し、後に静岡地裁・東京高裁とも被告人に無罪判決を言い渡し、無罪が確定した。
1951年 – 江華良民虐殺事件。概要
仁川上陸作戦によって韓国軍は江華島を北朝鮮から奪還したが、人民義勇軍の介入によって1951年1月4日には戦線を大きく後退させ(いわゆる「1.4後退」)、北朝鮮による江華島の再占領も現実味を帯びるようになった。すると、1951年1月6日から1月9日にかけて韓国軍、韓国警察、民兵[1] は北朝鮮統治時代に北朝鮮に協力したなどとして島民212人[1]から1,300人[2]を虐殺した。犠牲者は全員非武装の民間人であった[1][2]。この事件前の1950年には保導連盟事件で、すでに140人の島民が虐殺されていた[3]。
1960年 – 神奈川県横須賀市の衣笠病院で火災。新生児、妊産婦、看護婦ら16人が死亡、重軽傷24人[3]。

1982年 – ベーリング海で第二十八あけぼの丸が沈没。32人が死亡。

ー-------------------- 

1842年 – イギリスのカーブル撤退。アフガニスタンに侵攻したインドのイギリス軍に対するアフガン人の抵抗に、イギリス軍がアクバル=ハーンと協議、撤退を開始。しかし途中で攻撃を受け、4500人のイギリス軍は全滅。

1919年 – セオドア・ルーズベルト、第26代アメリカ合衆国大統領(* 1858年)逝去61歳

セオドア ・ルーズベルト・ジュニア(英語: Theodore Roosevelt Jr.、[ˈθiːəˌdɔːɚ ˈɹoʊzəˌvɛlt][3][4][5]、1858年10月27日 – 1919年1月6日)は、アメリカ合衆国の政治家、軍人で第26代大統領に1901年から1909年まで在任した。愛称のテディ(Teddy)やイニシャルのT.R.として知られており、ニミッツ級の4番艦セオドア・ルーズベルトの艦名のもととなった人物である

セオドア・ルーズベルトはその精力的な個性、成し遂げた業績と合衆国の利益、国の発展期に示したリーダーシップと、「カウボーイ」的な男性らしさでよく知られる。共和党のリーダー、および短命に終わった進歩党の創設者であった。大統領就任までに市、州、連邦政府での要職に在籍した。また政治家としての業績とほぼ同等に、軍人、作家、ハンター、探検家、自然主義者としての名声も併せ持つ。

姓はローズベルト、ローズヴェルトとも表記される[注釈 2][7]。第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは五従弟(12親等)に当たり、またフランクリンの妻エレノアは姪にあたる。

無抵抗のシャイアン族のバンドが米軍によって徹底虐殺された「サンドクリークの虐殺」については、次のように賛辞を送っている。

「これほどまでに、まさしく正当で、有益な行いが、フロンティアで起こったのです。」

また、こうも発言している。

「私は、「死んだインディアンだけが良いインディアンである」とまでは言いませんよ。しかし、私は10人インディアンがいたとして、そのうち、9人まではそうじゃないかと思っています。それと、私はあまり10人目については真剣に考える気になれませんね。」

1940年 – 釜山市の沖合で密航船が転覆。密航者114人が行方不明[1]。
1950年 – 二俣事件。二俣事件(ふたまたじけん)とは、1950年(昭和25年)1月6日に当時の静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で一家4人が殺害された事件である。強盗殺人罪で逮捕・起訴された被告人の少年(事件当時18歳)が第一審(静岡地裁)・控訴審(東京高裁)とも死刑判決を受けたが、最高裁が審理を破棄差戻し、後に静岡地裁・東京高裁とも被告人に無罪判決を言い渡し、無罪が確定した。

1951年 – 江華良民虐殺事件。概要
仁川上陸作戦によって韓国軍は江華島を北朝鮮から奪還したが、人民義勇軍の介入によって1951年1月4日には戦線を大きく後退させ(いわゆる「1.4後退」)、北朝鮮による江華島の再占領も現実味を帯びるようになった。すると、1951年1月6日から1月9日にかけて韓国軍、韓国警察、民兵[1] は北朝鮮統治時代に北朝鮮に協力したなどとして島民212人[1]から1,300人[2]を虐殺した。犠牲者は全員非武装の民間人であった[1][2]。この事件前の1950年には保導連盟事件で、すでに140人の島民が虐殺されていた[3]。
1960年 – 神奈川県横須賀市の衣笠病院で火災。新生児、妊産婦、看護婦ら16人が死亡、重軽傷24人[3]。
1982年 – ベーリング海で第二十八あけぼの丸が沈没。32人が死亡。

チャットgpt先生の1月6日のエッセイ


1月6日という日――歴史の重さと、人間の選択

1月6日は、新年の高揚がまだ残る暦の上で、しかし不思議なほど多くの「重たい記憶」を背負った日である。
2026年1月6日は旧暦11月18日、仏滅、庚辰(かのえたつ)。隠遁日とされ、表立った前進よりも、内側へ沈み込み、見えないものを見つめ直す日にふさわしい。

この日を歴史に照らすと、そこに共通して浮かび上がるのは「力」と「判断」、そして「人間の傲慢」である。

1842年のイギリス軍カーブル撤退は、帝国の慢心がいかに脆いかを示した。4,500人もの兵が、交渉と撤退の名のもとに山岳地帯へ追い込まれ、ほぼ全滅する。世界最強を自負した帝国でさえ、土地と人を理解せぬまま力を振るえば、無残な結末を迎える。歴史は、支配の論理が必ずしも勝利を保証しないことを、この日に刻みつけた。

1919年1月6日、セオドア・ルーズベルトが世を去った。彼は「強いアメリカ」の象徴であり、行動力と理想を兼ね備えた人物として語られる一方、先住民虐殺を正当化する発言も残している。偉大さと残酷さが同じ人物の中に同居するという事実は、人間という存在の複雑さを否応なく突きつける。英雄とは何か、正義とは誰のものか──1月6日は、その問いを私たちに投げ返す。

日本や朝鮮半島に目を向けても、この日は悲劇に満ちている。
二俣事件では、一度下された死刑判決が覆り、最終的に無罪が確定した。ここには、司法という「正しさ」を担う仕組みが、いかに容易く誤るかが示されている。正義は制度の中に自動的に宿るものではなく、人の慎重さと良心によってのみ支えられるのだ。

江華良民虐殺事件では、非武装の民間人が「協力者」という名のもとに大量に殺された。戦争という極限状態では、疑いと恐怖が人を簡単に加害者へと変える。敵味方という単純な線引きの裏で、最も弱い者が犠牲になる構造は、時代や国を超えて繰り返されてきた。

さらに、病院火災や海難事故など、意図なき悲劇もこの日に重なる。人は争わずとも、備えを怠れば命を失う。文明とは安全を約束するものではなく、注意を要求するものなのだと、これらの出来事は静かに語っている。

こうして見渡すと、1月6日は「始まりの年」にあるにもかかわらず、終わりと失敗、そして悔恨の記憶に満ちている。しかしだからこそ、この日は価値を持つ。
仏滅であり、隠遁日であることは象徴的だ。進む前に立ち止まり、自分が振るおうとしている力、下そうとしている判断が、誰かを傷つけないかを考える日。

1月6日は祝う日ではない。
だが、忘れてはならない日である。
歴史の犠牲者たちの沈黙に耳を澄ませることで、私たちはほんのわずかでも、同じ過ちから遠ざかることができるかもしれない。

新年の6日目にして、世界はすでに「問い」を突きつけてくる。
人は、力をどう使うのか。
正義を、誰のために掲げるのか。

1月6日とは、その問いを静かに引き受けるための日なのだ。