kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月4日  1879梟首刑廃止、ほか写真wikipedia江戸時代の獄門図

1月4日

20260104日曜日旧暦11月16日友引(戊寅つちのえとらボイン)月齢 15

乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 戊寅つちのえとら日 年末まであと361日

吉方位 隠遁日 戊寅つちのえとら日

https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%884%E6%97%A5

1月4日の出来事

1698年 – ロンドンのホワイトホール宮殿の大半が火事により焼失。

1879年 – 明治政府が平安時代から実施されていた梟首刑(晒し首)を廃止。

1903年 – 電流戦争:トーマス・エジソンの会社がサーカスの象トプシーを電気ショックにより処刑。

1977年 – 青酸コーラ無差別殺人事件。場所 日本の旗 日本・東京都、大阪府

標的 民間人

日付 1977年(昭和52年)1月4日 – 2月半ば

概要 無差別殺人事件

攻撃手段 シアン化ナトリウム

攻撃側人数 不明

被害者 3人死亡(内1人自殺)、1人意識不明

犯人 不明

動機 不明

対処 公訴時効成立(未解決)

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1698年 – ロンドンのホワイトホール宮殿の大半が火事により焼失。

ホワイトホール宮殿 (Palace of Whitehall) は、ロンドンに存在した宮殿。1530年から1698年まで王室の居住地として用いられた。大半は火災により焼失し、イニゴ・ジョーンズによって設計されたバンケティング・ハウスのみが現在も残っている。当時の宮殿は部屋数1500におよびヨーロッパ一の規模を誇っていた。

宮殿は北をノーサンバーランド・アヴェニュー、南はダウニング・ストリートからダービー・ゲイト、西側は現在のホース・ガーズ、東はテムズ川河畔に囲まれた広大な地区を敷地としていた。総面積は23エーカー (93,000 m2)にも及ぶ。 現在の英国の政治の中心であるホワイトホールにその名を留めている。

1879年 – 明治政府が平安時代から実施されていた梟首刑(晒し首)を廃止。

獄門(ごくもん)とは、日本において行われた、死後に首を晒しものにする刑罰。梟首(きょうしゅ)、晒し首ともいう。斬首刑執行後に晒しものにする場合と、戦死・自害など死刑以外の死因による死者の首を胴体から切り離して晒しものにする場合の両方を含む。斬首と晒し首を一体の刑罰として獄門と呼ぶこともある。

元来は、平安京の左右衛門府(検非違使)に隣接する獄所(拘置所)の門を指す。朝廷の命により討ち取られた者の首が運ばれ、その門前に一時的においた。朝廷の命により討ち取られ者と確認された後、東もしくは西市へ移送し木に吊るして晒したが、その後、移送せず門前の楝(おうち)の木に吊るすようになった。

江戸時代に庶民に科されていた6種類の死刑の一つ。

概要

罪人とされた者の死骸を晒しものにすることは古代から行われていたが、平安京の東西に2箇所存在した検非違使の獄所の門を「獄門」と呼んだことから、獄門において晒し首にすることを特に獄門と称した。獄門において晒し首にすることは、他の場所で晒し首にするよりも重い刑罰と見なされていた。なお、『平治物語絵巻』では信西の首が獄所の門の棟木に懸けられている様子が描かれているが、実際には獄門における晒し首は獄門の前の楝(おうち)の木に懸けられた[1]。検非違使の衰退に伴い獄所も機能を失い、南北朝時代に盛んに行われた獄門における梟首も、室町時代中期以降は赤松満祐に対して行われたのが唯一の例である。

獄門以外に梟首の行われる場所としては、京都では六条河原が代表的であり、同時に六条河原は斬首を執行する場所でもあった。

江戸時代には斬首と晒し首を併せた刑罰として「獄門」と言う名称が復活するが、晒し首にする場所は獄舎ではなく小塚原・鈴ヶ森の刑場であった。罪が重い場合は引廻しを付加刑として科す場合もあった。

1977年 – 青酸コーラ無差別殺人事件。場所 日本の旗 日本・東京都、大阪府

標的 民間人

日付 1977年(昭和52年)1月4日 – 2月半ば

概要 無差別殺人事件

攻撃手段 シアン化ナトリウム

攻撃側人数 不明

被害者 3人死亡(内1人自殺)、1人意識不明

犯人 不明

動機 不明

対処 公訴時効成立(未解決)

青酸コーラ無差別殺人事件(せいさんコーラむさべつさつじんじけん)は、1977年(昭和52年)1月4日から2月半ばまで、東京・大阪で起こった無差別殺人事件。

青酸ソーダ入りのコカ・コーラを飲んだ会社員らが死亡した。毒入りコーラ事件とも呼ばれる。

犯人逮捕に至らないまま、1992年(平成4年)1月に公訴時効が成立し、未解決事件となった。

チャットgpt先生の1月4日のエッセイ


1月4日 ― 焼失と廃止、そして未解決の影

1月4日は、暦の上ではまだ年の始まりにありながら、人間の歴史においては「終わり」や「喪失」が幾度も刻まれてきた日である。
2026年1月4日は戊寅の日。旧暦では11月16日、月齢は満月を越えた15。表向きは友引という穏やかな響きを持ちながら、その裏側には、燃え落ち、断ち切られ、そして解決されぬまま時効へと流された出来事が静かに重なっている。

1698年のこの日、ロンドンのホワイトホール宮殿の大半が火災によって失われた。
1500室を超える部屋を持ち、ヨーロッパ最大規模を誇った王宮は、一夜にして歴史の中心から過去へと押し流された。権力と栄華の象徴であった建物が炎に呑まれ、現在に残るのはバンケティング・ハウスのみであるという事実は、どれほど巨大な存在であっても、永遠ではないことを端的に物語っている。政治の中心地「ホワイトホール」という地名だけが、その記憶を現代に留めている。

1879年1月4日、日本ではさらに象徴的な「終わり」が告げられた。
平安時代から続いてきた梟首刑、すなわち晒し首が廃止されたのである。
獄門という言葉が示すように、これは単なる死刑ではなく、「死後も辱める」ことで秩序を保とうとした制度だった。首を晒すことで見せしめとし、恐怖を社会に刻み込む。だが近代国家を目指す明治政府は、この制度を歴史の彼方へと退けた。
この廃止は、人命の尊厳が完全に守られるようになったことを意味するわけではない。それでも、「死をどう扱うか」という価値観が、確実に変わり始めた転換点であった。

しかし1月4日は、過去を清算するだけの日ではない。
1977年、この日を起点として青酸コーラ無差別殺人事件が始まった。
日常の象徴である飲み物に毒が仕込まれ、何も知らぬ人々が命を落とした。犯人も動機も分からぬまま、公訴時効が成立し、事件は「終わったこと」として扱われるようになった。だが、未解決という事実は、被害者や社会の記憶から消えることはない。
制度上は幕が引かれても、問いは宙に浮いたままである。

焼け落ちた宮殿、廃止された刑罰、解決されなかった事件。
1月4日は、形あるものが失われ、制度が終わり、そして真実が語られぬまま残る日だと言えるかもしれない。

それでも暦は進み、年末まであと361日と告げる。
人は過去の喪失の上に立ち、それでも今日を生きるしかない。
1月4日は、始まりの年の中で、「終わりと向き合う覚悟」を静かに促す日なのだ。