kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月30日 1165年(長寛2年12月17日) – 蓮華王院本堂(三十三間堂)が落慶ほか,写真wikipedia千一体観音 

1月30日

20260130金曜日旧暦12月12日大安(甲辰きのえたつコウシン)月齢 11.2

乙巳きのとみ年 己丑つちのとうし月 甲辰きのえたつ日 年末まであと335日

吉方位 陽遁日  甲辰きのえたつ日

https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8830%E6%97%A5

1月30日の出来事
1165年(長寛2年12月17日) – 蓮華王院本堂(三十三間堂)が落慶する[要出典]。
1649年 – 絶対王政を強行し議会と対立したイングランド国王チャールズ1世が、清教徒革命で処刑(英語版)される。
1661年 – 2年前に亡くなったオリバー・クロムウェルが、国王チャールズ1世を処刑した反逆者として墓を暴かれ遺体が斬首される。
1703年(元禄15年12月14日)- 大石良雄ら旧赤穂藩士47人が吉良義央邸に討ち入り。(赤穂事件) 吉良上野介含め在邸の20名程度が死亡。
1877年 – 西郷隆盛が鹿児島県で主宰していた私学校の生徒が新政府に反発し、政府の武器を奪取。(西南戦争の発端)
1945年 – 第二次世界大戦: 東プロイセンの避難民や傷病兵を乗せた客船「ヴィルヘルム・グストロフ」がソ連海軍の潜水艦により撃沈。9,343人が死亡。
1948年 – マハトマ・ガンディーがヒンドゥー至上主義者によって暗殺(英語版)される。
1949年 – 千葉県で暴風。浦安町沖合で来日中のUP通信社副社長らが乗る和船が転覆して死者4人。また、利根川の渡し船が高岡村付近で転覆して死者・行方不明者19人[2]。

1957年 – 相馬ヶ原演習場のアメリカ軍射撃場内で薬莢拾いの農婦がアメリカ軍兵士ジラードにより射殺される。(ジラード事件)
1959年 – 客船「ハンス・ヘトフト」が処女航海中に氷山に衝突して沈没。乗船していた95人が死亡した。
1968年 – 南ベトナム解放民族戦線がサイゴン・フエなど南ベトナムの主要都市で大攻勢。(テト攻勢)
1972年 – 北アイルランド・ロンドンデリーでカトリック系住民のデモとイギリス治安部隊が衝突。市民13人死亡。(血の日曜日事件)
1974年 – パンアメリカン航空806便墜落事故。パンアメリカン航空の旅客機がアメリカ領サモアのパゴパゴ国際空港へ着陸中に墜落、乗員乗客101人のうち91人が死亡した[4]。
1979年 – ヴァリグ・ブラジル航空967便遭難事故。死亡6人全員。

2023年 – パキスタン北西部、ペシャワルのモスク(イスラム教の礼拝堂)で自爆テロが発生し、200人近くが死傷した[10]。

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1165年(長寛2年12月17日) – 蓮華王院本堂(三十三間堂)が落慶する[要出典]。

この地には元々後白河上皇(1127年 – 1192年)が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂としての三十三間堂である。上皇が眠る「法住寺陵」は三十三間堂の東隣にある[1]。

上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日(1165年1月30日)に完成したという[要出典]。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の建長の大火で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称されている堂であり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。

三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。

寛政10年(1798年)の7月1日(旧暦)に隣接する方広寺大仏殿に落雷があり、それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、方広寺の伽藍である大仏殿・大仏(京の大仏)・仁王門・回廊がほぼ全て焼失した。方広寺大仏殿は(東大寺大仏殿の規模を上回り)当時国内最大の木造建築物であり、火災の際の熱や火の粉で三十三間堂も類焼してもおかしくない状況であったが、奇跡的に類焼を免れた。横山華山作の花洛一覧図(木版摺)は、大仏焼失後の文化5年(1808年)に出版された京都の鳥瞰図であるが、巨大な方広寺大仏殿があえて描かれ(理由は諸説あり 大仏を懐かしむ人々の期待に応えたものか)、江戸時代における三十三間堂と方広寺の位置関係が把握しやすい[2]。京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」というわらべ歌はこの時の火災のことを歌っている[3][注釈 1]。

2017年(平成29年)には、45年にわたった千手観音立像全1,001体の修復が完了した。

「33」は観音菩薩に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。

1649年 – 絶対王政を強行し議会と対立したイングランド国王チャールズ1世が、清教徒革命で処刑(英語版)される。
1661年 – 2年前に亡くなったオリバー・クロムウェルが、国王チャールズ1世を処刑した反逆者として墓を暴かれ遺体が斬首される。
1703年(元禄15年12月14日)- 大石良雄ら旧赤穂藩士47人が吉良義央邸に討ち入り。(赤穂事件) 吉良上野介含め在邸の20名程度が死亡。
1877年 – 西郷隆盛が鹿児島県で主宰していた私学校の生徒が新政府に反発し、政府の武器を奪取。(西南戦争の発端)
1945年 – 第二次世界大戦: 東プロイセンの避難民や傷病兵を乗せた客船「ヴィルヘルム・グストロフ」がソ連海軍の潜水艦により撃沈。9,343人が死亡。
1948年 – マハトマ・ガンディーがヒンドゥー至上主義者によって暗殺(英語版)される。
1949年 – 千葉県で暴風。浦安町沖合で来日中のUP通信社副社長らが乗る和船が転覆して死者4人。また、利根川の渡し船が高岡村付近で転覆して死者・行方不明者19人[2]。

1957年 – 相馬ヶ原演習場のアメリカ軍射撃場内で薬莢拾いの農婦がアメリカ軍兵士ジラードにより射殺される。(ジラード事件

ジラード事件(ジラードじけん)は、1957年(昭和32年)1月30日、群馬県群馬郡相馬村(現・榛東村)で在日米軍兵士が日本人主婦を射殺した事件。日本に裁判権がみとめられたが、のちに日米合同委員会で裁判権や刑罰について密約があったことが明らかとなった[1][2][3]。

経緯

当時の在日米軍群馬県相馬が原演習地(現・相馬原駐屯地)では、実弾射撃訓練が行われていた。演習地は立ち入り禁止措置がなされていたが、近隣住民は薬莢や発射された後の弾頭など金属類を拾って換金することを目的として、しばしば演習地内に立ち入っていた。

1957年(昭和32年)1月30日、薬莢を拾う事を目的に演習地内へ立ち入った日本人主婦(当時46歳)に対して、主婦の背後から第1騎兵師団第8連隊第2大隊のウィリアム・S・ジラード三等特技兵(当時21歳、イリノイ州オタワ(英語版)出身[5])がM1ガーランド装着のM7グレネードランチャーで空薬莢を発射し、主婦が即死する事件が発生した。目撃者の証言から、ジラードが主婦に「ママサンダイジョウビ タクサン ブラス ステイ」と声をかけて、近寄らせてから銃を向け発砲した可能性があることがわかると、アメリカへの批判の声が高まり社会現象となった。ジラードが主婦を射殺した時は休憩時間であったことから日本の裁判を受けるべきであると日本側が主張し、アメリカ陸軍が職務中の事件だとしてアメリカ軍事法廷での裁判を主張するなど、アメリカ側からは強い反発もあったが日本の裁判に服することで決着した[5]。

裁判

アメリカに住むジラードの家族が「裁判はアメリカでやるべき」と訴えを起こすが、当局は日本での世論の高まりを考慮して棄却する。結局、ジラードは日本で傷害致死罪で起訴された。 1957年(昭和32年)11月19日、前橋地方裁判所で行われた裁判で懲役3年・執行猶予4年の有罪判決。その後に確定したが、同年12月6日に帰国した[6]。

ジラード自身は、その酒癖の悪さや借金癖から兵士仲間からも軽く扱われる存在だった。アメリカ軍を不名誉除隊した後、台湾生まれの日本人女性と結婚し当年度中に帰国した時も兵士仲間からブーイングが起きた。被害者の遺族(夫と6人の子供)には補償金として1,748.32米ドル(2011年現在 13,642米ドル)が支払われたが司法が売買された結果だと日本人の多くが捉え、被害者の夫も「感謝しない」と述べた[5]。

なお、ジラードへの処罰を最大限軽く(殺人罪でなく傷害致死罪で処断)することを条件に、身柄を日本へ移すという内容の密約が日米間で結ばれていたことが1991年にアメリカ政府の秘密文書公開で判明した[1]。日本の外務省が1994年11月20日に行なった「戦後対米外交文書公開」でも明らかとなっている。


1959年 – 客船「ハンス・ヘトフト」が処女航海中に氷山に衝突して沈没。乗船していた95人が死亡した。
1968年 – 南ベトナム解放民族戦線がサイゴン・フエなど南ベトナムの主要都市で大攻勢。(テト攻勢)
1972年 – 北アイルランド・ロンドンデリーでカトリック系住民のデモとイギリス治安部隊が衝突。市民13人死亡。(血の日曜日事件
1974年 – パンアメリカン航空806便墜落事故。パンアメリカン航空の旅客機がアメリカ領サモアのパゴパゴ国際空港へ着陸中に墜落、乗員乗客101人のうち91人が死亡した[4]。
1979年 – ヴァリグ・ブラジル航空967便遭難事故。死亡6人全員。
2023年 – パキスタン北西部、ペシャワルのモスク(イスラム教の礼拝堂)で自爆テロが発生し、200人近くが死傷した[10]。

チャットgpt先生の1月30日のエッセイ


1月30日――祈りと断絶のあいだで

1月30日は、不思議な重さをもった日である。
大安、月齢11.2。暦の上では吉を示し、天の巡りも整っている。しかし歴史をひもとくと、この日に刻まれた人間の営みは、必ずしも穏やかではない。

1165年、後白河上皇の命によって蓮華王院本堂――三十三間堂が落慶した。
千手観音一千一体が並ぶこの堂は、祈りのかたちを「数」と「空間」で可視化した、日本仏教の極点のひとつである。観音は三十三の姿に身を変え、あらゆる苦しみを救うという。三十三間堂とは、救済の可能性を信じ続けた人間の執念の建築だ。

伝承によれば、後白河上皇を悩ませた頭痛は、前世の因縁と結びつけられ、やがて観音のもとへと納められたという。合理ではなく、物語によって痛みを鎮める。そこには「理解できなくとも、祈ることで人は生き延びる」という、時代を超えた真理がある。

だが同じ1月30日は、祈りが引き裂かれた日でもある。
1649年、イングランド王チャールズ1世は処刑され、王権神授説は血に濡れた断頭台の上で否定された。二年後にはクロムウェルの遺体すら掘り起こされ、死者さえも裁かれた。信念が信念を罰する時代の、冷たい狂気である。

1703年の赤穂浪士討ち入りは、「義」の名のもとに人が人を斬ることを正当化した。
1948年には非暴力を貫いたガンディーが暗殺され、1968年のテト攻勢、1972年の血の日曜日と、暴力は形を変えながらこの日に集中する。

日本に目を向ければ、1957年のジラード事件がある。
演習地で命を奪われた一人の主婦。その死は「事故」でも「過失」でも片づけられ、日本の司法と主権は軽く扱われた。千手観音が象徴する「すべてを救うまなざし」は、現実の政治と力関係の前ではあまりにも脆い。

それでも、三十三間堂は焼け残った。
雷が大仏殿を焼き尽くした夜も、奇跡のように立ち続けた。
わらべ歌に残るその記憶は、「すべては失われない」という、かすかな希望の証拠でもある。

1月30日とは、人間が祈りと暴力のあいだで揺れ続けてきた痕跡の日なのだろう。
観音を並べ、王を殺し、義を叫び、民が倒れ、それでも人は翌日を生きる。

年末まであと335日。
歴史は過去の出来事だが、選択はいつも現在にある。
この日を思い出すことは、祈る側に立つのか、断つ側に立つのかを、静かに自分へ問い返すことなのかもしれない。