kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月29日  1863ベア川のインディアン虐殺ほか、写真wikipediaショーニー族ティーピー

1月29日

20260129木曜日旧暦12月11日仏滅(癸卯みずのとうキボウ)月齢 10.2

乙巳きのとみ年 己丑つちのとうし月 癸卯みずのとう日 年末まであと336日

吉方位 陽遁日 癸卯みずのとう日

https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8829%E6%97%A5

1月29日の出来事
67年 – ペトロ、イエス・キリストの使徒たちのリーダー没。62-67歳とされる。
1598年(慶長2年12月22日) – 慶長の役・蔚山城の戦い(一次)始まる。年月日:慶長2年12月22日から慶長3年1月4日(1598年1月29日から2月9日)
場所:朝鮮国慶尚道蔚山 ウルサン=いさん  結果:日本軍の勝利[3] 損害:明軍 50000人中 戦死20000人 日本軍 20000人中 不明だが3000人程度か。
1863年 – 南北戦争・太平洋岸戦線: ベア川の虐殺が起こる。500名中400名程度のショーニー族が米軍に虐殺された。

1940年 – 西成線列車脱線火災事故。死者189人。本件事故は日本の鉄道事故において、現在に至るまで正確に記録されたものとしては史上最悪の死者数を出した事故である

2025年 – アメリカ合衆国ワシントンD.C.のロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港近くのポトマック川付近にてアメリカ合衆国陸軍のUH-60 ブラックホークと小型旅客機が空中で衝突し、墜落する事故が発生[6]。死者67人(全員)。

→「アメリカン航空5342便空中衝突事故」も参照

2025年 – インド北部ウッタルプラデシュ州プラヤーグラージでヒンドゥー教の12年に1度の大祭マハ・クンブメーラで群衆事故が発生し、死者30人以上[7]。

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67年 – ペトロ、イエス・キリストの使徒たちのリーダー没。62-67歳とされる。

1598年(慶長2年12月22日) – 慶長の役・蔚山城の戦い(一次)始まる。年月日:慶長2年12月22日から慶長3年1月4日(1598年1月29日から2月9日)
場所:朝鮮国慶尚道蔚山 ウルサン=いさん  結果:日本軍の勝利[3] 損害:明軍 50000人中 戦死20000人 日本軍 20000人中 不明だが3000人程度か。

蔚山城の戦い(ウルサンソン[1]のたたかい、いさん[2]じょうのたたかい)は、1598年1月29日(慶長2年12月22日)から同年2月9日(慶長3年1月4日)に慶長の役で明・朝鮮連合軍と日本軍との間で行われた交戦(蔚山城の構造については蔚山倭城を参照)。当項の日付は和暦を用いる

1863年 – 南北戦争・太平洋岸戦線: ベア川の虐殺が起こる。500名中400名程度のショーニー族が米軍に虐殺された。

ベア川の虐殺(ベアかわのぎゃくさつ、英:Bear River massacre、またはベア川の戦い、英:Battle of Bear River、またはボア・オゴイの虐殺、英:Massacre at Boa Ogoi)は、1863年1月29日に、当時のワシントン準州南東部ベア川とビーバー・クリーク(現在のバトル・クリーク)の合流点で、アメリカ陸軍が、ショーショーニー族インディアンを無差別虐殺した軍事行動である。

アメリカ軍の虐殺と行動
ショーショーニー族が戦斧や弓矢を使い、アメリカ軍と死に物狂いで戦うようになると、兵士達は自制も規律も全て失ったように見えた。大半の者が殺された後、兵士達は野営地に入ってショーショーニー族の女たちを強姦し陵辱した。子供達の多くも撃たれて殺された。ある場合、兵士達は赤ん坊の踵を掴んで、「やつらの脳味噌を叩きだした」。兵士に降伏を拒んだ女性は射殺された。一人の地元住人、アレクサンダー・ストーカーは、このとき多くの兵士が拳銃を抜いて至近距離からショーショーニー族の者数人を撃ったと述べた。兵士達は手に入れられる物の大半を念入りに燃やした。特にショーショーニー族が寝ていた住居を燃やし、まだ中にいた者も全て殺した[47]。

損失と直後の動向
ショーショーニー族の死亡者数は大変大きなものだったが、幾らかの生存者もいた。最も有名なのはサグウィッチ酋長であり、残った生存者を集めて、そのバンドを生き残らせることができた。サグウィッチ酋長自身は手に2発の銃弾を受け、馬に乗って逃げ出したが、乗っていた馬も撃たれて死んだ。最終的に谷を駆け下り、ある熱水泉の近くでベア川に転げ込み、夜が来るまで木片に掴まって浮いていた。

サグウィッチの息子、ベシャップ・ティンビンブーは少なくとも7発の銃弾を浴びたがなんとかして生き残り、家族に救出されるまで生きていた。隊の他のメンバーはベア川のヤナギの木立に隠れ、あるいは死んだ振りをして生き延びた。アメリカ軍士官が戦いは終わったと考えた後に、兵士達はフランクリンに近い一時的な宿営地に戻った。このことで、サグウィッチ酋長やショーショーニー族の生き残りは負傷者を回収し、まだ生きている者のために火をおこすことができた[51]。

フランクリンの住民はその夜負傷した兵士達のために自分達の家を開放し、他の兵士達が寒さに曝されるのを避けるために教会の集会所に毛布や干草を持ち込んだ。コナーは幾人かのフランクリン住民を雇って橇を引っ張らせ、負傷兵をソルトレイクシティに連れ帰らせた。

カリフォルニア志願兵隊は5人の士官を含め27名を失った。ショーショーニー族の部隊は200名ないし400名を失った。アメリカ軍当局は死者272名と報告した。デンマークからの移民ハンス・ヤスパーソンが1911年に書いた自伝では、死体の間を歩いて493体のショーショーニー族の死体を数えたと主張している。

1918年、サグウィッチの息子、フランク・ティンビンブー・ワーナーは「当時いた者の半分は逃げた」と言い、156名が殺されたとしていた。さらに2人の兄弟と1人の義理の姉妹は「生きており」、多くの者は後にユタ入植地のワシャキー、ウィンドリバー・カントリーのホール砦保留地など他の場所で生活したとも付け加えた[52]。

多くのインディアンは冬の間その幼い子供達を白人入植者のところに置いて行くようになり、彼らの何人かは実際にモルモン教徒の家族となって、キャッシュ・バレー初期に他の家族と一緒に写った写真が残されている。

1940年 – 西成線列車脱線火災事故。死者189人。
西成線列車脱線火災事故(にしなりせんれっしゃだっせんかさいじこ)は、1940年(昭和15年)1月29日に大阪府大阪市此花区の鉄道省西成線(現在の西日本旅客鉄道桜島線)安治川口駅構内において発生した列車脱線転覆火災事故である。

駅員の分岐器切り替えの不正操作により、列車通過中に分岐器を転換したため、気動車(ガソリン動車)列車のキハ42000形3両編成のうちの最後尾の1両が2対のレールにまたがったまま進行し、同駅構内の島屋町踏切(現在も同じ名前で存在する)付近の構築物に衝突して脱線・転覆した。その結果、燃料のガソリンへの引火により車両火災が発生し、横転した車両から乗客らの脱出が困難になるなどの悪条件が重なったことから、死者189名、重軽傷者69名を出す大惨事になった。

本件事故は日本の鉄道事故において、現在に至るまで正確に記録されたものとしては史上最悪の死者数を出した事故である[注釈 2]。

2025年 – アメリカ合衆国ワシントンD.C.のロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港近くのポトマック川付近にてアメリカ合衆国陸軍のUH-60 ブラックホークと小型旅客機が空中で衝突し、墜落する事故が発生[6]。

→「アメリカン航空5342便空中衝突事故」も参照 死者67人(全員)。

2025年 – インド北部ウッタルプラデシュ州プラヤーグラージでヒンドゥー教の12年に1度の大祭マハ・クンブメーラで群衆事故が発生し、死者30人以上[7]。

チャットgpt先生の1月29日のエッセイ


1月29日という日 ―― 記憶と選択のあいだで

1月29日は、暦の上では年のまだ浅い地点にありながら、人類史の深い影が幾重にも折り重なる日である。
旧暦では年の終わりが見え始め、月齢は10を越え、満ちきる直前の、不安定で揺らぎやすい時期。仏滅という名が象徴するように、この日は「終わり」や「失われたもの」が歴史の表面に浮かび上がりやすい。

西暦67年、使徒ペトロがこの世を去ったとされる。信仰の礎を築いた人物の死は、宗教史における一区切りであり、「理念は人を超えて残る」という事実を示す最初の象徴の一つだったのかもしれない。

1598年、蔚山城の戦いが始まる。勝敗や戦果という言葉の裏で、数万という人間が命を落とした。戦史に記される「勝利」は、同時に無数の個人の人生が断ち切られたことを意味する。歴史は往々にして国家や軍の視点で語られるが、1月29日は、その裏に埋もれた沈黙の重さを思い出させる。

1863年のベア川の虐殺は、文明や国家という名のもとで行われた暴力が、いかに簡単に人間性を踏み越えるかを突きつける出来事だった。そこにあったのは戦闘というより、一方的な破壊であり、恐怖の中でも生き延びようとした人々の記憶である。生存者がいたという事実は、人間の残酷さと同時に、驚くほどの生命力をも物語っている。

1940年の西成線列車脱線火災事故は、戦争ではなく「日常」の中で起きた悲劇だった。人為的なミスと時代の技術的限界が重なり、189人が帰らぬ人となった。この事故は、平和な日常がいかに脆く、制度や注意が一瞬で破綻しうるかを教えている。

そして2025年。航空事故や群衆事故といった出来事は、「現代だから安全」という思い込みを打ち砕く。技術が進んでも、人が集まり、移動し、判断する限り、悲劇の可能性は消えない。

こうして眺めると、1月29日は「死の多い日」ではある。しかし同時に、忘れてはならないのは、これらの出来事が記録され、語り継がれているという事実だ。記憶されることは、犠牲者が完全に無へと消え去らないための、かすかな救いでもある。

この日は、未来に向けて何かを始めるよりも、立ち止まり、過去を見つめ、「同じ過ちを繰り返さないために自分は何を選ぶのか」を静かに問い直す日にふさわしい。
1月29日とは、人類が積み重ねてきた選択の結果を前にして、次の一手を慎重に考えるための日なのだと思う。