kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月23日 1902八甲田山死の彷徨、ほか写真wikipedia冬の八甲田山

1月23日
20250123木曜日旧暦12月24日大安(壬辰みずのえたつジンシン)月齢 23.1
甲辰きのえたつ年丁丑ひのとうし月壬辰みずのえたつ日  年末まであと342日
吉方位 陽遁日 北東 大吉、南 大吉、西 吉。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8823%E6%97%A5
1月23日の出来事
829年(天長5年12月15日) – 空海が京都九条に、庶民子弟のための私塾綜芸種智院の設立する[1]。
1556年(嘉靖34年12月12日) – 明の陝西省で華県地震、死者数は歴史上最大の83万。発生日 1556年1月23日(旧暦嘉靖34年12月12日)
発生時刻 朝方 震央 明代 中国 陝西省 華山付近
1902年 – 八甲田雪中行軍遭難事件: 八甲田山で行われた陸軍の雪中耐寒行軍で、青森歩兵第5連隊第2大隊210人のうち199人が遭難死するという世界山岳遭難史上無類の大量遭難事件が発生[2]。
1905年 – ニホンオオカミの最後の1頭が奈良県で捕獲される。
1910年 – 逗子開成中学校の生徒ら12名が乗ったボートが七里ヶ浜沖で転覆し、全員が死亡。この事件を題材とした「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)」は全国で愛唱された。

2020年 – 新型感染症COVID-19により中華人民共和国湖北省の武漢市に封鎖措置が取られる[2]。COVID-19における世界初の都市閉鎖であり、人口1000万人を超える巨大都市である武漢の封鎖は、同年4月8日に解除されるまで継続された。

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829年(天長5年12月15日) – 空海が京都九条に、庶民子弟のための私塾綜芸種智院の設立する[1]。

実際に空海の構想がどこまで実現されたかは明らかでない部分が多く、綜芸種智院の設立自体を疑問視する見解も一部にはある。綜芸種智院は、空海の死後10年ほど経た承和12年(845年)、所期の成果を挙げることが困難になったとして、弟子たちによる協議の末売却された。その売却益は東寺の真言僧育成財源確保のための寺田(所在地丹波国多紀郡、のちの大山荘)購入に充てられている。売却まで運営されていたのか、それ以前からすでに運営されなくなっていたのか定かでないが、一般的には、天長5年末から承和12年までの20年弱が、綜芸種智院の存続期間と考えられている。廃絶理由として、財源不足、後継者難、真言教団維持優先への路線転換、構想自体の非現実性、実際は朝廷による民衆懐柔のための一時的施設であったとする見方など、様々な理由が挙げられているが、いまだ定説を得るに至っていない。

1556年(嘉靖34年12月12日) – 明の陝西省で華県地震、死者数は歴史上最大の83万。発生日 1556年1月23日(旧暦嘉靖34年12月12日)
発生時刻 朝方 震央 明代 中国 陝西省 華山付近 死傷者数 死者830,000人
被害総額 不明 被害地域 大明帝国 陝西省・
1902年 – 八甲田雪中行軍遭難事件: 八甲田山で行われた陸軍の雪中耐寒行軍で、青森歩兵第5連隊第2大隊210人のうち199人が遭難死するという世界山岳遭難史上無類の大量遭難事件が発生[2]。

雪中行軍
日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。対ロシア戦は10年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなる。

雪中行軍は青森歩兵第5連隊210名が1902年1月23日から、弘前歩兵第31連隊37名と新聞記者1名が1月20日から2月1日までそれぞれ異なる経路を行軍した。

行軍途中の遭難隊の目撃説
福島泰蔵大尉率いる弘前歩兵隊が青森隊の遭難を知ったのは公式には田茂木野に着いてからとされているが、途中凍死者および銃を見たとの記述が従軍記者による記事[注釈 12]や隊員の日記、案内人の証言記録などにある[46]。遭難者の顔を見ようと軍帽を外そうとしたところ、顔の皮膚まで剥がれて軍帽に付着したとの記述もある[47]。さらに弘前隊が田茂木野に着いた際、第5連隊遭難者を目撃した旨を福島大尉自身が報告したという資料が2002年に見つかっている。

しかし、福島の「過去二日間の事は絶対口外すべからず」という命令やその後の軍の緘口令により、現地で見たこと、その他軍の不利になるようなことはすべて封じられた。自らも遭難しそうな状況下で救助は事実上不可能だったが、目撃の事実を隠蔽した理由として、遭難を発見しながら救助活動をしなかったことが推測されている。その後、第5連隊の後藤惣助一等卒(生還)の体験談として、救援隊とおぼしき一団を見て互いに気付いたが無視して通過されてしまい、後日弘前隊だったと知ったという旨の資料が見つかっている[48]。

案内人の証言と被害
31連隊と共に田代への道案内で駆り出された地元の一般人も後遺症の残る凍傷などの被害を受けている。国などから補償のあった遭難兵士と違い、道案内の地元民には1人2円の案内料以外は渡されていない[注釈 13]。

後日発表された当時の案内人の言によれば、実際には田代に向けた行進において、引き返すことを進言した案内人を叱り飛ばし無理矢理案内をさせたばかりか、田代近辺の露営地に着くなり休憩する暇も与えず、案内人の一部を人質として拘束した上で、残りの者に田代新湯への斥候を命じたとある。結局、新湯は見つからず、明け方になって開拓者の小さな小屋を見出したが、全員は入りきれず、足踏みをしながら朝まで交代で小屋の内と外で休憩をした。

また、31連隊の福島隊は、八甲田山系の最難関を通過後、小峠付近で疲労困憊の案内人たちを置き去りにして部隊だけで田茂木野に行軍していった。これら案内人はすべて重度の凍傷を負い、うち1名は入院するも回復せず、廃人同様となったまま16年後に死亡、いま1人は凍傷のため頬に穴があき、水を飲むのにさえ苦労したという。これらの事実は1930年(昭和5年)になって初めて明らかにされ、地元では“七勇士”として、その功績を称える石碑も翌年に建立された[46][49]。

陸上自衛隊幹部候補生学校に寄贈された福島大尉の遺品に、7人の案内人を提供した大深内村の村長からの、「連隊長及び福島大尉の念書を頂いて用立てした案内人が重度の凍傷にかかり、治療費を陸軍に負担して貰う旨村議会で全会一致で議決したため、議決書や診断書をお送りしますのでご補助をよろしくお願いします」との内容の手紙がある[50]。

1905年 – ニホンオオカミの最後の1頭が奈良県で捕獲される。
1910年 – 逗子開成中学校の生徒ら12名が乗ったボートが七里ヶ浜沖で転覆し、全員が死亡。この事件を題材とした「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)」は全国で愛唱された。

2020年 – 新型感染症COVID-19により中華人民共和国湖北省の武漢市に封鎖措置が取られる[2]。COVID-19における世界初の都市閉鎖であり、人口1000万人を超える巨大都市である武漢の封鎖は、同年4月8日に解除されるまで継続された。

チャットgpt先生の1月23日のエッセイ

1月23日:時空を越える物語の旅

1月23日は、歴史の断片が交錯する日だ。この日を振り返ると、さまざまな時代と場所で織りなされた出来事が浮かび上がる。それらは単なる記録ではなく、私たちに考えるきっかけや学びをもたらす物語だ。


829年、平安時代の日本。空海が京都の九条に設立した綜芸種智院は、庶民の子弟にも教育の機会を与えるという理想を掲げた。しかし、その試みは20年も経たずして幕を閉じることになる。構想の壮大さが時代の現実にそぐわなかったのか、それとも資金や後継者の問題だったのか。確かな答えはない。ただ、この試みの精神は、教育の可能性を追求する現代の私たちにも響くものがある。

1556年、中国陝西省で発生した華県地震。この日、歴史上最も多くの犠牲者を出した自然災害が起こった。死者数は実に83万人。朝方の静けさを一瞬で引き裂き、多くの命が奪われた。地震の発生が防げない以上、私たちはその記憶を未来に伝え、防災の備えに活かすしかない。この悲劇の記録は、自然の圧倒的な力を前にした人間の無力さと、そこから学ぶべき責任を問いかける。


また、1902年には日本で八甲田雪中行軍遭難事件が起きた。厳寒の八甲田山で行軍中だった210名のうち199名が命を落としたという悲劇だ。この訓練は、対ロシア戦への準備として行われたものだったが、計画の甘さや自然環境への過信が招いた結果だった。救助の目撃情報や緘口令など、後年に明らかになった真実は、組織の責任の在り方や命を守ることの本質を考えさせる。

そして、時代をまたぎ、2020年には新型感染症COVID-19の流行により、中国・武漢市が封鎖された。人口1000万人以上の都市が静まり返り、誰もが見えないウイルスへの恐怖に苛まれた。都市封鎖という決断の背景には、これ以上の感染拡大を防ぎたいという切実な願いがあった。この日を境に、世界は変わり始めた。


これらの出来事を通じて感じるのは、私たちの歴史が痛みや失敗、挑戦とともに築かれてきたということだ。829年の空海が教育の夢を語ったときも、1556年の陝西で人々が家族を守ろうとしたときも、1902年の八甲田山で兵士たちが使命を全うしようとしたときも、そして2020年に武漢市で人々が苦しみに耐えたときも、そこには生きるための葛藤と努力があった。

1月23日は、過去の声に耳を傾け、未来に向けた問いを立てる日。これらの出来事を心に刻みながら、私たちは今日をどう生きるべきかを考えたい。