kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月2日   1943ポートモレスビー戦日本軍玉砕、ほかwikipedia日本軍を攻撃するM3軽戦車

1月2日

20260102金曜日旧暦11月14日赤口(丙子ひのえねヘイシ)月齢 13

乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 丙子ひのえね日 年末まであと363日

吉方位 隠遁日 丙子ひのえね日 南 大吉 東 中吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%882%E6%97%A5

1月2日の出来事

1492年 – グラナダが陥落しナスル朝が滅亡。レコンキスタが終結[1]。

1586年(天正13年11月13日) – 徳川家康の重臣石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔[2]。

1624年(元和9年11月12日) – 平戸のイギリス商館が閉鎖。
1777年 – アメリカ独立戦争: プリンストンの戦い。年月日:1777年1月3日
場所:プリンストン 結果:大陸軍の勝利[1] 損害:大陸軍とイギリス軍で 死者140人程度。
1777年 – アメリカ独立戦争: アッサンピンク・クリークの戦い。時 1777年1月2日
場所 ニュージャージー州トレントン  結果 アメリカ合衆国(大陸軍)の勝利[1]
損害:大陸軍とイギリス軍で 死者400人強。
1905年 – 日露戦争・旅順攻囲戦: ロシア軍の旅順要塞が、乃木希典将軍率いる日本軍により陥落。年月日:1904年8月19日 – 1905年1月1日
場所:旅順(満洲) 結果:日本軍の勝利、ロシアの降伏およびロシア旅順艦隊の戦闘機能喪失 損害:日本軍およびロシア軍で 戦死30000人 戦死傷100000人。

1943年 – 第二次世界大戦・ポートモレスビー作戦: ニューギニアのブナで日本軍が玉砕する。年月日:1942年3月7日〜1943年1月23日
場所:ニューギニア島東部パプア半島
結果:オーストラリア・アメリカの勝利 損害:日本軍11000人中 戦死6500人 オーストラリア、アメリカ軍 20500人中 戦死4900人。

日本軍の壊滅
バサブア、ブナ守備隊玉砕

戦況について現地のオーストラリア軍は以下のような電報を送った。 「ジャップは死ぬまで抵抗をやめることなく、そのために我が軍は多くの損害を出しつつあり。いずれの側かが完全にゼロになるまでは勝負はつかぬ様相を呈せり[13]」

ブナから奇跡的に生還した日本側の生存者によると、安田義達大佐は数人の司令部要員とともに万歳突撃を仕掛けたものの戦死[24]。山本重省大佐の死は以下のようものだったという。

「早朝壕を出て、集中射撃して来る敵に向かって、「日本語のわかる者は前に出るように」と叫んだ。すると、この日本語がわかったらしく、敵の射撃がやんで静かになった。山本連隊長は、落ちついた声で敵に話しかけた。「今君達は、勝ち誇っている。物資をやたらに浪費してわれわれを圧倒した。わが軍は一発の弾丸といえども粗末にはしなかった。今に見よ、必ずや日本が勝利を得、正義が世界を支配するに至るであろう。私を撃つのはしばらく待て。日本軍人の最期を見せてやるからよく見ておけ。大日本帝国万歳。万歳。万歳」 ここで切腹され「さあ撃ってよろしい」。そこで、敵の一斉射撃が起こり、戦死された。[25][26]

オーストラリア側の証言によると二人の将校が壕から出てきて、一人は物影へ去った後に自決、もう一人は投降の呼びかけを無視して三度太陽に祈った後、オーストラリア軍部隊と向かい合った。オーストラリア軍将兵が10数えるうちに降伏するように伝えると日章旗を胸に当て、9まで数えたところで「撃て」と叫んだので射殺したとのことである[27]。

1954年 – 二重橋事件:皇居一般参賀者が二重橋上で将棋倒しになり、16名死亡、56名が重軽傷を負う[3]。
1971年 – 寿司由楼火災: 和歌山市新和歌浦の旅館・寿司由楼で火災が発生。16名死亡、15名負傷。
1971年 – アイブロックスの惨事: スコットランド・グラスゴーで行われたレンジャーズ対セルティック戦で将棋倒しが発生し、66名が死亡[5][6]。

2024年 – 東京国際空港(羽田空港)で日本航空の旅客機と海上保安庁の飛行機が衝突・炎上し、5名が死亡する事故が発生(羽田空港地上衝突事故)[12]。

———————————————       

1492年 – グラナダが陥落しナスル朝が滅亡。レコンキスタが終結[1]。

グラナダ陥落

1482年、グラナダで内乱が発生した。これを好機と見て、カスティーリャはグラナダへの侵攻を開始した。1486年までにグラナダの西半分を制圧、1489年までには残りの東半分も制圧した。1490年、カスティーリャはムスリム勢力最後の拠点グラナダを包囲した。グラナダは2年間にわたる攻囲戦を戦い、その間にカスティーリャは軍事拠点としてサンタ・フェを建設した。1492年1月2日、アルハンブラ宮殿が陥落し、ナスル朝は滅亡、レコンキスタはここに終結した。

その後、血の純潔規定(スペイン語版)などのキリスト教純化政策をとったフェルナンド5世はユダヤ人などの異教徒を追放したが、その結果としてスペインの凋落を招くこととなる。

1586年(天正13年11月13日) – 徳川家康の重臣石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔[2]。

石川 数正(いしかわ かずまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。

徳川家康の片腕として酒井忠次とともに活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に出奔して豊臣秀吉に臣従した。深志城主10万石となり、信濃松本藩の初代藩主とみなすことが通説となっている[2]。

1624年(元和9年11月12日) – 平戸のイギリス商館が閉鎖。

1777年 – アメリカ独立戦争: プリンストンの戦い。年月日:1777年1月3日
場所:プリンストン 結果:大陸軍の勝利[1] 損害:大陸軍とイギリス軍で 死者140人程度。

プリンストンの戦い(プリンストンのたたかい、英: Battle of Princeton )は、アメリカ独立戦争中の1777年1月3日に、ニュージャージーのプリンストン近くで、大陸軍とグレートブリテン王国(イギリス)との間に行われた戦闘である。トレントンの戦いでの勝利に続いて、アッサンピンク・クリーク、プリンストンとわずか10日の間の3度の勝利は、意気消沈していた大陸軍の息を吹き返させた。

1777年 – アメリカ独立戦争: アッサンピンク・クリークの戦い。時 1777年1月2日
場所 ニュージャージー州トレントン  結果 アメリカ合衆国(大陸軍)の勝利[1]
損害:大陸軍とイギリス軍で 死者400人強。

アッサンピンク・クリークの戦い[7](英: Battle of the Assunpink Creek、または第二次トレントンの戦い)は、ニュージャージーのトレントンで、1777年1月2日に行われたアメリカとイギリスの交戦である。結果はアメリカの勝利に終わった。

1905年 – 日露戦争・旅順攻囲戦: ロシア軍の旅順要塞が、乃木希典将軍率いる日本軍により陥落。年月日:1904年8月19日 – 1905年1月1日
場所:旅順(満洲) 結果:日本軍の勝利、ロシアの降伏およびロシア旅順艦隊の戦闘機能喪失 損害:日本軍およびロシア軍で 戦死30000人 戦死傷100000人。

旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、リュイシュンこういせん、英語: siege of Port Arthur, ロシア語: оборона Порт-Артура, 1904年(明治37年)8月19日 – 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。

1943年 – 第二次世界大戦・ポートモレスビー作戦: ニューギニアのブナで日本軍が玉砕する。年月日:1942年3月7日〜1943年1月23日
場所:ニューギニア島東部パプア半島
結果:オーストラリア・アメリカの勝利 損害:日本軍11000人中 戦死6500人 オーストラリア、アメリカ軍 20500人中 戦死4900人。

日本軍の壊滅
バサブア、ブナ守備隊玉砕

戦況について現地のオーストラリア軍は以下のような電報を送った。 「ジャップは死ぬまで抵抗をやめることなく、そのために我が軍は多くの損害を出しつつあり。いずれの側かが完全にゼロになるまでは勝負はつかぬ様相を呈せり[13]」

ブナから奇跡的に生還した日本側の生存者によると、安田義達大佐は数人の司令部要員とともに万歳突撃を仕掛けたものの戦死[24]。山本重省大佐の死は以下のようものだったという。

「早朝壕を出て、集中射撃して来る敵に向かって、「日本語のわかる者は前に出るように」と叫んだ。すると、この日本語がわかったらしく、敵の射撃がやんで静かになった。山本連隊長は、落ちついた声で敵に話しかけた。「今君達は、勝ち誇っている。物資をやたらに浪費してわれわれを圧倒した。わが軍は一発の弾丸といえども粗末にはしなかった。今に見よ、必ずや日本が勝利を得、正義が世界を支配するに至るであろう。私を撃つのはしばらく待て。日本軍人の最期を見せてやるからよく見ておけ。大日本帝国万歳。万歳。万歳」 ここで切腹され「さあ撃ってよろしい」。そこで、敵の一斉射撃が起こり、戦死された。[25][26]

オーストラリア側の証言によると二人の将校が壕から出てきて、一人は物影へ去った後に自決、もう一人は投降の呼びかけを無視して三度太陽に祈った後、オーストラリア軍部隊と向かい合った。オーストラリア軍将兵が10数えるうちに降伏するように伝えると日章旗を胸に当て、9まで数えたところで「撃て」と叫んだので射殺したとのことである[27]。

1954年 – 二重橋事件:皇居一般参賀者が二重橋上で将棋倒しになり、16名死亡、56名が重軽傷を負う[3]。

二重橋事件(にじゅうばしじけん)は、1954年1月2日の皇居一般参賀において、二重橋で参賀者の将棋倒しが発生した事故。17名(NHKやTBSでは16人)が死亡した。

1971年 – 寿司由楼火災: 和歌山市新和歌浦の旅館・寿司由楼で火災が発生。16名死亡、15名負傷。

寿司由楼火災(すしよしろうかさい)は、1971年(昭和46年)1月2日未明に和歌山県和歌山市和歌浦の旅館「寿司由楼」(木造、一部耐火鉄骨造、地下1階、4階建、延床面積2,749.06平方メートル)で発生した火災である[1]。

建物は全焼し死者16名、負傷者15名に及ぶ被害を出した。

1971年 – アイブロックスの惨事: スコットランド・グラスゴーで行われたレンジャーズ対セルティック戦で将棋倒しが発生し、66名が死亡[5][6]。

アイブロックスの惨事(英語: Ibrox disaster )は、イギリス・スコットランドのグラスゴーにあるアイブロックス・スタジアム(旧称はアイブロックス・パーク)で行われたサッカーの試合の際に発生した群集事故である。1902年4月5日の事故の際には25人が死亡し、1971年1月2日の事故の際には66人が死亡した。

2024年 – 東京国際空港(羽田空港)で日本航空の旅客機と海上保安庁の飛行機が衝突・炎上し、5名が死亡する事故が発生(羽田空港地上衝突事故)[12]。

羽田空港地上衝突事故(はねだくうこうちじょうしょうとつじこ)は、2024年(令和6年)1月2日、日本の東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)に着陸した日本航空 (JAL) 516便 (A350-941) と、離陸のため誤って滑走路上に進入していた海上保安庁(海保)の航空機が滑走路上で衝突してその両機が炎上した航空事故である。日本航空516便地上衝突事故とも。

チャットgpt先生の1月2日のエッセイ

一月二日という日——始まりの影と光

一月二日は、新年の余韻がまだ空気に残る一方で、歴史をたどると不思議なほど「終わり」と「転換」が刻まれてきた日である。1492年のグラナダ陥落は、レコンキスタの終結という大きな歴史の区切りであり、同時に宗教的寛容が失われ、後の衰退の種を蒔いた出来事でもあった。勝利は常に未来を約束するとは限らない。

日本史に目を向ければ、石川数正の出奔は忠誠と生存、理想と現実の狭間で人が下す選択の重さを思わせる。国家や主君よりも、時代の流れが人を動かすこともあるのだ。

またこの日は、戦争と惨事の記憶が幾重にも重なる。プリンストンやトレントンでの勝利は独立への希望をつないだ一方、旅順やブナでは膨大な命が失われ、信念と命の境界が極限まで試された。勇気と悲劇は、しばしば同じ場所に立っている。

二重橋事件、寿司由楼火災、アイブロックスの惨事、そして近年の羽田空港事故——平時であっても、人の集まりや技術は一瞬で凶器となりうることを、一月二日は静かに語りかける。

赤口のこの日は、派手な始動よりも、立ち止まり、記憶を胸に刻む日にふさわしい。過去の終焉と犠牲を忘れずに、慎み深く一歩を踏み出すこと。その積み重ねこそが、未来の「大吉」へとつながるのだろう。