kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月19日 1868慶応3年1225薩摩藩焼き討ち事件、ほか写真フランス紙の報道画

1月19日
20250119日曜日旧暦12月20日先勝(戊子つちのえねボシ)月齢 19.1
甲辰きのえたつ年丁丑ひのとうし月戊子つちのえね日  年末まであと346日
吉方位 陽遁日
https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8819%E6%97%A5
1月19日の出来事
1862年 – 南北戦争ミル・スプリングスの戦い: ケンタッキー州でジョージ・ヘンリー・トーマス率いる北軍が、南軍に勝利。南北戦争における北軍の最初の大勝利で、北軍のテネシー州中部への進撃の道を開いた。時 1862年1月19日
場所 ケンタッキー州プラスキ郡およびウェイン郡
結果 北軍の勝利  損害: 北軍 4400人中戦死39人 南軍 5900人中戦死125人不明400人。
1868年(慶応3年12月25日)- 江戸薩摩藩邸の焼討事件が起こる。江戸薩摩藩邸の焼討事件(えどさつまはんていのやきうちじけん)は、薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、幕末の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸[注釈 1]が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけになった[1]。
薩摩藩邸焼討事件とも[2]。
1948年 – 出口王仁三郎、宗教家(* 1871年)逝去77歳。

1952年 – フィリピン・モンテンルパにあるニュー・ビリビッド刑務所で、BC級戦犯とされた元日本軍兵士17名の死刑が突如執行される。なお、この出来事がきっかけとなり、渡辺はま子のヒット曲「ああモンテンルパの夜は更けて」が作られた[5]。

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1862年 – 南北戦争ミル・スプリングスの戦い: ケンタッキー州でジョージ・ヘンリー・トーマス率いる北軍が、南軍に勝利。南北戦争における北軍の最初の大勝利で、北軍のテネシー州中部への進撃の道を開いた。時 1862年1月19日
場所 ケンタッキー州プラスキ郡およびウェイン郡
結果 北軍の勝利  損害: 北軍 4400人中戦死39人 南軍 5900人中戦死125人不明400人。

1868年(慶応3年12月25日)- 江戸薩摩藩邸の焼討事件が起こる。江戸薩摩藩邸の焼討事件(えどさつまはんていのやきうちじけん)は、薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、幕末の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸[注釈 1]が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけになった[1]。
薩摩藩邸焼討事件とも[2]。

影響
12月28日(太陽暦1868年1月22日)、土佐藩・山田平左衛門、吉松速之助らが伏見の警固につくと、薩摩藩・西郷隆盛は土佐藩士・谷干城へ薩摩・長州・安芸の三藩には既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した[12]。

薩州屋敷焼打事件の一報に接し、西郷は「これで討幕の名分は立ち申した」と喜び、急ぎ土佐藩の谷干城を呼んで「遂に戦端は開かれましたぞ。今こそ貴藩との五月の約束(薩土討幕の密約)を履行して頂く時が参り申した。乾退助殿を将として速やかに出兵の事を頼みます」と薩土討幕の密約に基づき、土佐藩に兵の出動を促した[13][14]。
— 渋沢栄一著『徳川慶喜公傳(4)』267-268頁
谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(太陽暦1月25日)、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立、1月3日(太陽暦1月27日)、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日(太陽暦1月28日)、山田隊、吉松隊、山地元治、北村重頼、二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦。その後、錦の御旗が翻る。1月6日(太陽暦1月30日)、谷が土佐に到着。1月9日(太陽暦2月2日)、乾退助の失脚が解かれ、1月13日(太陽暦2月6日)、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した[14]。

評価
戊辰戦争後、この事件を西郷隆盛と板垣退助は次の様に評している[15]。

私(板垣退助)が戊辰戦争後に再び西郷(隆盛)君と会ふた時、西郷君は『板垣さんと云ふ人は恐ろしい人よ。他人(ひと)の所へあんな物騒な浪士を放り込んで戦争をおツ初めさせるとは、深慮遠謀。… 何とも恐ろしい人よ』と茶化して私に言ふので『それはさてさて人聞きが悪い。近頃迷惑千万な話ぢやが、之を統御された先生(西郷)こそ随分と危険な御仁であつたやうに思ひまする。…とにかく首尾は上々、あれは好機幕開けでござりましたな』と申し上げたら、西郷君は呵々大笑したのを覚へてをります。(中略)あの(江戸での)浪士騒ぎが戊辰戦争の幕開け(前哨戦)であつたと思ふてをります[15][16]。
—  板垣退助『維新前後経歴談』
近年
東京都港区芝2丁目の薩摩藩邸の土地には、1887年(明治20年)12月に福澤諭吉や金子堅太郎らの招聘でアメリカ・ユニテリアン協会のアーサー・メイ・ナップ牧師が来日してミッション活動を開始したときに[17]、ジョサイア・コンドルの設計の「唯一館」が建築され、ユニテリアン統一主義の布教活動が行われていた[18][注釈 3][注釈 4]。

惟一館の名称はのちに「三田会館」、現在はホテルの「ローズステイ東京芝公園」(別称「友愛会館」)となっている。

1948年 – 出口王仁三郎、宗教家(* 1871年)逝去77歳。
出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年旧7月12日) – 1948年(昭和23年)1月19日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。

概要

出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる[1][注釈 1]。強烈な個性と魅力とカリスマを持っていたとされ、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた[2]。その一方で奔放な言動により敵対者から多くの非難も浴びる[3]。評価は現在でも定まっていない[4]。「国家神道」と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として政府の弾圧を受け、自身も7年近く拘束された[5]。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも病により死去した。その思想と布教方法は戦後の新宗教に大きな影響を与えた[6]。

敗戦後には、朝日新聞の記者に「日本の上層部はわれよしで、自分達が一番正しく、えらいと思うから戦争がおきた。諸外国もわれよしを改めぬ限り戦争は絶えない」と述べている[205]。天皇の神格化や国家神道については「殊に日本の官国幣社が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違ひの根本だった」と厳しく批判した[206]。

1946年(昭和21年)2月、教団活動を「愛善苑」として新発足させた[207]。教団経営や各地への巡教、返還された綾部・亀岡の再建に尽力したが、8月に脳出血で倒れた[208]。以後健康を取り戻すことなく、1948年(昭和23年)1月19日午前7時55分に逝去した[209]。満76歳没。綾部の天王平に歴代教主と共に埋葬されている[210]。

王仁三郎は度々警察に拘留されたが、第一次大本事件や蒙古遭難事件では126日間拘束されている[396]。大正10年2月12日に拘束され、蒙古事件後の7月26日に収監されるまで1260日であり、このため大本事件をヨハネの黙示録になぞらえる珍説もある[397]。ただし王仁三郎も霊界物語第36巻余白歌で「千二百六十日の間月汚す六百六十六匹のけもの」と詠い、別の著作でも獣の数字について言及した[398]。1942年8月7日に仮釈放された際、「わたしが出た日から日本の負け始めや」と家族に語った[399]。同日、米軍はガダルカナル島に上陸、ガダルカナル島の戦いが始まる[400]。尋ねてくる者に様々な予言を行った[401]。「昭和暦十八年の元旦は 五十年準備の充てる日にぞある/昭和十八年の年より三千年の いよいよ経綸の幕は上がれり」と詠い、早くから日本の敗戦を予言[402]。「大本は日本の雛型、日本は世界の雛型。日本がやられて武装解除されれば、いずれ世界も武装解除される」と述べる[403]。広島市への原爆投下やソ連軍の満州侵攻、千島列島や台湾の領土喪失も警告[404]、鈴木貫太郎総理大臣について「日本は鈴木野(すすきの)になる」「日本はなごうは鈴(つづ)木貫太郎(かんだろう)」と冗談にした[405]。予言が的中したことに感嘆する者も多かったが、弟子に「ワシは、神さんの予言が中らぬよう中らぬようと努めてきたのやが……」と嘆息している[406]。本当の火の雨はこれからとも語る[407]。側近によれば、次の大戦は中東が導火線になる宗教戦争と告げ「原爆を投下させない為に死後も活動する」と述べた[408]。王仁三郎の危機的予言は「みろくの世」という理想世界が出現するにあたって起きる大変動(大峠)を比喩したものであり、王仁三郎の活動により、大難(ノアの洪水)のような大災害を、小難(飢饉・病気・戦争)という人類の力が及ぶものに祀り変えて乗り切るという終末と再生観である[409]。

1952年 – フィリピン・モンテンルパにあるニュー・ビリビッド刑務所で、BC級戦犯とされた元日本軍兵士17名の死刑が突如執行される。なお、この出来事がきっかけとなり、渡辺はま子のヒット曲「ああモンテンルパの夜は更けて」が作られた[5]。

戦後

第二次世界大戦後、ニュー・ビリビッド刑務所は、日本人戦犯者の収容施設となり、106名が収容されて17名がここで処刑された[14]。

当時、ニュー・ビリビッド刑務所には、1949年に教誨師として日本から派遣された僧、加賀尾秀忍が囚人とともに生活していた[15]。1951年1月19日に、突如14名の死刑囚が処刑された「中村ケース」に接した加賀尾は、以降、収容者たちの助命嘆願の活動を展開し[15]、これを契機として収容者が作った「あゝモンテンルパの夜は更けて」が渡辺はま子の歌唱で広く知られるようになり、遂には1953年6月27日にエルピディオ・キリノ大統領による恩赦がなされ、収容者全員が帰国する運びとなった[16]。

その後、敷地の一角に日本人戦犯の慰霊墓地が設けられ、併せて日本庭園が整備されたが、これは岸信介の意向で「フィリピンの靖国神社」とすることを意図したものであったという[14]。

チャットgpt先生の1月19日のエッセイ

1月19日 ― 歴史の足跡と人間の思索

1月19日、この日は歴史の波間に刻まれたさまざまな出来事が交錯する日だ。南北戦争の戦火の中でケンタッキーの地に響いた北軍の勝利の声。江戸の街を焼き尽くした薩摩藩邸の火の手が戊辰戦争への扉を開いた日。そして、戦後の混乱の中、フィリピンのニュー・ビリビッド刑務所で日本人戦犯が命を落とした。これらの出来事は、国の形や人々の生き様を深く変えた。


戦争の勝利とその後

1862年のこの日、ジョージ・ヘンリー・トーマス率いる北軍が南軍に大勝したミル・スプリングスの戦い。この勝利は、南北戦争における北軍の士気を大いに高め、進撃の道を拓いた。けれども、この勝利の影には、両軍で失われた多くの命がある。数値として記録された戦死者、行方不明者。これらの数字に宿る「人間らしさ」は、歴史書では語られにくい。名前も知られない彼らの思いが、戦場にどれだけ散り、どれだけ家族や友人の記憶に刻まれたのか。


炎と幕末の始まり

1868年、この日の薩摩藩邸焼討事件は、明治維新へ至る大きな転換点となった。西郷隆盛や板垣退助といった幕末の英雄たちが、これを機に動き出した。その裏では、武士たちが自らの理想や信念を掲げ、奔走していた。しかし、その信念の実現には、必ずしも平和的な道ばかりではなく、火と剣による争いが伴った。この事件が戊辰戦争を引き起こし、日本の近代化の一歩となったことを考えると、歴史は常に矛盾に満ちた道を歩んできたのだと実感する。


祈りと歌が紡ぐもの

1952年、ニュー・ビリビッド刑務所では日本人戦犯17名の処刑が行われた。彼らの最後の日々に寄り添ったのは、日本から派遣された僧侶・加賀尾秀忍。そして、この出来事から生まれた歌「ああモンテンルパの夜は更けて」は、多くの人の心を揺さぶり、後の恩赦運動を動かす力となった。歌は単なる慰めや追憶だけでなく、未来を変える可能性を秘めている。祈りと歌が結びつき、国境を越えて平和への思いを広げたことは、混乱の時代に生まれた希望の象徴とも言える。


生きるとは、選び続けること

また、1948年1月19日に逝去した出口王仁三郎の生涯も、思索を誘う。彼は戦中・戦後において、日本の未来と人類の行方について深い洞察を残した。「国家のわれよしが戦争を起こす」とした彼の言葉は、現代の私たちにも重く響く。彼のように、自らの信念に基づいて行動した人々が、時代にどう影響を与えたのかを振り返ると、私たちもまた、未来のためにどんな選択をするべきかを問いかけられる。


1月19日の教訓

歴史に刻まれた出来事は、勝者や英雄たちだけでなく、名もなき人々の人生や思いによって彩られている。それらは時に矛盾し、葛藤しながら、私たちの現在を築いた。1月19日に集う物語の数々は、「個々の人生がどのように歴史を形作るのか」を静かに教えてくれる。

歴史を知ることは、現在を深く理解し、未来を思い描くための羅針盤となる。そしてこの日は、「どのように生き、何を選び取るか」を私たちに問いかけ続けているのだ。