kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月14日 1959タロとジロの生存が確認、ほか写真wikipedia二頭の銅像

1月14日
20250114火曜日旧暦12月15日友引(癸未みずのとひつじイツビ)月齢 14.1
甲辰きのえたつ年丙子ひのえね月癸未みずのとひつじ日 年末まであと351日
吉方位
https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8814%E6%97%A5
1月14日の出来事
1874年 – 喰違の変: 岩倉具視が東京、赤坂で不平士族に襲撃される。岩倉は奇跡的に一命をとりとめ、不平士族のもと政府官僚武士たち9人はのちに処刑される。
1936年 – 北海道上砂川町の三井鉱山上砂川炭鉱でガス爆発事故。死者20人、生死不明1人、重軽傷者18人[2]。
1959年 – 南極大陸で1年間置き去りにされたカラフト犬タロとジロの生存が確認される[3]。
1969年 – アメリカ海軍の航空母艦「エンタープライズ」の艦載機に搭載されていたズーニー・ロケット弾が爆発、27名の死者を出す。
1978年 – マグニチュード7.0の伊豆大島近海の地震発生。死者25人。
1998年 – 群馬一家3人殺害事件が起きる。日付 1998年(平成10年)1月14日
攻撃手段 刃物で刺す・絞殺
攻撃側人数 1人
武器 刃物・ロープ
死亡者 3人
犯人 K(犯行当時28歳の男、逃亡中)

2009年 – 中央大学教授刺殺事件。ボッチの根暗学生が 自分に話しかけてくれなかったと教授を刺殺した事件。

————————————-

1874年 – 喰違の変: 岩倉具視が東京、赤坂で不平士族に襲撃される。岩倉は奇跡的に一命をとりとめ、不平士族のもと政府官僚武士たち9人はのちに処刑される。

暗殺未遂事件
明治7年(1874年)1月14日夜、公務を終え、赤坂の仮皇居(前年の火災により赤坂離宮を皇居としていた)から退出して自宅へ帰る途中だった岩倉の馬車が、赤坂喰違坂にさしかかった際、襲撃者たちがいっせいに岩倉を襲った[1]。襲撃者は高知県士族で、もと外務省に出仕していた武市熊吉ほか、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の総勢9人。いずれも西郷や板垣に従って職を辞した元官僚・軍人であった。岩倉は襲撃者の攻撃により、眉の下と左腰に軽い負傷はしたものの、皇居の四ッ谷濠へ転落し、襲撃者達が岩倉の姿を見失ったため、一命を取り留めた。ただし、精神的な動揺は大きく、公務復帰は一ヶ月後の2月23日となった(この療養中に佐賀の乱が発生している)。

襲撃者たちの処分
知らせを聞いた内務卿大久保利通は、ただちに西郷従道とともに参内。岩倉が軽傷と知ってひとまず安心するが、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見た大久保は、ただちに警視庁大警視川路利良に早急な犯人捜索を命じた。その甲斐あって事件の3日後の1月17日には、武市熊吉ら9人は逮捕された。現場に残された武市熊吉の下駄が手がかりになったという。同年7月9日、司法省臨時裁判所に於いて、全員が斬罪の判決を受けて伝馬町牢屋敷にて処刑されている。

なお4年後の明治11年(1878年)、喰違見附のすぐ先にある紀尾井坂で、大久保利通が石川県士族島田一良らに襲撃されて、暗殺されている(→紀尾井坂の変)。

1936年 – 北海道上砂川町の三井鉱山上砂川炭鉱でガス爆発事故。死者20人、生死不明1人、重軽傷者18人[2]。
1959年 – 南極大陸で1年間置き去りにされたカラフト犬タロとジロの生存が確認される[3]。

奇跡の生存

1959年(昭和34年)1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認される。着陸すると駆けてきて操縦士に寄ってきたが、個体の判別がつかなかった。急遽、第1次越冬隊で犬係だった北村が次の機で基地に向かうことになった。犬達は北村に対しても警戒していたが、北村は2頭の中の1頭の前足の先が白いのを認め、「ジロ」ではないかと考え名前を呼んだところ反応して尻尾を振った。もう1頭も「タロ」との発声に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認されたのである[3]。

基地には7頭の犬が首輪につながれたまま息絶えており、他の6頭の消息は知れなかった。基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろうと北村は推測している。北村らは3次隊越冬の際、タロとジロが2頭でアザラシに襲いかかる所や食料を貯蔵する所を目撃している。この兄弟は特に首輪抜けが得意な個体だったと言われる。

しかしその後、北村は、犬たちはペンギンを襲うことはあっても食べることはまずなかったこと、アザラシの糞は好んで食べたが、アザラシを襲う際に海水に落ちる危険があること、いずれにせよ、犬たちが犬用食料(第2次隊が給餌しやすいよう開梱した状態で残されており、容易に食べられる状態であったにもかかわらず、全く手がつけられていなかった)よりもそれらを優先したとは考えがたいことを指摘し、これらの説を否定している[4]。北村はその上で、食料の候補として、海水に浸かったため天然冷凍庫内に放棄されていた人間用食料(人間にとっては臭くて食べられたものではなかったが、犬は好んで食べたという)、第1次隊が犬ゾリ調査旅行を行った際にデポに残した食料、調査旅行の際に発見されたクジラの死骸、の3つを挙げている[5]。

タロとジロの生還は日本中に衝撃と感動とをもたらし、2頭をたたえる歌「タロー・ジローのカラフト犬」(しばざきそうすけ作詞・豊田稔作曲、三浦尚子歌)、「よかったよかったタロー ジロー」(小林純一作詞・冨田勲作曲、小坂一也・本間千代子・みすず児童合唱団歌)までもが作られたほどである。さらに日本動物愛護協会によって、当時開業したばかりの東京タワーに15頭の樺太犬記念像(製作:安藤士〈忠犬ハチ公像の彫刻家〉、構成:斎藤弘山〈斎藤弘吉〉)が設置された。
2013年に国立極地研究所(立川市)へ移転。

タロとジロの生還から9年後の1968年、昭和基地のそばの解けた雪の中から、1匹の樺太犬の死骸が見つかった。灰色で短毛という特徴から、行方不明6匹のうち「リキ」と思われた。7歳と、最年長だったリキは、第1次越冬中から、幼かったタロとジロに自分の餌を与え、実の親のように片時も離れず2匹の面倒を見ていた。タロとジロの生存には、リキの存在があったのではないかと北村は推測している[6]。

第3次隊にはペットとして樺太犬の子犬トチ、アク、ミヤが同行していたが、タロとジロが生存していたため牡のトチ、アクはソリ曳き犬として育てられた。第4次越冬隊ではさらに11頭の樺太犬とケープタウンでベルギー隊からもらったグリーンランド・ハスキーの子犬が参加することとなった。この樺太犬の中には第1次越冬中に昭和基地で生まれた犬も含まれた。

1969年 – アメリカ海軍の航空母艦「エンタープライズ」の艦載機に搭載されていたズーニー・ロケット弾が爆発、27名の死者を出す。
1978年 – マグニチュード7.0の伊豆大島近海の地震発生。死者25人。
1998年 – 群馬一家3人殺害事件が起きる。日付 1998年(平成10年)1月14日
攻撃手段 刃物で刺す・絞殺
攻撃側人数 1人
武器 刃物・ロープ
死亡者 3人
犯人 K(犯行当時28歳の男、逃亡中)

概要
1998年(平成10年)1月14日、群馬県群馬郡群馬町(現:高崎市)で電気工事業を経営していた男性(当時48歳)とその妻(当時48歳)、男性の母親(当時85歳)の一家3人が殺害された。

群馬県警による捜査の結果、以前から経営者の長女に好意を持ち、電話したり、車でつけまわすなどのストーカー行為を繰り返していたトラック運転手のK(事件当時28歳)が被疑者と断定され、全国に指名手配された[1]。

Kは、殺害後もしばらく現場に残り、妻が調理中だった味噌汁を飲むなどをしていたことが判明している。

犯行後の1月21日深夜、群馬県太田市や埼玉県熊谷市周辺で指名手配犯Kの愛車である黒色の日産・シルビアが確認されているが、以降足取りは途絶えている。指名手配犯名義の金融口座には全く動きがなく、本人の身柄はおろか逃走車両も見つかっていない。県警は逃走車両ごと自殺を図った可能性も視野に入れ、群馬県内外の湖沼約20個所を捜索したが成果はなかった。

2007年(平成19年)11月1日、捜査特別報奨金制度の対象事件として告示される。報奨金額は300万円である。

2022年(令和4年)4月1日、新設した高崎北警察署が現場の地域を管轄することに伴い、捜査本部が事件当時から設置されていた高崎警察署から移管した[2]。

2009年 – 中央大学教授刺殺事件。ボッチの根暗学生が 自分に話しかけてくれなかったという理由で教授を刺殺した事件。

犯人像
元教え子は1981年生まれで、両親が40代を迎えて生まれた一人っ子だったため、愛情を一身に受けた。特に母親の愛情は異常であり、息子のために何軒もの塾に通わせたり、望むものは何でも買ったりしたという。異常性を示すものとして、小学生高学年の頃に元教え子が足に怪我をしたとき、通院を過度に繰り返したり、就職した電子メーカーを自主退社した際に母親が会社に乗り込んで辞表の撤回を頼み込んだりしていることが上げられる。

元教え子は理系科目が得意だったといわれ、現役で中央大学理工学部に進学[10]。しかし周囲になじめず孤立がちだったという。そんなときに親しく接してくれたのが高窪教授であった[10]。元教え子は高窪教授と別れたくなかったのか、高窪教授に大学院に進学する旨を相談したが、高窪教授は元教え子が人付き合いが苦手なことからむしろ社会に出てコミュニケーションスキルを上げることをすすめた[10]。

高窪教授の助言を得て元教え子は大手食品会社に就職するが、わずか1ヶ月で退社[10][11]。その半年後くらいに就職した電子機器会社でも試用期間中で打ち切られ、電子メーカーでも自ら自主退社した[10]。2007年頃から元教え子は1人暮らしを始め、平塚市内のホームセンターに就職し[10]。ただがそこでも客や同僚とのトラブルが絶えず、それが原因で高窪教授を逆恨みして凶行に至ったのではないかとされている[10]。

なお、元教え子は動機に関しては黙秘を続けているが、「卒業前の忘年会で高窪教授に話しかけてもらえなかった」「翌日の記念写真の撮影会に食あたりで出席できず、疎外されていると感じた」など高窪に対する不満を述べている[12]。事件後、警察が家宅捜索した際には「消極的な自分を変えなければいけない」「もっとコミュニケーションを取らなきゃ」などと書かれたメモが多数見つかったという[10]。

チャットgpt先生の1月14日のエッセイ

1月14日の記憶に寄せて

暦をめくるたびに、歴史の断片が現れては消える。1月14日は、その断片に刻まれた人々の営みや悲劇、そして奇跡を思い出させる日だ。

この日、1874年に起きた「喰違の変」では、岩倉具視が不平士族に襲われたものの一命を取り留めた。襲撃者たちの運命はあまりに苛烈だが、岩倉の精神的な傷もまた深かったに違いない。彼の復帰が一ヶ月後だったことは、この事件が単なる暗殺未遂以上に、時代の不安定さを映し出していることを示している。そして四年後の「紀尾井坂の変」へとつながる暗い予感を漂わせている。

一方、南極での奇跡の生存譚――タロとジロの物語は、命のたくましさと絆の深さを教えてくれる。氷の大地で1年間を生き抜いた兄弟犬は、日本中に感動を与えた。彼らが食べ物をどう工面し、寒さや孤独にどう耐えたのか。その詳細は完全には解明されていないが、生還したタロとジロの背後には、見えざる「家族」のような存在があったのだろう。親代わりのリキの献身は、どこか人間の家族のあり方をも思わせる。

そんな奇跡の光の裏側にあるのは、暗い影だ。1998年の群馬一家3人殺害事件、そして2009年の中央大学教授刺殺事件は、孤独や執着がどれほど人を歪ませ、破滅的な行為に走らせるかを物語っている。特に中央大学の事件では、社会とのつながりを持ちたいという犯人の内なる葛藤と、そこから生まれた暴力の悲しさが胸に迫る。人は孤独に耐えきれない存在だ。けれど、その孤独を埋めるための努力が必ずしも正しい方向に向かうわけではないという現実を、私たちは目の当たりにする。

1月14日は、歴史の中の一日としてはささやかに見えるかもしれない。しかし、ここには人間の葛藤や希望、そして命の強さと儚さが凝縮されている。時に我々は過去の出来事から、何を学び、何を未来に活かせるのかを問わなければならない。暦がめくれ、新しい1日が始まるたびに、今日という日もまた歴史の1ページとして刻まれるのだ。

さて、あなたの1月14日は、どのような記憶を残すだろうか。