kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月8日

9月8日

20230908金曜日 旧暦7月24日 赤口 己巳つちのとみ キシ 白露 月齢 22.7

年末まであと114日

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%888%E6%97%A5

9月8日の歴史上の出来事

1180年(治承4年8月17日) – 源頼朝が伊豆国で挙兵する[1]。

1504年 – ミケランジェロ作の「ダビデ像」の公開がはじまる。

1941年 – 第二次世界大戦・独ソ戦: レニングラード包囲戦が始まる。

レニングラード包囲戦(レニングラードほういせん、ロシア語:блокада Ленинграда ブラカーダ・リニングラーダ、1941年9月8日 – 1944年1月27日)は、第二次世界大戦の独ソ戦における戦闘のひとつ。

ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード(現・サンクトペテルブルク)を900日近く(872日[2])にわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。ソ連政府の発表では市民の死者は約63万人だが実数は100万人を超えるとも言われる。また死因の97%は餓死と言われている[3][4][5]。 この間、レニングラードの最高指導者はレニングラード党委員会第一書記の地位にあり、スターリンの後継者の有力候補の一人とされていたジダーノフであった。

冬が近づく頃、飢餓による死が襲ってきた。植物学者のニコライ・ヴァヴィロフの研究スタッフの1人は、食用にすることもできた20万種の植物種子コレクションを守ろうとして餓死した。ターニャ・サヴィチェワという当時12歳の少女は、12月から翌年5月にかけてレニングラードにいた肉親全員が次々と死んでいったことを書き残している(ターニャの日記)。レニングラードの街角は死体で溢れた。やがて食料が切れた市内には飢餓地獄が訪れ、死体から人肉を食らう凄惨な状況が常態化し、人肉を含む食品を売る店まで現れた[13]。

一方でレニングラードはドイツ軍の包囲下で市民が餓死する中、市内の兵器工場群をフル稼働させ大量の兵器を生産し兵器廠として機能し続けた。工場から出荷された兵器はレニングラード守備軍にはまわされず各戦線のソ連軍に供給された。1941年7月~12月だけで戦車500両、装甲車600両、野砲2400門、機関銃1万挺、砲弾300万発、ロケット砲3万発を出荷し独ソ戦の勝利に大きな貢献をはたした。

9月8日のエッセイ

9月8日:英雄都市レニングラードと人々の屈折した勇気

1941年のこの日、レニングラード(現・サンクトペテルブルク)包囲戦が始まった。872日間にわたる包囲の間、約63万人が亡くなり、死因の97%は餓死とされています。この事実を言い表す言葉は、文学でも統計学でもありません。それは、人々の屈折した勇気と残忍な現実を象徴する一つの出来事です。

この悲劇の中でも、人々は驚くべきレジリエンスと創造性を発揮しました。例えば、植物学者ニコライ・ヴァヴィロフの研究スタッフは、自らが餓死することを承知で、20万種もの植物種子コレクションを守りました。この行為は、彼らが未来の食糧安全を危機に瀕している現代以上に重視した証拠でしょう。

一方、12歳の少女ターニャ・サヴィチェワは、簡単な日記に肉親全員が次々と死んでいったことを記録しました。これは、戦争が最も無防備な者に与える影響を非常に象徴的に示しています。

驚くべきことに、市内の兵器工場はフル稼働を続け、大量の兵器を生産しました。工場から出荷された兵器はレニングラード守備軍にはまわされず、各戦線のソ連軍に供給され、独ソ戦の勝利に大いに貢献しました。

このような矛盾と複雑性は、9月8日という日付に象徴されるように、人間の精神と行動の極限状態を浮き彫りにします。この日は、勇気と犠牲、希望と絶望、人間性と非人間性が交錯する舞台であり、そのすべてが一つの都市で形を成した日でもあります。

人々は、歴史には教訓が詰まっているとよく言いますが、レニングラード包囲戦はその最たる例です。今日、私たちが直面している多くの問題—飢餓、戦争、社会的不平等—は、この872日間で繰り広げられたドラマにも通底するものがあります。

9月8日が私たちに教えてくれることは、過酷な状況下でも人々がどれほど力強いか、しかし同時に、その力がどれほど矛盾と暴力に満ちている可能性があるかということです。そして、そのような局面で何が重要かというと、一緒に団結して未来を築く勇気と智慧が求められるのです。