kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日9月26日1954洞爺丸事故他

9月26日

20230926火曜日 旧暦8月12日 先勝 丁亥ひのとい テイガイ 彼岸明(秋)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8826%E6%97%A5

9月26日の歴史上の出来事

1954年 – 洞爺丸事故。洞爺丸台風により青函連絡船「洞爺丸」が転覆。死者行方不明1,155人。

洞爺丸事故(とうやまるじこ)は、1954年(昭和29年)9月26日に青函航路で台風第15号(洞爺丸台風)により起こった、日本国有鉄道(国鉄)の青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故である。死者・行方不明者あわせて1155人[注 1]に及ぶ、日本海難史上最悪の事故となった。

洞爺丸以外の事故

当時の函館港内には8隻の船舶が在港しており、係留索切断・錨鎖切断・走錨などの事態となったが、沈没は免れた。しかし港外に錨泊・踟蹰(ちちゅう)した船9隻のうち、無事であったのは2隻のみで、2隻が座礁、5隻が沈没した。その5隻は、洞爺丸を含めてすべて青函連絡船である。

洞爺丸のほかにも、函館港外で碇泊した僚船北見丸、日高丸、十勝丸、大雪丸、第十一青函丸、第十二青函丸の6隻でも同じような状況が発生して、石狩丸、大雪丸、第十二青函丸は危機を逃れた[注 14]ものの、他の4隻は函館港外で相次いで転覆・沈没した(第十一青函丸は転覆しないまま船体破断で沈没)[注 15] 。開口部である車両甲板に海水が浸入し滞留した場合、機関室への浸水を防ぎ切れないという、気付きそうで気付かれることのなかった連絡船の構造上の問題が浮き彫りになった[注 16]。

特に第十一青函丸は、戦時標準船のため船体に使用されていた材質が脆いうえに、事故直前の6月から9月にかけて行われた船底補強工事で、かえって船体が歪み強度低下を生じさせたといわれ、大波を受けた衝撃で一気に船体が3つに破断した。

第十一青函丸(2,851トン):19時57分「停電に付き、後で交信を受ける」との通信を最後に途絶。後に波浪による船体破断のため沈没。乗員90名殉職。未発見遺体は44。全員が死亡したため正確な時刻は不明だが殉職者の時計から20時頃と推定されている[12]。

北見丸(2,928トン):22時35分葛登支灯台沖にて転覆沈没。沈没地点が8キロも沖合だった事から乗員70名殉職、未発見遺体29。生存者6名。半数は行方不明で太平洋に流されたと見られる[注 17][13]。

洞爺丸(3,898トン):22時43分七重浜沖600mにて座礁。後に転覆。22時41分頃、「SOS de JBEA 洞爺丸、函館港外青灯より267度8ケーブル(航海用語で長さ・距離の単位)の地点に座礁」と発信、直ちに「JBEA de JNI RRR SOS」と函館海保局が応答。「本船、500kc(キロサイクル。当時の無線周波数単位で現在のキロヘルツと同一)にてSOS、よろしく」が最後の打電となった[14]。乗客・乗員1,314名中1,155名死亡、生存者159名[注 18][15]。

日高丸(2,932トン):23時32分SOSを打電中、23時40分防波堤灯台西方1.5kmにて転覆沈没。乗員56名殉職、未発見遺体2。生存者20名。最後の電文は「SOS de JQLY(=日高丸) 函館防波堤灯台よりW9ケーブルの位置にて遭……(以下途絶)」[16]

十勝丸(2,912トン):23時43分葛登支灯台沖8kmにて転覆沈没。乗員59名殉職[注 19]、生存者17名[17]。

洞爺丸以外の4隻が函館港外での停泊を選択した背景には、台風から避難する船舶で港内が混雑していることもあったが、当時港内ブイに係船されていた貨物船エルネスト(アーネスト)号(イタリア船籍・7,341トン)が16時30分頃港内で走錨事故を起こしたことも背景にある[18]。この時函館港内にある船舶では最大だったエルネスト号は5月にメキシコから石炭を輸送中に室蘭で座礁事故を起こして船底を破損、函館に回航後スクラップ前提の状態で係留されており、荒天操船に必要な人員がいなかった。連絡船の船長たちはエルネスト号が再度走錨した時に、狭い港内でかわすことに不安を感じていたといわれている。

また、沈没には至らなかったものの、アメリカ海軍のLST-1級戦車揚陸艦LST-546号(2,319トン)が座礁して難を逃れた、などの記録が残っている[19]。更に海難救助にあたっていた海上保安庁のはつなみ型巡視艇「うらなみ」も二次遭難している(乗員は全員救助)[20]。

一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1,430人にも上り、戦争による沈没を除けば、発生時点では1912年のタイタニック号沈没、1865年のサルタナ号火災に次ぐ世界第3の規模の海難事故であった[注 20]。他にも大雪丸のように沈没こそしなかったものの航行不能となった船もあり、青函連絡船は終戦前後の時期に近い壊滅的打撃を受けた。まさに航路開設以来、また未曾有の大惨事であった。

1954年 – 北海道岩内町で洞爺丸台風による強風により大火。死者33名。

1997年 – インドネシア・スマトラ島でガルーダ航空機が墜落炎上。234名全員死亡。

2009年 – 台風16号がフィリピンに上陸。マニラ首都圏を中心に400人以上が死亡。

チャットgpt先生の9月26日のエッセイ

1954年の9月26日は、日本の海難史上最悪の事故である洞爺丸事故が発生した日です。この日、青函連絡船「洞爺丸」が洞爺丸台風によって転覆し、多くの人が犠牲になりました。この事故は、日本の海運業界における重大な出来事であり、その背後には様々な要因が絡んでいました。

この事故は、当時の航路や船舶の安全性について考えるきっかけともなりました。特に連絡船の構造上の問題が指摘され、船体の強度や浸水の危険性について再評価されました。また、当時の港内の混雑や他の船舶の事故も、事故の背後にある要因の一部でした。

この事故は1,155人の死者と行方不明者を出し、日本の海難史においても最悪の事故として記憶されています。また、他の船舶も影響を受け、多くの人々が犠牲となりました。この事故は、安全な海上交通を確保するための改善策や教訓を提供し、海運業界における安全対策の強化につながりました。

この日の出来事は、単なる歴史の一部ではなく、私たちが安全な海上交通を享受するために学び続けなければならない教訓の一つです。安全性を高めるための技術的な進歩と、適切な対策の取り組みが、同様の事故を未然に防ぐ鍵となります。