kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月5日

9月5日

20230905火曜日 旧暦7月21日 先負 丙寅ひのえとら ヘイイン 月齢 19.7

年末まであと117日

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%885%E6%97%A5

9月5日の歴史上の出来語

1205年(元久2年閏7月20日) – 鎌倉幕府初代執権・北条時政が、実子の北条政子・義時によって執権を廃され出家させられる。義時が第2代執権に就任。

1494年 – ポルトガルのジョアン2世がトルデシリャス条約を批准。

概要

本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶベルデ岬諸島の西370レグア(約2000km)の海上において子午線に沿った線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。

名称の由来は、条約が批准されたカスティーリャのトルデシリャスの地名からとられている。

1595年(文禄4年8月2日)- 京都三条河原で関白豊臣秀次の正室・側室・遺児ら39名が処刑される。

7月16日、秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分した。しかし秀吉はこれで満足せず、係累の根絶をはかった。7月31日、秀次の妻妾公達が亀山城より京都の徳永邸に戻され、8月1日、翌日に処刑されると通達されたので、女性達は辞世の句を認めたり、身支度などをした。

8月2日(9月5日)早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われることになり、さらに3メートルほどの塚を築いて秀次の首が西向きに据えられた。その首が見下ろす前で、まず公達(子供たち)が処刑された。最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であって北政所が助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑された。結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名[注釈 47]の全員が斬首された。子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったということで、観衆の中からは余りに酷いと奉行に対して罵詈雑言が発せられ、見物にきたことを後悔した者もいたという[76][77][78]。

数時間かけて行われた秀次の眷族の処刑が済むと、大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられた。この穴を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて、首塚が造られた。首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られており、後述のような殺生関白の悪評もあって、人々はこれを「畜生塚」[注釈 48]や「秀次悪逆塚」と呼んでいたが、鴨川の洪水で流出した後はしばらく放置されていた。慶長16年(1611年)、河川改修の際に石版を発見した豪商・角倉了以が、供養のために瑞泉寺を建立し、「悪逆」の文字が削られて供養塔として再建された。同寺には、秀次ら一族処刑の様子を描いた絵巻「瑞泉寺縁起」が残されている[81]。

大名預かりとなっていた家老7名(前野父子・一柳・服部・渡瀬・明石・羽田)は全員死を賜り切腹した[注釈 49]。他の家臣にも遠流になった者がかなりおり、遺臣の中で許された者の多くは(石田三成陰謀説に反して)石田三成や、前田利家、徳川家康らに仕えた。

「#秀次切腹の主な連座者」も参照

秀次の遺児の中では、淡輪徹斎の娘・小督局[注釈 50]との娘で生後1ヶ月であったというお菊は、母の従兄弟・後藤興義に預けられて助かり、後に真田信繁の側室・隆清院となった娘とその同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れた、と言い伝えられている[注釈 51]。十丸の祖父にあたる北野松梅院は、娘と孫を処刑されたが、北野天満宮祠官という地位のために本人は死を免れた。

瑞龍寺の山門(日秀尼母子の菩提寺となった瑞龍寺は、後に秀次の居城八幡山城の虎口跡に移築された。)

縁故の人物を殺しつくした後には、秀次の痕跡まで消し去ろうと聚楽第や近江八幡山城の破却が命じられた。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで徹底的に破壊され、周囲の諸侯の邸宅も同時に取り壊された。現在の京都に、聚楽第の遺構がほとんど全く残っていないのはこのためである。近江八幡山城は、当時は親族大名の京極高次が城主であったが、城と館は破壊され、高次は大津城主に転じた。この際に近江八幡山城の部材の一部を大津城に移築したという説もある[82]。

事件では多くの連座者を出した。相婿の関係にあった浅野幸長[注釈 52]は、秀次を弁護したこともあって能登国に配流となり、その父・浅野長政も秀吉の勘気を蒙った。

細川忠興は、切腹した家老の前野景定の舅であり、秀次に黄金200枚の借金をしていた。忠興は娘をすぐに離縁させ、徳川家康に取り成しを頼んで、借財を何とか弁解し、結局、借金は秀吉に返すことで難を逃れた[83]。最上義光は娘を秀次の側室に差し出していたことで咎められた。この駒姫は事件が起こった時にはまさに上京したばかりで秀次の寝所にも入っていなかったので、前田利家、徳川家康らが助命嘆願したが、ほかの妻妾と同じように三条河原で処刑された。これが憐れであるというので、義光は結局は許された[84]。

秀吉は、事件が諸大名を動揺させないように、特に朝鮮に出兵中の諸将を安心させるために(高野山入り後の7月10日頃)書状を多数発して、真相をぼかしつつも事情を説明した。その上で、秀次切腹の前である7月12日、今後は拾(豊臣秀頼)に対して忠節を誓うように諸大名に求めて、誓紙を書かせている[85]。『大阪城天守閣所蔵文書』の7月20日付織田常真等連署起請文を見ると、28名の大名が血判書で秀頼に対して忠誠を誓っている[注釈 53]が、その中に細川忠興と最上義光の名がある。

さらに眷族皆殺しの翌日である8月3日には、五大老の名で御掟五ヶ条を発令して、事件の発端となった秀次と輝元の誓約について、以後は諸大名間の縁組・誓約(同盟)が全面的に禁止されるとした。また時期は不明だが、綱紀粛正が目的と思われる御掟追加九ヶ条が定められた[87]。

詳細は「御掟」を参照

一方で、伊達政宗は日頃より秀次と懇意にしており、秀次家老の粟野秀用が元は政宗の家臣であった[88]ことなどからも、謀反の一味の可能性があるとみなされたので、特別な対応が取られた。事件が明らかになると(同じく懇意としていた)施薬院全宗からすぐに大坂に来て弁明するのが良いと忠告されたので、岩出山城から急ぎ上京した。すると前田玄以・施薬院全宗・寺西筑後守・岩井丹波守[注釈 54]からなる詰問使の訪問を受けたが、政宗は豊臣家の2代目たる関白に誠心誠意に奉公しようとしただけであると弁舌巧みに自己弁護したので、秀吉はこれを許して、8月24日、秀頼への忠誠を命じる朱印状を出し、伏見城下に伊達町をつくるので、そこに屋敷を構えて家老や妻子、1,000名の家来を常駐させるように命じた[89][90]。

このように秀吉は、秀次に関係したものを抹消した一方で、事件の影響を最少に収めようと努めたが、藤木久志は、政権内部の対立が秀次事件を機としてさらに深刻化したと評している[91]。秀吉の晩年、秀次は豊臣家の二世世代では唯一の成人した親族であった。秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに少なくし、豊臣家には秀頼を支える藩屏が全く存在しない危険な状態にした。また、秀次事件に関係して秀吉の不興を買った大名は、総じて徳川家康の助けを受けて難を逃れたので、関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することにもなった。笠谷和比古は、朝鮮出兵をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件は、豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした豊臣政権の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因となったと指摘している[92

1864年(元治元年8月5日) – 下関戦争:四国艦隊下関砲撃事件。英米蘭仏の4か国連合艦隊が下関に砲撃開始。

1905年 – ポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結。日比谷焼打事件発生、日本各地でも同様の暴動が起こる。

1914年 – 第一次世界大戦:マルヌ会戦が始まる。

第一次マルヌ会戦(だいいちじマルヌかいせん、フランス語: Première bataille de la Marne、ドイツ語: Erste Schlacht an der Marne、英語: First Battle of the Marne)は、1914年9月、ベルギーを突破したドイツ軍をフランス軍がマルヌ河畔で食い止めた第一次世界大戦中の戦い。単にマルヌ会戦とも呼ばれる。この戦いによって、ドイツ軍のシュリーフェン・プランは挫折し、短期決戦から長期戦へと戦局は変わっていったことからマルヌの奇跡とも呼ばれている。

9月5日のエッセイ

9月5日:歴史の影と今日への響き

9月5日は、歴史的に多くの重要な出来事が起こった日であり、その影響は今日にも続いています。北条時政の退位からトルデシリャス条約、そして第一次世界大戦のマルヌ会戦まで、この日は変革と戦争、勝利と敗北、そして不断の探究のシンボルであると言えるでしょう。

親子の運命と政治の厳しさ:北条時政

1205年、9月5日は北条時政が実子によって退位させられる日でした。この出来事は、親子の関係だけでなく、政治の厳しさともいうべき現象を象徴しています。運命はしばしば残酷であり、政治の舞台では家族でさえも敵に変わることがあります。

西と東、新世界の分割:トルデシリャス条約

1494年、9月5日にポルトガルのジョアン2世はトルデシリャス条約を批准しました。この条約により、新たに発見される土地はポルトガルとスペインの間で分割されることとなり、欧州列強による新世界の植民地化が本格的に始まりました。この日は、まさに新しい世界の秩序が形成された瞬間であり、今日の国際関係にもその影響を与えています。

長期戦への変遷:第一次マルヌ会戦

1914年の9月5日は、第一次世界大戦のマルヌ会戦が始まる日でした。この戦いによって、戦局は短期決戦から長期戦へと変わりました。戦争の本質が一変したこの日は、戦争史だけでなく、20世紀の世界史にも大きな影響を与えました。

総括

9月5日は、歴史の中で多くの重要な出来事が集結しています。これらの出来事は、それぞれが異なる時代と状況で起こりましたが、共通して人々の命運や世界の歴史を大きく変える要素を持っています。この日に感じるのは、歴史は一つ一つの出来事が積み重なって形成されていくということ。そして、それが今日にも多くの教訓と影響を与え続けているということです。

それでは、今日、9月5日に何をするかは、歴史に新たな1ページを加える貴重な機会かもしれません。何気ない一日も、未来に大きな影響を与えることがあるのですから。