kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
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9月3日

20230903日曜日 旧暦7月19日 先勝 甲子きのえね コウシ 月齢 17.7

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9月3日の歴史上の出来事

1792年 – フランス革命: 九月虐殺 2日目。ランバル夫人が虐殺される。

マリー=テレーズ=ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン[2](仏: Marie-Thérèse-Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe, 1749年9月8日 – 1792年9月3日)は、北イタリアのサヴォイア家の公女。隣国フランスの王室メンバーかつ同国最大の個人資産の相続予定者だったランバル公に嫁ぐが、すぐに死別した。ヴェルサイユ宮廷ではランバル公妃、カリニャン姫(Mademoiselle de Carignan)、ランバル夫人(Madame de Lamballe)の呼び名で知られた。

マリー・アントワネットの最初の寵臣であり、女官長よりも高位の王妃家政機関総監に任じられた。君寵がポリニャック夫人に移った後も変わらず王妃と王室への忠節を尽くし、そのため1792年の九月虐殺で命を落とした。

ラ・フォルス監獄の門外で暴徒に囲まれるランバル公妃

翌月に九月虐殺が起きると、監獄が次々に群衆に襲撃され、囚人たちは急ごしらえの人民法廷に引きずり出され、即決裁判で処刑されていった。囚人たちは誰もが恐ろしいほどの数の質問を浴びせられ、生かされる者は「国民万歳」の歓呼と共に解放されたが、殺される者は「修道院へ連行せよ」「連れていけ」の言葉と共に監獄の中庭へ連れ出され、そこで待ち構える大勢の男女や子供からなる群衆のリンチで死を迎えた[4]。監獄の刑吏たちはこの虐殺には反対しており、囚人たち、特に女性囚人には逃亡を容認していた。しかしランバル公妃は有名人だったために密かに逃げ出すことは不可能だった[4]。

ラ・フォルス監獄の女囚約200人のうち、最終的に殺害されたのは2人だけである[4]。王室と主従関係にあった女性たち、トゥールゼル夫人、マッコー夫人、ターラント夫人などの女官、王妃の2人のメイド、王太子の乳母、ランバル自身の乳母、王の従者の妻は、いずれも逃亡できず、即席裁判に引き出されたが事なきを得ている。王と王太子の男性従者2人ですら即席裁判を乗り切った。生き延びられなかったランバルは唯一の例外となった。

公妃は殺害現場となった監獄中庭の出入口へ2人の警護役に先導されて歩いて行った。移動中、義父の家来たちが引き続き公妃にさきほどの宣誓を受け入れるよう説得したが、公妃にはその声が聞こえていないかのようだった[4]。扉が開いて中庭に累々と重なる血まみれの死体の山を目にしたとき、公妃は「何ておぞましい!」あるいは「殺される!」と叫び、中へ戻ろうとしたが、2人の警護役は彼女を中庭側へ押し返した[4]。義父の家来たちは群衆の中から「お慈悲を!お慈悲を!」と叫んだが、周囲からの「パンティエーヴル公の下僕に扮した奴らに死を!」の叫び声が群衆の中から上がるとすぐに押し黙った[4]。何年も経ってから裁判にかけられた殺害者の1人は、「その白いドレスを着た小柄なご婦人」は、しばらくのあいだ1人で呆然と立ち尽くしていたと証言している[4]。公妃は槍を持った男からの最初の一撃で頭を殴られ、結った髪が肩に落ちかかったが、髪の中に隠していた王妃からの手紙が衆目に晒された。公妃は前頭部への2度目の殴打で出血し、その直後に彼女を取り囲んだ群衆からの刃物でのめった刺しを受けてすぐに絶命した[4]。公妃の虐殺現場は、監獄の外の通りだったとする説もあり、絵画・版画などではこの説を敷衍しているものも多い[14][15]。

ランバル公妃の死の描写には様々なヴァージョンがあり、中にはどぎつい内容のものもあったため、革命後も長きにわたり政治的意図を持ったプロパガンダとして利用され続け、多くの潤色や誇張が加えられてきた[4]。例えば一部の報告では、公妃は強姦されたあと胸を切り取られ、身体をバラバラに切り刻まれたとする[16][17]。しかし、公妃が性的な部位への身体切断や残虐行為を受けたとする証拠は何もなく、悪名高い公妃の殺害事件をさらに扇情的な物語に仕立てるための虚偽だと広く受け止められている[18]。

遺体

殺害され、衣服を剥ぎ取られたランバル公妃の遺体を囲む群衆、フェーヴル(フランス語版)画、フランス革命博物館(フランス語版)蔵、1908年

ランバル公妃の遺体の取り扱いに関する物語も、公妃の死の物語と同様に多くの相反するヴァージョンの存在によって錯綜している。遺体は衣服をはぎ取られ、内臓を引き出され、頭部と胴体を切断され、頭部は槍の穂先に差し込まれた[4]。槍に串刺しされた公妃の首は殺害者たちの街頭パレードの呼び物にされ、パレードに参加した人々は串刺しの首を掲げて「ラ・ランバル!ラ・ランバル!」と侮蔑的な呼称で犠牲者を呼びながら、首のない遺体をあちこちに引きずって回ったというが、この描写は複数の目撃者が証言しているところから、事実と考えられる[4]。証言者にはランバル公妃の遺髪の束を買い取り、彼女の義父パンティエーヴル公に手渡したラモット夫人(M. de Lamotte)という女性や、ロール・ジュノーの兄弟が含まれた[4]。

一部の報告では、公妃の首はあるカフェに持ち込まれて飲食をしている客たちの面前に置かれ、客たちは殺害者たちから公妃の死を祝ってコーヒーをすするよう強要されたという[16]。別の報告では、首は理髪店に持ち込まれ、公妃の首級と分かりやすくするために美しくヘアメイクを施されたとされるが[17]、この逸話は疑わしいとされている[15]。こうした扱いを受けた後、首は再び槍の穂先に串刺しにされ、マリー・アントワネットが幽閉されているタンプル塔へ行進した[19]。

王妃とその家族は、殺害者の一行が首を見せようとした窓の位置する部屋にはおらず、公妃の首を見ることはなかった[4]。しかし看守の妻ティゾン夫人(Madame Tison)はこれを見て悲鳴を上げたため、群衆たちはタンプルから聞こえてきた女の悲鳴を王妃のものだと思い込んで満足した[4]。当時広く出回っていた中傷では犠牲者の公妃と王妃はレズビアンの恋人同士という設定だったため、殺害者たちは王妃に公妃の首とキスをさせようと沸き立ったが、タンプル塔への生首の持ち込みは許可されなかった[19]。群衆はどうしてもマリー・アントワネットと生首を対面させるのだと言ってタンプル塔への立ち入り許可を執拗に要求したが、看守たちは群衆を説得して何とか塔への乱入を止めさせた[4]。アントニア・フレイザーは評伝『マリー・アントワネット』の中で、王妃は旧友の生首を実際に目にすることは無かったが、何が起きているかについては悟らざるを得なかったと、その情景を次のように描写する。

上の階では、役人たちが少なくとも鐙戸を閉じる礼儀をわきまえていた。監視委員たちも窓に近づかないようといったが、王になんの騒ぎかと訊かれて、そのうちの一人が教えてしまった。「ムッシュー、どうしてもというなら教えますが、ランバル公妃の首を見せようとしているのです」。…むしろ幸いなことに、王妃は失神した[19][20]。

その後、公妃の頭部と胴体はパレ・ロワイヤルにたむろする群衆たちのところへ引き渡された。パレ・ロワイヤルではオルレアン公が妾のビュフォン伯爵夫人(英語版)と一緒に英国人たちを招待した晩餐会を開いていたが、オルレアン公は遺体を見て「おお、ランバルの首だな。長い髪であの人だと分かるよ。さあ皆さん、夕飯にしよう。」と、ビュフォン夫人の方は「おお神様!私の首もいつかこんな風にたらい回しにされるのかしら」と、それぞれ述べたとされる[4]。

群衆たちは公妃の胴体をオテル・ド・ランバル(フランス語版)の玄関前に晒そうと息巻いていたが、義父パンティエーヴル公は、テュイルリーやオテル・ド・ルーヴォワ(フランス語版)ならまだしも、嫁はあの屋敷に一度も住んだことはないのに、と皮肉交じりに嘆息した[4]。パンティエーヴル公の家来たちは公妃の遺体の回収を指示され、群衆に紛れて遺体の捜索を行った[4]。公妃の頭部は、とある酒場に飾ってあったのを、家来シャルラ(Charlat)が店舗の出口に持ち出し、別の家来ポワンテル(Pointel)がカンズ=ヴァン病院(英語版)近くの墓地に埋めた[4]。

胴体の取り扱いについては、見解が非常に錯綜している[18]。政府の公式記録では、パリの各地区に住む5人の市民が、胴体を公妃の死後すぐに当局に引き渡したとなっているからである[18]。これは、多くの著述家たちが語ってきた、公妃の胴体は死後に晒されたり引きずり回されたりしたとする話と矛盾する。政府側の記録に依拠すれば、公妃の遺体は首こそないものの、胴体は衣服を完全に着たまま台車に載せられ、平常通りの手続きで当局の許へ運ばれたということが記載されており[18]、これに従えば、扇情的な作家が唱える、内臓の抉り出しなどの残虐行為の信憑性は低いということになる。

マリー・タッソーは公妃の殺害者たちから、公妃の生首から型取りしてデスマスクを作るよう強要されたと証言している[23]。

*一にランバル夫人虐殺と 二にヴァンデ戦争にて、フランス革命がろくでもないものであることがよくわかる。

チャットgpt先生の9月3日のエッセイ

9月3日:運命の糸が交錯する日

9月3日は、多くの歴史的な出来事が起こった一日であるが、その中でも1792年の九月虐殺において、マリー=テレーズ=ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン、通称ランバル夫人の命が奪われた事件は特に心に残る。

彼女は、フランスの王妃マリー・アントワネットの寵臣として、革命の荒波に飲み込まれ、その命を落とすこととなる。ランバル夫人の人生は、高貴な出身と資産、そして美と知性によって、順調に見えたかもしれない。しかし、その生涯は突如として、運命の暗い糸に絡め取られた。

九月虐殺は、フランス革命の中でも特に激しい一幕であり、多くの無実の人々が命を奪われた。ランバル夫人自身も、女囚の中でただ一人、逃げることなく命を落とした。この事件は、当時の社会の緊迫感、怒り、そして混乱を象徴している。誰が正しく、誰が間違っているのか、そんな簡単な区別がつく状況ではなかった。

ランバル夫人が何を考え、何を感じていたのか、その心の中を知る手段はない。しかし、彼女が「何ておぞましい!」または「殺される!」と叫んだその瞬間に、彼女自身も自分の運命を悟ったのかもしれない。

このような悲劇的な出来事を考えると、歴史は繰り返し、私たちに多くの教訓を与えてくれる。権力と貴族の堕落、民衆の怒りとその行き過ぎ、それらが交錯する場で、個々の人々がどれだけ無力であるかを示している。それでも、ランバル夫人のように、自分の信念と忠誠心を貫く力は、どれだけ厳しい状況下でも人々を敬愛させ、その記憶を後世に残す。

9月3日は、歴史上の多くの出来事が交錯する一日である。それぞれの出来事が独自の背景と影響を持ち、時には悲劇的な結末を迎える。しかし、それらは私たちに、人々の選択と行動が歴史を形作る力と、その選択には常に重大な責任が伴うことを教えてくれる。

年末まであと119日。この日を振り返りながら、私たちは何を学び、何を次にするべきか、その答えを見つける一助としたい。