9月19日
20230919火曜日 旧暦8月5日赤口 庚辰かのえたつ コウシン 月齢 4.1
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9月19日の歴史上の出来事
1859年(安政6年8月23日) – イギリスの貿易商トーマス・ブレーク・グラバーが長崎・大浦にグラバー商会を設立。
1945年 – 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)がプレスコードを指令。
プレスコード(英:Press Code for Japan[1][2])とは、太平洋戦争終結後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則である。これにより検閲が実行された。
正式名称はSCAPIN-33「日本に与うる新聞遵則」[2]、昭和20年(1945年)9月19日に発令、9月21日に発布された。「日本新聞遵則[1]」また「日本出版法[1]」ともいう。「プレス・コード」と表記されることもある[3]。
プレスコード(日本に与うる新聞遵則)(SCAPIN-33)
昭和20年(1945年)9月19日に、SCAPIN-33(最高司令官指令第33号)「Press Code For Japan(日本に与うる新聞遵則)」が最高司令官(D.MacArthur)の名前で通達された。実施者は米太平洋陸軍総司令部民事検閲部。
検閲は連合国軍最高司令官総司令部参謀部のうち情報担当のG-2(参謀2部)所管下の民間検閲支隊(CCD。Civil Censorship Detachment)によって実施された。
1948(昭和23)年には、GHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた[15]。8000人を超えていたとする説もある[16]。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、その数は新聞記事だけで一日約5000本以上であった[15][17]。
削除および発行禁止対象のカテゴリー(30項目)
江藤淳は、アメリカ国立公文書館分室の資料番号RG331,Box No.8568にA Brief Explanation of the Categories of Deletions and Suppressions,dated 25 November,1946が保管されていたことがわかったと述べている[18][19]。この「削除と発行禁止のカテゴリーに関する解説」において次のような具体的な検閲の対象カテゴリーが30項目も規定されていた[18]。検閲では以下に該当しているか否かが調べられた。
SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
極東国際軍事裁判批判
GHQが日本国憲法を起草したことの言及と成立での役割の批判《修正:2018年4月26日、江藤氏原訳「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」を英文原文に従い修正。修正根拠は記載のアメリカ国立公文書館の典拠文書の記述に拠る。(細谷清)》
検閲制度への言及
アメリカ合衆国への批判
ロシア(ソ連邦)への批判
英国への批判
朝鮮人への批判
中国への批判
その他の連合国への批判
連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
満州における日本人取り扱いについての批判
連合国の戦前の政策に対する批判
第三次世界大戦への言及
冷戦に関する言及
戦争擁護の宣伝
神国日本の宣伝
軍国主義の宣伝
ナショナリズムの宣伝
大東亜共栄圏の宣伝
その他の宣伝
戦争犯罪人の正当化および擁護
占領軍兵士と日本女性との交渉
闇市の状況
占領軍軍隊に対する批判
飢餓の誇張
暴力と不穏の行動の煽動
虚偽の報道
GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
解禁されていない報道の公表
削除・発禁処分の事例
戦前・戦中の欧米の植民地支配についての研究書など7769冊に及ぶ書物が官公庁、図書館、書店などから「没収宣伝用刊行物」として没収され、廃棄された[24][25]。「個人宅と図書館を除くあらゆる場所から、秘密裏に没収し、紙パルプに再利用するという名目で、事実上の廃棄処分にした。」とされることもある[26]。
原爆関連
栗原貞子の詩「生ましめん哉」
峠三吉の詩「にんげんをかえせ」など
壺井栄の短編小説「石臼の歌」では、原爆によって家族を失った登場人物(遺族)たちの心理描写がほぼ削除され、疎開先である田舎の風景の描写を増補した表現に差し替えられている。
永井隆の『長崎の鐘』は1946年8月には書き上げられていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲により出版許可が下りず、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年1月、日比谷出版社で出版された。
雑誌『創元』1946年12月創刊号に掲載予定だった吉田満による戦記文学『戦艦大和ノ最期』はGHQの検閲で全文削除された[27]。独立回復後の1952年に創元社から出版。
川路柳虹の詩「かへる霊」[28]
1945年 – イギリスで、「ホーホー卿」ことウィリアム・ジョイスに大逆罪による死刑判決。
ウィリアム・ジョイス(William Joyce, 1906年4月24日 – 1946年1月3日)は、アメリカ合衆国のファシスト。第二次世界大戦中、ドイツからイギリスに向けてプロパガンダ放送を行い、ホーホー卿 (Lord Haw-Haw) という通称で広く知られた。この戦時中の行動のため、ジョイスはイギリス政府に大逆罪で処刑された。
当時イギリスでは、ジョイスの宣伝放送は、公的には聞くべきではないとされていたものの、聴取自体は違法ではなく、民衆の間でも相当の人気があった。ドイツからの放送は、いつも「Germany calling, Germany calling, Germany calling」と始まっている[9]。放送は、イギリスの人々に降伏を促すもので、嘲り冷笑しながら威嚇する調子がよく知られていた。聴取者にすると、厳重に検閲されていた戦時下の放送事情の中で、敵方が何を言っているのかを聞きたいという欲求もあったし、開戦当初においてはBBCよりもドイツ側の放送の方が情報量で勝ることもあったのである。しかし、このシナリオは、大戦の途中から逆転し、やがてドイツの高官たちがBBCにダイヤルを合わせるようになっていった。
ジョイスの最後の放送は、ベルリンの戦いの最中、1945年4月30日に録音された。この録音でジョイスは、目前に迫ったドイツの敗北にイギリスが果たした役割を非難し、この戦争がイギリスを貧困と不毛に陥れるだろうと語っている。ジョイスはこの録音を、最後まで挑発的に「ヒトラー万歳 (Heil Hitler)」と結んでいる[10]。
チャットgpt先生の9月19日エッセイ
9月19日とプレスコード:言論の自由と検閲の葛藤
9月19日といえば、多くの日本人が様々な歴史的出来事を連想するかもしれません。しかし、特に1945年のこの日は、日本のメディアの自由という観点から非常に重要な日として挙げられます。この日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)がプレスコードを指令し、報道機関の自由が大きく制約されました。
日本が降伏して間もない頃、GHQは日本の情報を統制することで、占領政策の円滑な進行を図ろうとしました。新聞や雑誌、ラジオなどのメディアに対する検閲は、日本国民にとっては新しい経験でした。日本政府自体も戦時中には情報を検閲していましたが、GHQによるこれほどの厳格な検閲は未知のものでした。
プレスコードの中で設定された30の禁止項目は、その範囲の広さに驚かされます。その中には、SCAPやGHQへの批判はもちろん、連合国への批判や冷戦に関する言及、そして原爆に関連する報道なども含まれていました。言論の自由は、日本の民主化の過程で非常に重要な要素となるはずでしたが、占領の初期段階ではその自由が制約されていました。
しかし、この検閲にも一つの狙いがあったと考えられます。それは、日本の民主化を進め、再び戦争を起こさないようにするためのものでした。検閲の裏には、日本社会を戦後の新しい時代へと導く意図が潜んでいたのです。
それにしても、検閲の対象となった作品や報道を見ると、戦時中の痛みや苦しみを伝えるためのものが多いことに気付かされます。原爆に関連する詩や小説は、戦争の悲惨さや人々の痛みを伝えるものとして非常に重要であり、そのような作品が検閲されたことは、後の世代にとって大きな損失であったと言えるでしょう。
最後に、9月19日は、日本の言論の自由と検閲の葛藤を考える上で非常に重要な日であることを改めて認識すべきです。この日を振り返りながら、私たちは自由な表現の大切さや、それを守るための努力の必要性を再認識することができるでしょう。