kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月25日 1894日清戦争勃発豊島海戦、ほか写真wikipedia小林清親画

7月25日

20250725金曜日旧暦6月1日赤口(乙未きのとひつじイツビ)月齢 0.3

乙巳きのとみ年癸未みずのとひつじ月乙未きのとひつじ日 年末まであと159日

吉方位 隠遁日 乙未きのとひつじ日 南西 大吉 東 吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8825%E6%97%A5

7月25日の出来事        

1261年 – ニカイア帝国がラテン帝国からコンスタンティノポリスを奪回し、東ローマ帝国が復活。 

1894年 – 日清戦争:豊島沖海戦。朝鮮半島の豊島沖で日本軍と清軍による海戦が行われる。日清戦争の始まり。日本死傷なし。清国 巡洋艦等2隻沈没 商船1隻沈没 

戦死者1100名

1908年 – 池田菊苗が「グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法(後の味の素)」の特許を取得[1]。

1933年 – 山形市で気温摂氏40.8度の最高気温を記録。2007年に更新されるまで長らく日本の最高気温記録となる。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲:保戸島空襲が行われる。児童124人死亡教師1死亡—大分県保土島国民学校の悲劇

1946年 – ビキニ環礁で史上5回目の核爆発。(クロスロード作戦)

1995年 – パリ市内の鉄道RERで武装イスラム集団(GIA)による爆弾テロ発生。死傷者60人以上。8月17日、8月26日にも発生する(en:1995 Paris Metro bombing)。

1998年 – 和歌山毒物カレー事件発生。死亡者 4人[3] 負傷者                                                63人[3]

2000年 – コンコルド墜落事故。死者109名(全員)。

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1261年 – ニカイア帝国がラテン帝国からコンスタンティノポリスを奪回し、東ローマ帝国が復活。 

1894年 – 日清戦争:豊島沖海戦。朝鮮半島の豊島沖で日本軍と清軍による海戦が行われる。日清戦争の始まり。日本死傷なし。清国 巡洋艦等2隻沈没 商船1隻沈没 

戦死者1100名

概要

1894年(明治27年)7月25日、日本艦隊と清国艦隊が、朝鮮半島西岸の牙山湾の入口に浮かぶ豊島(朝鮮語版、英語版)(現 京畿道安山市檀園区内)沖で戦った海戦。宣戦布告直前に双方の艦隊が遭遇して起き、大日本帝国海軍が圧勝した。

1908年 – 池田菊苗が「グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法(後の味の素)」の特許を取得[1]。

1933年 – 山形市で気温摂氏40.8度の最高気温を記録。2007年に更新されるまで長らく日本の最高気温記録となる。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲:保戸島空襲が行われる。児童124人死亡教師1死亡—大分県保土島国民学校の悲劇

保戸島空襲(ほとじまくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月25日午前10時頃、大分県北海部郡保戸島村(現・津久見市保戸島)に対して行われたアメリカ軍による空襲。

保戸島国民学校の悲劇

当時の保戸島には豊後水道を通って瀬戸内海へ侵入する連合国軍の潜水艦を阻むため、これを探知する海軍の施設(レーダー受信基地・潜水艦聴音施設・見張り所)が置かれていた。アメリカ軍の攻撃目標はこれらの軍事施設であり保戸島国民学校への爆撃は誤認とされる。なお、織田祐輔氏の研究によれば、空母「ベロー・ウッド」を発艦した第31戦闘飛行隊が悪天候のため、保戸島国民学校を佐賀関にあった銅製錬所と誤認して爆撃した可能性が指摘されている。

本空襲で、米海軍の艦上機であるグラマンF6F戦闘機が投下した3発の爆弾の1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)の西側校舎を直撃し、児童124人(1年生と5年生の全員と他学年生数名)・教師2人(高橋ミヨ子訓導、林シゲ子訓導)・幼児1人が即死し(死者数は田邉國光『忘れ得ぬ保戸島の惨劇』による)、75人の児童が重軽傷を負った。なお、資料によっては投下された爆弾は4発、死者 教師2,学童124,其の他1とされることもある[1]。

さらに戦闘機により児童に対し機銃掃射も加えられた[2]。現在、同校体育館入口には慰霊碑が建立され、毎年慰霊祭が執り行われている。

1946年 – ビキニ環礁で史上5回目の核爆発。(クロスロード作戦

1946年7月1日のエイブル実験では、核爆弾を高度158m、7月25日のベーカー実験では水深27mの海中で爆発させている。3番目としてチャーリー実験(Charlie)が予定されていたが、ベーカー実験において生じた放射能が予想よりも激しかったため中止された。クロスロード作戦は1945年7月のトリニティ実験、8月の広島、長崎に続く史上4番目と5番目の核爆発である。またマーシャル諸島で行われた、および事前に実施通告がなされた最初の核実験であった。なお本作戦の後には、1948年にサンドストーン作戦が実施されている。

1995年 – パリ市内の鉄道RERで武装イスラム集団(GIA)による爆弾テロ発生。死傷者60人以上。8月17日、8月26日にも発生する(en:1995 Paris Metro bombing)。

1998年 – 和歌山毒物カレー事件発生。死亡者 4人[3] 負傷者                                                63人[3]

事件の概要

本事件は、1998年(平成10年)7月25日夕方に和歌山県和歌山市園部地区で開催された夏祭り[注 1]において、提供されたカレーライスに毒物が混入されていたことから、67人が急性ヒ素中毒となり、うち4人が死亡した毒物混入・無差別殺傷事件である[注 2][15]。

現場の近所に住んでいた主婦の林 眞須美(以下「眞須美」という)が被疑者として逮捕され、カレー毒物混入事件・保険金殺人未遂事件・保険金詐欺事件の合計9件で起訴された[4]。被告人となった眞須美は刑事裁判で無罪を訴えたが、第一審の和歌山地裁で死刑判決を受け[16]、控訴・上告も棄却されたため[17][18]、2009年(平成21年)5月19日に最高裁判所で死刑が確定[9][10]、眞須美は戦後日本で11人目の女性死刑囚となった[19]。2020年(令和2年)9月27日時点で[20]、眞須美は死刑囚(死刑確定者)として大阪拘置所に収監されている[21]。冤罪の可能性を指摘する声もあり、眞須美は事件から25年となる2023年(令和5年)7月時点で第2次再審請求中である(詳細は後述)[22]。

地域の夏祭りでの毒物混入事件であり、不特定多数の住民らを殺傷するという残忍性、当初の「集団食中毒」から、「青酸化合物混入[注 3]」、「ヒ素混入」と原因の見立てや報道が二転三転したこと、住民らの疑心暗鬼や犯人に関する密告合戦、さらには住民の数を上回るマスメディア関係者が2か月以上も居座り続けるという異常な報道態勢などが連日伝えられた[23]。

2000年 – コンコルド墜落事故。死者109名(全員)。

コンコルド墜落事故(コンコルドついらくじこ)、ないしエールフランス4590便墜落事故(エールフランス4590びんついらくじこ、英:Air France Flight 4590)とは、2000年7月25日に発生した航空事故[1][2][3]。

当時世界で唯一運航されていた商業用超音速旅客機「コンコルド」で運行されていたエールフランスのチャーター便が、離陸直後にエンジン火災を起こして墜落した事故である[1]。コンコルドの人身死亡事故としては唯一の事例であるが、安全性に重大な疑念が生じたため当局により耐空証明が取り消され、コンコルドはこれ以降長期にわたり運航停止となった[4]。コンコルドは2001年11月7日に運行の再開が認められたが、直前に発生したアメリカ同時多発テロによる世界的な航空不況に加え、元々高コストな割に収益性が低い機体であったため、2003年10月までにコンコルドは退役し、これが最初にして最後の墜落事故となった。

また、2000年にはエールフランスを含む4社が航空連合スカイチームを創立しており、この事故はスカイチームの歴史上、初めての死亡事故となった[要出典]。

チャットgpt先生の7月25日のエッセイ

7月25日という日:静けさの裏に潜む歴史のざわめき

7月25日という一日は、年によってはただの暑い夏の一日かもしれない。しかし、歴史の眼でこの日を見つめると、そこには静けさとは程遠い、人間の営みとその影が浮かび上がってくる。


遥か13世紀、1261年の7月25日。ニカイア帝国がラテン帝国からコンスタンティノポリスを奪還し、東ローマ帝国が復活した日である。帝国が復活する——この言葉の響きに、古代から中世にかけて繰り返された栄光と没落の歴史の鼓動が感じられる。かつてビザンツが支配したこの大都市は、単なる都市以上のものだった。文化、宗教、政治の中心として、世界史の一角を形作ってきた。7月25日は、その運命の転換点の一つなのだ。


時代を下って、1894年。日清戦争の幕が開けた日でもある。豊島沖海戦、日本と清が偶然とも必然ともつかないタイミングで衝突し、戦争の火蓋が切られた。日本側の死傷者はゼロというが、その裏で清国側には1,100名の戦死者が出たという。戦争というものが、国家の思惑や外交の理屈を超えて、瞬間的に人命を呑み込む存在であることを思い出させてくれる。


1908年のこの日には、池田菊苗がうま味成分「グルタミン酸塩」の調味料製造法の特許を取得した。「味の素」という言葉が、後の時代にどれほど日本人の食卓に親しまれたかを思うと、この特許の日付も、また静かに重要だ。7月25日は、世界の味覚史にも小さな足跡を残している。


だが、平穏な記録ばかりではない。1945年の保戸島空襲は、戦争末期の日本に残酷な現実を突きつけた。小学校への誤爆で124人の児童が死亡、教師も命を落とした。授業中の教室に爆弾が落ち、子どもたちが命を奪われるという惨劇。この事実が示すのは、戦争が「軍人と軍人の戦い」ではなく、いつだって市民を巻き込み、罪のない命を最も激しく奪うということだ。


1946年、ビキニ環礁でクロスロード作戦のベーカー実験。核が水中で爆発するという、想像を絶する光景。人類が自らの手にした力の大きさに酔い、あるいは怯え、そして次第に慣れていく、その過程の一頁がこの日だ。


1995年のパリ、1998年の和歌山、2000年のパリ郊外――テロ、無差別毒物事件、コンコルドの墜落事故。いずれも突然に人の命を奪い、社会を震撼させた出来事である。和歌山のカレー事件などは、日本の静かな住宅地に起きた凶行であり、その後の冤罪論争も含めて、今もなお解決されたとは言い難い。


こうして振り返ると、7月25日は、ある種の「人間の極端な営み」が表出する日だと言っていい。帝国の奪還、戦争の始まり、科学の進歩、そして無差別の暴力。人間の知性と愚かさが交差し、悲劇と革新が同時に存在する。

そんな日に私たちは何を思えばよいのだろう。

過去に起きたことを忘れず、しかしそこにとらわれ過ぎず、未来へ向けてどう生きるかを静かに考える。7月25日は、そんな「静かな問い」を我々に投げかけてくる。

今日、もし空が青く、蝉が鳴いているなら、それは決して当たり前ではない。その静けさを、大切にしたい。