kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月22日 1997ペルー日本人大使館占拠事件終結、ほか写真wikipedia解放される人質と特殊部隊

4月22日

20240422月曜日旧暦3月14日仏滅 丙辰ひのえたつヘイシン 月齢 13.4

年末まではあと253日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8822%E6%97%A5

4月22日の出来事

1212年(建暦2年3月30日) – 鴨長明が『方丈記』を書き上げる。

1997年 – ペルー日本大使公邸占拠事件: 大使公邸に軍・警察が突入。立て籠っていたゲリラは全員射殺。軍人2人とペルーの政府高官1人が死亡。

———————————————–   

1212年(建暦2年3月30日) – 鴨長明が『方丈記』を書き上げる。

鴨 長明(かも の ちょうめい、かも の ながあきら)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての日本の歌人・随筆家。俗名は同じだが「読み」がかも の ながあきら。禰宜・鴨長継の次男。位階は従五位下。法名は蓮胤。南大夫、菊大夫とも称される。後の「菊家」との関連の外、「南大夫」の誤記に由来する可能性も指摘されている[1]。

1997年 – ペルー日本大使公邸占拠事件: 大使公邸に軍・警察が突入。立て籠っていたゲリラは全員射殺。軍人2人とペルーの政府高官1人が死亡。

在ペルー日本大使公邸占拠事件(ざいペルーにほんたいしこうていせんきょじけん)は、1996年(平成8年)12月17日(現地時間)に、ペルーの首都リマで起きた左翼ゲリラによる駐ペルー日本国大使公邸占拠事件。1997年(平成9年)4月22日、ペルー軍特殊部隊が突入し、人質が解放されて終結するまで4ヵ月以上に及んだ[1]。在ペルー日本大使公邸人質事件ともいう。

攻撃側人数             14名

武器        拳銃、自動小銃、手榴弾など

死亡者    17名(人質1名、兵士2名、犯人14名)

負傷者    8名

殉職した特殊部隊兵士のバレル中佐とヒメネス中尉には、マスコミや市民団体を経由して日本から義捐金が寄せられた。また、脱出時に負傷し車椅子を使うことになった青木大使は、事件直後は代理人を葬儀に参列させたものの、犠牲になった兵士たちとカルロス・ジュスティ最高裁判事の墓前に向かい冥福を祈った。その後、ペルーを訪れる日本の国務大臣は、必ず3名の墓前を訪れている。

移転後の在ペルー日本国大使館(2012年)

大使公邸は同じサン・イシドロ地区の別の場所に移転した。新公邸は二重の塀に四方の監視塔、防弾仕様のゲートなどセキュリティーが大幅に強化されており、事件当時のようなパーティーやレセプションもほとんど行われなくなった。事件現場となった旧公邸は取り壊され、2011年に地元の不動産業者に売却された[7]が、2022年現在も更地のままである。なお、外周の塀と扉はそのまま残されており、事件当時の弾痕が確認できる。突入訓練用に建造された大使公邸の実物大レプリカは事件後も保存されており、「チャビン・デ・ワンタル博物館」として事件の資料が展示されている。

フジモリ大統領が下した突入の決断に対し、日本をはじめとする世界各国は大きな賛辞を贈った。しかし、後日、投降したMRTAメンバーを超法規的殺人により処刑した疑惑が浮上し、フジモリ大統領も訴追された。

2000年(平成12年)11月19日 – フジモリ大統領がペルー国内の反政府運動を受け辞任。日本に事実上の亡命。

2001年(平成13年)3月 – MRTAメンバーの墓を発掘し再検死。

2002年(平成14年)5月 – 特殊部隊の指揮官ら12名に殺人容疑で逮捕状。13日、うち1名を拘束。

2003年(平成15年)3月 – ペルー政府からの要請を受けた国際刑事警察機構が、フジモリ元大統領を人道犯罪容疑で国際手配。日本政府は身柄引き渡しを拒否。

2003年(平成15年)5月27日 – ペルー政府の嘱託を受けた東京地方裁判所が、MRTAメンバーの生存中の拘束を目撃していた元人質(当時の日本大使館一等書記官)を証人尋問。

詳細は「アルベルト・フジモリ」を参照

この事件によりペルー国内だけでなく世界各国から非難を浴びたMRTAは、主要メンバーの大半をこの事件により喪失しただけでなく、国内外からの支援も途絶え、事実上の壊滅状態に追い込まれた[注釈 2]。

2007年(平成19年)4月21日には、禁固32年の刑で服役中の指導者ビクトル・ポライは事件の武力解決10周年を期に共同通信へ書簡を寄せ、自らの武力革命路線の敗北を認め武闘路線の放棄を表明した。

本事件では、テロリストが人質に対して次第に同情的になり、本来、危険が迫れば処刑する予定だった人質を殺害できず、大半の人質が生還した。以上のことから、人質が犯人側に同情的になるストックホルム症候群の逆パターンとして、事件現場の地名にちなみリマ症候群という心理学用語が生まれた。

4月22日は歴史上いくつかの重要な出来事が起こった日ですね。1212年には鴨長明が『方丈記』を書き上げたということで、日本文学史上においても大きな節目です。『方丈記』は自然と人間の関係を独自の視点から描いた作品で、その深い思索と美しい表現は今も多くの人々に愛されています。

一方、1997年にはペルー日本大使公邸占拠事件が起こりました。この事件は、テロリストによる長期にわたる人質事件であり、多くの人々が犠牲になりました。特殊部隊の突入によって事件は終結しましたが、その後も事件の影響は大きく、国際的な議論を呼びました。フジモリ大統領の対応や事件後の動き、そしてMRTAの組織に与えた影響など、様々な側面から考えることができます。

この日は、文学と歴史の両面から興味深い出来事が起こった日と言えます。日本の文学の名作が生まれた一方で、遠くペルーでの悲劇もあったことを思うと、時の流れの不思議さを感じますね。