3月7日
20240307木曜日 旧暦1月27日 先負 庚午かのえうまコウゴ 月齢 26.2
年末まであと299日
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3月7日の出来事
紀元前322年 – アリストテレス、古代ギリシアの哲学者(* 紀元前384年)享年62歳。
664年(麟徳元年2月5日) – 玄奘三蔵、三蔵法師、四大訳経家の1人(* 602年)
享年62歳
1932年 – 東京都墨田区玉の井の「お歯黒どぶ」から男のバラバラ死体発見(玉の井バラバラ殺人事件)。「バラバラ殺人」の表現の嚆矢。
1971年 – 国鉄が山手線の読み方を「やまのてせん」に統一。
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紀元前322年 – アリストテレス、古代ギリシアの哲学者(* 紀元前384年)享年62歳。
アリストテレス(アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης[注釈 1]、羅: Aristotelēs、前384年 – 前322年[1])は、古代ギリシアの哲学者である。
プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる[2]。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。様々な著書を残し、イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。
アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィア[注釈 2]と呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている[3]。
664年(麟徳元年2月5日) – 玄奘三蔵、三蔵法師、四大訳経家の1人(* 602年)
享年62歳
玄奘(げんじょう、602年 – 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(ちんい)。諡は大遍覚[1]で、尊称は法師、三蔵など。玄奘三蔵と呼ばれ、鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とされる。
629年にシルクロード陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院などへ巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著した。
帰国後
帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げた。太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年)2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移った。さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。その後、玉華宮に居を移したが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられた。麟徳元年2月5日(664年3月7日)、玄奘は経典群の中で最も重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に玉華宮で寂した。
日中戦争当時の、1942年(昭和17年)に、南京市の中華門外にある雨花台で、旧日本軍が玄奘の墓を発見した。それは、縦61cm横79cm高さ58cmの石槨で、中には縦49cm横49cm高さ31cmの石棺が納められていた。石棺の内部には、北宋代の1027年(天聖5年)と明の1386年(洪武19年)の葬誌が彫られていた。石棺内に納められていたのは、頭骨であり、その他に多数の副葬品も見つかった。
この玄奘の霊骨の扱いには関しては、日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見た[要出典]。中国側は、北平の法源寺内・大遍覚堂に安置された。その他、各地にも分骨され、南京の霊谷寺や成都の浄慈寺など、数ヶ寺に安置される他、南京博物院にも置かれている。
日本へ渡った遺骨は、当初日本仏教連合会があった増上寺に安置されたが、第二次世界大戦中で空襲の拡大から、一時的に三学院(埼玉県蕨市)[注釈 1]に移され、後に慈恩寺(さいたま市岩槻区)に疎開させた。戦後正式に慈恩寺に奉安され、1953年(昭和28年)5月には「玄奘塔」が落慶した。1955年(昭和30年)には台湾・玄奘寺、1981年(昭和56年)には薬師寺(奈良市)の「玄奘三蔵院」へ分骨されている。
ただ、南京で発見されたものが頭骨だけであったため、他の骨は散逸したとも、そもそも興教寺から持ち去られたのは頭骨だけであるともされるが、詳細は不明である。
1932年 – 東京都墨田区玉の井の「お歯黒どぶ」から男のバラバラ死体発見(玉の井バラバラ殺人事件)。「バラバラ殺人」の表現の嚆矢。
玉の井バラバラ殺人事件(たまのいバラバラさつじんじけん)は、1932年(昭和7年)3月7日に東京府南葛飾郡寺島町(現在の東京都墨田区)で発覚した殺人事件。この事件によって、殺害された被害者の遺体を切り刻む猟奇殺人の名称として「バラバラ殺人」が定着した。
1971年 – 国鉄が山手線の読み方を「やまのてせん」に統一。
路線名の読み方
山手線の読み方は、対義語である山の手と下町からの「やまのてせん」であり、太平洋戦争前も「やまのてせん」と読んでいた。開業時の申請書には表記を「山ノ手線」とする旨が書かれており、開業時表記は「山手線」となったが、読みは「やまのてせん」だった。ところが終戦直後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指示により、鉄道施設や道路標識などにローマ字併記が進められた際、山手線には国鉄部内での通称だった「ヤマテ」につられて「YAMATE=Loop=Line」とローマ字を振ったことがきっかけとなり、その後「やまてせん」という読み方が一般に定着してしまった[17]。
読み方が「やまのてせん」に戻ったのには2つの理由がある。1つは1970年から始まったディスカバー・ジャパンキャンペーンで、駅名や路線名を分かりやすいようにしようとする動きが起こったためである。もう1つは、群馬県の長野原線が大前駅まで延伸開通した際に路線名を「吾妻線(あがつません)」に改称したことである。吾妻線が「あづません」と読み間違えられるのを防ぐため、[要出典]国鉄では全路線の線路名称にふりがなをつけることを決定。山手線には「やまのてせん」というふりがなを振り、吾妻線が大前駅まで開通した1971年3月7日から実施した[18]。国鉄当局が「やまのてせん」を選択して復活させた理由は、線名の由来・発祥からして、「やまのてせん」の方が伝統的に正しいことと[19]、田端駅 – 品川駅で並走する京浜東北線の直通先の根岸線にある山手駅(やまてえき 1964年5月開業)との混同を避ける(京浜東北・根岸線の「山手行き」と勘違いさせない)ためである。これに伴い、その趣旨を徹底させるため、電車に掲出される方向幕の行先表示は、漢字表記は「山手」を「山手線」に、ローマ字表記は「YAMATE」を「YAMANOTE LINE」と改めた[17]。
チャットgpt先生の3月7日のエッセイ
3月7日は、歴史上重要な出来事が多く起きた日です。その中でも特に注目すべき出来事や人物を取り上げてみましょう。
まず、古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスの誕生日です。彼はプラトンの弟子であり、知的探求を科学的な探求として体系化し、多岐にわたる分野で活躍しました。彼の業績は、現代の学問体系にも多大な影響を与えました。
そして、唐代の中国の訳経僧である玄奘の命日でもあります。彼はシルクロードを旅し、多くの仏典を持ち帰り、翻訳に尽力しました。彼の業績は、中国仏教の発展や東西文化交流に大きな影響を与えました。
さらに、日本の歴史においても、1932年に東京で発生した「玉の井バラバラ殺人事件」が起きた日です。この事件は、日本の犯罪史においても特筆すべき事件であり、バラバラ殺人という表現が生まれたことでも知られています。
最後に、1971年に国鉄が山手線の読み方を「やまのてせん」に統一した日です。この決定は、日本の鉄道文化において大きな変革をもたらしました。
このように、3月7日は様々な分野で重要な出来事が起きた日であり、その影響は今日まで続いています。