kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日3月6日 1948菊池寛死去、ほか写真wikipedia中国戦線作家部隊従軍の菊池寛右2人目

3月6日

20240306水曜日 旧暦1月26日 友引 己巳つちのとみ キシ 月齢 25.2

年末まであと300日

https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%886%E6%97%A5

3月6日の出来事

1930年 – ゼネラルフーヅが世界初の冷凍食品を発売。

1943年 – 布袋座火災: 北海道虻田郡倶知安町で映画会開催中に火災が発生、208人が死亡。

1948年 – 菊池寛[8]、小説家(* 1888年)享年60歳。

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1930年 – ゼネラルフーヅが世界初の冷凍食品を発売。

1943年 – 布袋座火災: 北海道虻田郡倶知安町で映画会開催中に火災が発生、208人が死亡。

布袋座火災(ほていざかさい)は、1943年(昭和18年)3月6日に北海道虻田郡倶知安町にあった映画館「布袋座」で発生した火災である。死者208名を出す惨事となり、単独の火災では日本史上最悪の水準である。

1948年 – 菊池寛[8]、小説家(* 1888年)享年60歳。

菊池 寛(きくち かん、旧字体:菊池 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 – 1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名:菊池 寛(きくち ひろし)。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。

生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。

著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。『真珠夫人』(1920年)のヒット後は通俗小説で健筆を揮った。

公職追放、急死

終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った[22]。その年の暮れには横光利一が死去。翌年1948年(昭和23年)1月、苦難を共にした、元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝。気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込む。回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べたあと、2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死。享年59歳。息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉だった[23][24][25]。その際、夫人の手を握りしめていたという[26]。

告別式は音羽の護国寺で行われた。葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいた。家族が発見した寛の遺書が当日公表された。

私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。

— 吉月吉日 菊池寛

エピソウド

・1977年(昭和52年)9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巖谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎は、「金ならあります」と言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。

・両性愛者の傾向があった。

旧制中学時代に4級下の下級生の渋谷彰に同性愛的思慕を持っていた。この渋谷に宛てた愛の手紙が多数現存する[39]。2人の文通はその後も続き、菊池が京大卒業後も文通はあるが、この頃は渋谷へ翻訳の仕事を与えようとするなど通常の手紙になってきている[40]。

また、正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の1人に小森和子がいた。小森はあまりに易々と菊池に体を許そうとしため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。

チャットgpt先生の3月6日のエッセイ

3月6日は歴史的な出来事が多く起こった日です。特に注目すべき出来事は、1930年にゼネラルフーヅが世界初の冷凍食品を発売したこと、そして1943年に北海道で布袋座火災が発生し、208人が犠牲となったことです。

菊池寛の死去もこの日に関連しています。彼は日本の文学界に大きな足跡を残した小説家であり、文藝春秋社を興し、文学賞の創設にも携わりました。彼の死は公職追放という波乱含みの時期に訪れました。終戦後の混乱期において、政治的な状況により追放されることとなりましたが、その死は彼の文学界における功績とともに、日本の文化史にも大きな影響を与えました。

菊池寛のエピソードには興味深いものが多くあります。彼の人生は文学のみならず、個人的な側面にも多くの人々を引きつけました。特に、彼の愛人や同性愛的傾向といった要素は、彼の人間性をより多面的に理解する上で重要な要素です。

彼の死に際しての遺言は、その人柄を端的に表しています。彼は私生活においても公の場においても、自身の信念を貫き通した人物であり、その生涯は多くの人々に感動と啓発を与えました。

3月6日は菊池寛のような偉大な文学者の命日であり、彼の功績と人間性を偲ぶ日として、日本の文学界において特別な意味を持っています。