3月23日
20240323土曜日 旧暦2月14日 先負 丙戌ひのえいぬ ヘイジュツ 彼岸明(春)
月齢 12.7 年末まであと283日
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3月23日の出来事
1585年(天正13年2月22日) – 天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に公式謁見。
1919年 – イタリアでベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を結成。
1945年 – 第二次世界大戦: 米軍の沖縄上陸作戦開始に伴い、ひめゆり学徒隊に動員令が下る。
1945年 – 青森県赤石村で雪泥流(土石流)が発生。87名死亡。
1994年 – アエロフロート航空593便墜落事故。
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1585年(天正13年2月22日) – 天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に公式謁見。
1919年 – イタリアでベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を結成。
ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(イタリア語: Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883年7月29日 – 1945年4月28日)は、イタリアの政治家、独裁者。
イタリア社会党で活躍した後に新たな政治思想ファシズムを独自に構築し、国家ファシスト党による一党独裁制を確立した。
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師範学校時代は一定の成績は維持していたものの、以前ほど抜きんでた成績を取ることはなく、教員課程より読書に没頭する日々を送った[27]。相変わらず周囲との交流も嫌って孤独を好み、しばしば師範学校の鐘楼に登って哲学、政治学、歴史学を中心に様々な分野の書物を読んでいた。一方で政治集会が開かれる際には雄弁に持論を語り、説得力ある演説家として一目置かれていた。学内では穏健な世俗派としてイタリア共和党を支持する者が多く、彼らはそれを共和党員を示す黒いネクタイを身に着けていたが、ムッソリーニはより急進的なイタリア社会党の支持者として赤いネクタイを身に着けていた[28]。
スイスでは土木作業や工場労働で生計を立てる日々を送り、貧しさから橋の下や屋根裏部屋に寝泊りしたこともあった。不安定な放浪生活と引き換えに「ヨーロッパの小さなアメリカ」であるスイスで様々な人々から知遇を得ることができた。
その中で特筆されるのはウラジーミル・レーニンの秘書を務めたウクライナ人女性アンジェリカ・バラバーノフとの出会いであった[34][35]。当時から難解さを知られていたマルクス主義を完全に理解できている人間は社会主義者や共産主義者の間ですら限られていた。ムッソリーニは狂信的なマルクス主義者であるバラバーノフからマルクス主義の教育を受け、社会主義理論についての知識を得た[34]。またレーニン自身もムッソリーニの演説会に足を運んだことがあった[34]。レーニンはムッソリーニを高く評価し、後にイタリア社会党が彼を除名した際には「これでイタリア社会党は革命を起こす能力を失った」「あの男を追放するなんて君らはバカだ」とまで叱責している[36]。レフ・トロツキーも同時期のレーニンと同行していて、ムッソリーニと面識があったとする説もある[37]。
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この頃からムッソリーニは社会党の政治活動に専念するようになったが、全面的に社会党の路線を支持しているわけではなかった。元々ムッソリーニは少年期から多様な思想を学んでいたことから教条的な政治家ではなく、積極的に他の思想を取り込んでいく政治的シンクレティズムを志向する政治家となっていた。一例を挙げれば反平等主義的な選民主義を説いたフリードリヒ・ニーチェから選民主義と反キリスト思想の影響を受けている[56]。ニーチェの選民思想は明らかに社会主義の一般的な理念から離れており、ニーチェに理解を示すムッソリーニは社会主義者にとって異端の存在であった[56]。ムッソリーニは(社会主義の一派である)マルクス主義の決定論や社会民主主義の改良主義の挫折によって社会主義全体が道を失い始めていると感じており、ニーチェの思想による社会主義の補強を試みた[56]。また先に述べたように、ソレル主義に代表される革命的サンディカリスムにも接近していた[57]。
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1917年2月23日、ムッソリーニは塹壕内で起きた榴散弾の爆発事故で重傷を負った[59]。周りにいた兵士が死亡していることを考えれば奇跡的な生存であったが、ムッソリーニの全身には摘出できない40の砲弾の破片が残り、後遺症の神経痛に悩まされることになった[82]。負傷中の病院には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレが訪問しており、これが後の主君と宰相の最初の出会いとなった。共和主義者であるムッソリーニと不愛想で知られていた国王の会話は当初淡々としたものであった。見かねた軍医が間に入って治療の際にムッソリーニが麻酔を拒否して痛みに耐えたというエピソードを教えると、初めて国王は柔らかい笑みを浮かべて「健康になることを祈っている。イタリアには君のような人物が必要だ」とねぎらい、ムッソリーニも「有難うございます」と素直に答えている[84]。退院後は前線復帰を望んだものの、片足に障害が残ったことから一年間の傷病休暇を命じられた。
ドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権獲得後に突撃隊を粛清したのとは対照的に、国家ファシスト党は民兵組織を排除しなかった。これはファシスト党が自身も含めた「兵士の政党」であるという背景に加えて、粛清や内部対立を嫌い大同団結を好むムッソリーニの政治信念による判断といえた。実際、ムッソリーニはヒトラーによる長いナイフの夜事件を聞いた際に妻との会話で「あの男は野蛮人だ。あの殺し方はなんだ」と旧友を冷酷に処断したことへの嫌悪感を口にしていた[109]。国民ブロック内で路線の違いが表面化しつつあったイタリア・ナショナリスト協会にも寛容な姿勢を見せ、1923年には国家ファシスト党に合流させる融和策を取った[108][110]。
*ドイツの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権獲得後に突撃隊を粛清したのとは対照的に、国家ファシスト党は民兵組織を排除しなかった。これはファシスト党が自身も含めた「兵士の政党」であるという背景に加えて、粛清や内部対立を嫌い大同団結を好むムッソリーニの政治信念による判断といえた。実際、ムッソリーニはヒトラーによる長いナイフの夜事件を聞いた際に妻との会話で「あの男は野蛮人だ。あの殺し方はなんだ」と旧友を冷酷に処断したことへの嫌悪感を口にしていた[109]。国民ブロック内で路線の違いが表面化しつつあったイタリア・ナショナリスト協会にも寛容な姿勢を見せ、1923年には国家ファシスト党に合流させる融和策を取った[108][110]。
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1937年7月、今度はムッソリーニがドイツを訪問することが決まると、ヒトラーは「私の師を迎えるのだ。全てが完璧でなければならない」と側近に語り、宿泊する建物や使用する部屋を細かく検討し、ベルリンの中央広場には自らが設計したムッソリーニの記念像を建設させた。ドイツ各地でナチ党員の組織立った歓迎を受け、欧州随一の工業力と再建されたドイツ国防軍の陸軍部隊の演習を視察して深い感銘を受けた。会談の仕上げとして前年にベルリンオリンピックが開催されたマイフェルト広場(ドイツ語版)(五月の広場)で開かれたナチ党の政治集会で記念演説が行われた。100万人の聴衆を前にヒトラーから「歴史に作られるのではなく、歴史を作り出す得難い人物」として紹介を受けたムッソリーニは近代のドイツとイタリアが同時期に統一を達成したことを踏まえ、現代の独伊友好、更にはファシズムとナチズムとの思想的同盟について以下のようにドイツ語で演説した[155]。
ファシズムとナチズムは同じ世紀に同じ行動で統一を獲得して復活した我々の民族の生命を結ぶ、歴史的展開の並行性の表現である
我々は世界観の多くの部分を共有している。意思が民族の生命を決定付ける力であり、歴史を動かす原動力である事を我々は確信している
ファシズムには守るべき倫理がある。その倫理は私の個人的倫理でもある。それは包み隠さず明確に発言する事であり、友があれば最後まで諸共に進む事である
今日の世界に存在するもっとも純正な民主主義国家はドイツとイタリアであり、明日はヨーロッパ全てがファシスト化されるだろう
私生活
教養
元々が師範学校出身の知識人であり、教師としての教育を受けていることもあって大変な勉強家であった。本領である政治学では様々な思想に関する博学な知識を持ち、ジョルジュ・ソレルの修正マルクス主義に深い理解を示して新たな思想である結束主義を体系化した。ほかに哲学にも通じてブランキからシュティルナーまで多くの理論を学び、また芸術面では近代ドイツ文学に傾倒していた。加えて自国語であるイタリア語、さらにドイツ語、フランス語、英語の四か国語に通じた教養人であった。
語学力はムッソリーニの強みの一つでドイツ訪問時には通訳を介さずドイツ語で演説を行っており、発音に僅かな癖があるのみという流暢さでドイツ国民に語り掛けて喝采を浴びている。またイタリア系アメリカ人に対し、アメリカの映画ニュースを通じ英語で祝辞を送っている。演説家としては感情が高ぶるほど激烈な弁が冴えたヒトラーとは対照的に、さわやかで分かりやすい演説をする人物として知られていた。
スポーツ
若い頃からスポーツを得意としており、毎朝起きたら体操をやりジュースを飲み、最後に乗馬に興じてからシャワーを浴びて朝食をとるのが日課であった。朝食ではパンのほかに果物が用意してあり(本人も果物が健康の秘訣だと言っている)、魚はたまに食べるが肉は殆ど食べなかったという。
自動車やモータースポーツを愛好し、国威発揚のためにイタリアの自動車メーカーを国際レースの場に出ることを推奨したほか、「ミッレミリア」などの国内におけるレースへの支援も欠かさなかった。また自身もドライブを好み、イタリアの高級車アルファロメオ、フィアット、ランチアなど広く乗っていた。特にアルファロメオへの愛は格別で、カブリオレやスピードスター、スパイダー・コルサなど複数台を所有し、公式な祭典でもプライベートの気晴らしでもアルファロメオに乗っていた。またバイクも、モトビアンキ社のフレッチャドーロに跨がっている姿の写真が残っている[276]。ヒトラーの自動車を運転する姿の記録が一切ないのとは対照的である。
女性
ムッソリーニは行動的で粗野な反面、繊細な神経の持ち主で他人を信用せず、心を許す友人も作らず常に孤独であったと言われている。異性関係については青年期から多くの女性と関係を持ち、結婚後もしばしば妻以外の女性と愛人関係を持つなど奔放だった。女性問題は男尊女卑の傾向が強かった当時の欧州ではそれほど重大な問題と受け取られず、むしろ男性的な強さや魅力として好意的に報道された。女性の扱い方は紳士的というよりは家父長的で、私生活や政治問題については一切口出しを許さず、同性の知人に対してそうであったように本心を見せなかった。
動物
動物では犬を好んだことで知られるヒトラーに対し、子供の時から猫好きであった。また乗馬経験から馬の飼育も趣味にしていた。
信仰
無神論者・反教会主義者
ムッソリーニは敬虔なカトリック教徒の母ローザと[280]、反対に根っからの無神論者である父アレッサンドロとの板挟みの中で幼少期を過ごした[281]。ローザはほかの子供たちと同じくムッソリーニに洗礼を受けさせて毎週日曜日には教会のミサに連れて行った。対照的にアレッサンドロは決してミサには参加しなかった[280]。ムッソリーニ自身は先述の通り、カトリック系の寄宿学校での強圧的で階級的な教育制度に激しい嫌悪を感じて、「朝起きると必ずミサへと連れて行かれる」と述懐している[282]。
青年期を迎えたムッソリーニは父と同じ反教会主義者・無神論者・唯物論者として自覚した行動を行い[281]、宗教に寛容な社会主義者を批判して洗礼拒否運動を展開した。当時のムッソリーニは「神などいるわけもなく、キリストはただの馬鹿で精神異常者であったことは明らかだ」とキリスト教を侮蔑していた。彼は宗教を信じる人間が頼るべきは教会ではなく精神科であり、キリスト教は人を怠惰にしただけだと罵倒した[281]。彼は無神論を最初期に説いたニーチェを尊敬し、彼の理論がキリスト教の欺瞞を明らかにしていると考えた[283]。また信仰心に対する代替物として提案された超人思想についても肯定的であった[283]。
政治家に転身した後も反教会主義はムッソリーニの重要な政治的目標の一つであり続け、痛烈な教会批判を繰り返した[284]。彼は社会主義とキリスト教の合同は絶対に避けられるべきで、無神論者ではない社会主義者は政界から追放すべきとまで主張した。しかしキリスト教の中心地として栄えてきたイタリアにおいて、カトリック教徒の支持を集めることは大衆運動で不可欠であった。そのため、権力の階段を登るに連れて自説を押し通すことより政治上の作戦としてキリスト教勢力との協力路線へと切り替えていった。1921年に下院議員として初めて演説を行ったムッソリーニは、「ローマに存在する唯一の普遍的な理念は、ヴァチカンより発せられるものである」と述べ、ヴァチカンとのコンコルダート(政教条約)の締結を主張した[96]。
1945年 – 第二次世界大戦: 米軍の沖縄上陸作戦開始に伴い、ひめゆり学徒隊に動員令が下る。
ひめゆり学徒隊(ひめゆりがくとたい)とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって動員された女子学徒隊のうち、沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成された女子学徒隊。
1945年 – 青森県赤石村で雪泥流(土石流)が発生。87名死亡。
1994年 – アエロフロート航空593便墜落事故。
アエロフロート航空593便墜落事故(アエロフロートこうくう593びんついらくじこ)とは、1994年3月23日、ロシアのアエロフロートのエアバスA310-304がシベリアに墜落した航空事故である[1]。
事故のきっかけは、リリーフパイロット(交代機長)が自分の子供を操縦席に座らせて操縦桿を操作させたことである。
乗客数 63
乗員数 12
負傷者数 0
死者数 75 (全員)
生存者数 0
機種 エアバスA310-304
運用者 ロシアの旗 アエロフロート・ロシア航空
タイトル: 人間の歴史は出会いと運命の糸で織り成される
人間の歴史は、出会いと運命の糸で織り成される。時には偶然の出来事が大きな歴史的転換点を生むこともある。1585年の出来事は、そうした偶然とも言える出会いが歴史を変えるきっかけとなった瞬間の一つだ。
天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に謁見したその日、日本とヨーロッパが距離を縮めた瞬間だった。当時の世界はまだ地図上の未知の領域が多く、異国の文化や民族との交流はまれだった。しかし、この使節団の訪問は異文化間の交流の先駆けとなった。日本とヨーロッパの間に架けられた橋は、この出会いから始まった。
1919年、イタリアでのベニート・ムッソリーニによる「戦士のファッショ」の結成もまた、偶然と必然の結びつきが歴史を作る瞬間だった。ムッソリーニの政治運動は後にファシズムとして世界に広がり、第二次世界大戦における重要な役割を果たすことになる。彼の理念や行動は、時に賞賛され、時に非難されるが、その影響力は歴史の流れを変えたことは間違いない。
1945年の出来事もまた、偶然の連鎖が生む悲劇の一端である。米軍の沖縄上陸作戦に伴い、ひめゆり学徒隊に動員令が下った。彼らは戦場に送り出され、多くが若さと命を失った。同じ日に、青森県赤石村での雪泥流もまた多くの命を奪った。自然災害と人為的な戦争という異なる側面から、人々の命が奪われた瞬間だった。
そして、1994年のアエロフロート航空593便の墜落事故は、技術の進歩と人間の過ちが交錯した瞬間だった。機体の制御を失った乗員の行動が事故を招いたが、その背景には人間の心理や組織の問題が絡んでいた。技術の発展が人間の手に渡る時、その安全性は常に問われる。
偶然と必然、出会いと運命が交錯する歴史の一日。それぞれの出来事が、人間の歴史に新たな一ページを刻み込んだ。未来を見据える上で、過去の出来事から学ぶことは重要だろう。