3月19日
20240319火曜日旧暦2月10日大安 壬午みずのえうまジンゴ 月齢 8.7
年末まであと287日
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3月19日の出来事
1279年(祥興2年2月6日) – 崖山の戦い。モンゴルにより南宋が滅亡。
1853年 – 太平天国の乱: 太平天国軍が江寧(南京)を陥落。「天京」と改称して首都とし、太平天国の王朝を樹立。
1945年 – 第二次世界大戦: アドルフ・ヒトラーがドイツ国内のインフラ破壊を指令。(ネロ指令)
1945年 – 第二次世界大戦・九州沖航空戦: アメリカ海軍の航空母艦「フランクリン」が日本海軍の爆撃機「銀河」1機の攻撃を受け大破、724名の死者を出す。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 名古屋大空襲。
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1279年(祥興2年2月6日) – 崖山の戦い。モンゴルにより南宋が滅亡。
崖山の戦い(がいざんのたたかい)は、1279年3月19日(至元16年2月6日)に中国大陸の広州湾で、元の軍勢が南宋の海軍を破った戦いである。この戦いで南宋は敗北、最後の皇帝趙昺は宰相陸秀夫とともに入水し、名実ともに南宋は滅亡した。
損害は
元軍1万に対し、南宋10万程度。
1853年 – 太平天国の乱: 太平天国軍が江寧(南京)を陥落。「天京」と改称して首都とし、太平天国の王朝を樹立。
1945年 – 第二次世界大戦: アドルフ・ヒトラーがドイツ国内のインフラ破壊を指令。(ネロ指令)
ネロ指令(ネロしれい、ドイツ語: Nerobefehl)とは、第二次世界大戦末期の1945年3月19日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの指示により、国防軍最高司令部が発出した「ライヒ領域における破壊作戦に関する命令(ドイツ語: Befehl betreffend Zerstörungsmaßnahmen im Reichsgebiet)」の通称。この命令は自国内における「焦土作戦」を命令する物であったため、後世の歴史家などによって、かつてローマを自ら焼いたという伝説があるローマ皇帝ネロになぞらえて「ネロ指令」と呼ばれる。
概要
1945年の時点で東部戦線も西部戦線も戦場はドイツ国内となり、戦争は最終局面を迎えていた。3月19日に発出されたこの命令は、ドイツ国内のインフラストラクチャー、資源、産業施設等について、敵が入手する前の破壊を命じるものであった。
ヒトラーによる焦土作戦命令はこれが初めてではない。例えば1944年8月に行われた連合軍によるパリ解放の少し前、ヒトラーはパリ軍事総督のディートリヒ・フォン・コルティッツ大将に、「パリは、廃墟以外の姿で敵に渡すべきではない」といういわゆる「パリ廃墟命令」を出している。しかし、コルティッツ大将はパリ廃墟命令を無視し続け[1][2]、8月25日に連合軍に降伏した。同じように、1944年後半にオランダ奪還を図る連合軍の動きに対し、ヒトラーはオランダ国家弁務官のアルトゥル・ザイス=インクヴァルト親衛隊大将に焦土作戦命令を出したが、ザイス=インクヴァルトはその実行の抑止に努めていた。
このように、ヒトラーによる焦土作戦命令は実行されないか何らかの妨害を受けており、それはこの命令も同じだった。既に戦後を考えていた軍需大臣アルベルト・シュペーアは、産業破壊が戦後復興や国民生活の差し障りになると考え、ヒトラーと面会してその中止を訴え出た。しかしヒトラーは「戦争に負ければ国民もおしまいだ。(中略)なぜなら我が国民は弱者であることが証明され、未来はより強力な東方国家(ソ連)に属するからだ。いずれにしろ優秀な人間はすでに死んでしまったから、この戦争の後に生き残るのは劣った人間だけだろう。」と述べ[3]、命令を撤回しなかった。しかしシュペーアはヒトラーに内密で命令をサボタージュし、一定程度の産業保護に成功した。
1945年4月22日、総統地下壕でヒトラーに最後に面会したシュペーアは命令に従わなかったことを伝えた[4]。ヒトラーは激怒したが、シュペーアの脱出は認めた。ヒトラーは8日後の4月30日に自殺し、5月8日にドイツは降伏した。
1945年 – 第二次世界大戦・九州沖航空戦: アメリカ海軍の航空母艦「フランクリン」が日本海軍の爆撃機「銀河」1機の攻撃を受け大破、724名の死者を出す。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 名古屋大空襲。
名古屋大空襲(なごやだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期、アメリカ軍が名古屋市に対して繰り返し行った空襲の総称、もしくはそのうち特に市街地を標的として大規模に行われたものをいう。後者においては、中心市街地が罹災した1945年(昭和20年)3月12日、名古屋駅が炎上した3月19日、または名古屋城を焼失した5月14日の空襲などを指す。鉄道が被爆した。
激化した1945年の空襲
炎上する名古屋駅(1945年3月19日)。屋上には高射砲の陣地があったが、全く届かなかった。
空襲は、当初は日中の高高度戦略爆撃により軍関連の工場や名古屋港などの産業施設へ通常爆弾による精密爆撃を中心に行われていたが、命中率の低さから成果を上げられず、1945年(昭和20年)1月にカーチス・ルメイが第21爆撃集団司令官に着任してからは、焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃が始まり、3月頃からは深夜の空襲が多くなった。
3月12日未明、B-29爆撃機200機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、105,093人が罹災した。死者519人、負傷者734人に上り、家屋25,734棟が被災し、市街の5%が焼失したとされる。
3月19日午前2時頃、B-29爆撃機230機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、151,332人が罹災した。死者826人、負傷者2,728人に上り、家屋39,893棟が被災した。中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年(昭和12年)に竣工したばかりの6階建ての名古屋駅の焼け焦げた姿が遠くからでもよく見えたという。
5月14日、B-29爆撃機440機による空襲で旧国宝の名古屋城が炎上、家屋21,905棟が被災した。66,585人が罹災し、死者338人、負傷者783人に上ったが、これ以降に撃墜されたB-29の搭乗員は、戦時国際法違反(非戦闘員に対する無差別爆撃)の戦争犯罪で斬首死刑が執行されている[7]。6月9日には熱田空襲が行われ、愛知時計電機・愛知航空機の社員や動員学徒を含む2,068人の死者を出した。7月26日にエノラ・ゲイによる八事日赤病院付近への模擬原爆(パンプキン爆弾)投下[8]を最後に63回の空襲が行われ、B29の来襲は2,579機に達した。投下された爆弾の総量は14,000トンに上り、被害は死者7,858名、負傷者10,378名、被災家屋135,416戸に及び[9]、名古屋市は日本の他の大都市と同様に壊滅的に破壊された。
チャットgpt先生の3月19日のエッセイ
3月19日は歴史的に様々な出来事が起こった日であり、その中で特に注目すべき出来事がいくつかあります。
1つ目は、1279年の崖山の戦いです。この戦いによって、南宋が滅亡し、最後の皇帝趙昺が宰相とともに入水して南宋は名実ともに滅亡しました。この戦いで南宋は圧倒的な損害を受け、元軍に対して数的にも劣勢でしたが、最後まで抵抗を続けました。
2つ目は、1853年の太平天国の乱に関連する出来事です。太平天国軍が江寧(南京)を陥落させ、それを天京と改称して首都とし、太平天国の王朝を樹立しました。この出来事は中国の歴史において重要な転換点となりました。
そして、3つ目は1945年の第二次世界大戦末期の出来事です。アドルフ・ヒトラーがドイツ国内のインフラ破壊を指令する「ネロ指令」が出されました。この命令は焦土作戦を命じるものであり、戦後の状況を考慮した上での決断でしたが、結局は一部の要人によるサボタージュによって一部の産業が保護されることとなりました。
さらに、同じく1945年には日本本土への空襲も激化しました。名古屋市に対する大規模な空襲が行われ、市街地が焼け野原と化しました。この空襲により多くの犠牲者が出たほか、名古屋城も被害を受けました。
このように、3月19日は世界の歴史において様々な出来事が起こった日であり、それぞれがその時代の流れや影響を示しています。