kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日3月1日 BC752サビニの女たちの略奪The Rape of the Sabine Women ほか 写真サビニの女たち

3月1日

20240301金曜日 旧暦1月21日 先負 甲子きのえね コウシ  月齢 20.2

年末まであと305日ある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%881%E6%97%A5

3月1日の出来事

紀元前752年 – ローマの初代王ロームルスが、ローマ人の初の戦勝を祝い、ユーピテルの神殿を建てて捧げ物を捧げる。(サビニの女たちの略奪を参照)[要出典]

1562年 – ヴァシーでプロテスタントたちが虐殺される(ヴァシーの虐殺、ユグノー戦争のはじまり)。

1692年 – アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラム村でセイラム魔女裁判が始まる。

1910年 – グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故

1932年 – 満洲国の建国が宣言される。

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紀元前752年 – ローマの初代王ロームルスが、ローマ人の初の戦勝を祝い、ユーピテルの神殿を建てて捧げ物を捧げる。(サビニの女たちの略奪を参照)[要出典]

サビニの女たちの略奪(サビニのおんなたちのりゃくだつ、The Rape of the Sabine Women)とは、古代ローマの伝説的挿話の1つである。なお、この場合の “rape” はラテン語の “Raptio” にあたり、「強姦」よりも「誘拐」などに近い意味合いである。日本語では他に、サビニ女性の略奪、サビニの娘たちの掠奪、サビニ族の女達の誘拐、サビニのおとめの拉致、などともいう。

ローマがロームルスによって建国されたばかりのころ、最初の世代は女性が少なかった。子孫を残し国を維持するためには多数の未婚女性が必要だった。ローマ人はそれを近隣国に多く住み勇敢な部族であったサビニ人に求めたが、交渉は不首尾に終わった。そこでローマ人はサビニ人に奸計を仕掛け、大量の未婚女性を略奪した。不法にローマに拉致されたサビニ人女性たちはローマ人の妻になることを強要され、ローマ人の子を産むこととなった。こうしてサビニ人女性を誘拐婚することにより、ローマは国を維持発展させるための次世代を得ることに成功した。後にサビニは女性たちを奪回するためにローマと戦争を起こすが、既に子を産んでいたサビニ人女性たちは子供と引き離されることを拒み、戦争の中止を訴えた。

ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史』やプルタルコスの『対比列伝』(II、15 および 19)で語られており、ルネサンス期以降の芸術作品の主題として好んで使われた。これは、この挿話が古代ローマ人の大胆さと勇気を示す例であるとともに、女性の受難場面や、半裸の群像が激情を発して苦闘する様を描くという芸術的挑戦として捉えられたためである。似たような古典古代の主題としては、ラピテースとケンタウロスの戦い、テーセウスのアマゾーンとの戦いなどがある。

経緯

ピエトロ・ダ・コルトーナ画(1627年 – 1629年)

伝説では、ローマはロームルスと彼が率いる男たちによって建国された。ロームルスは人口を増やすために「避難所」という施設を設けた。この避難所には住むところを追われた犯罪者やならず者、負債者、逃亡奴隷なども逃れてきて保護を求めた。ローマはこれらの者もすべて市民として受け入れた。こうしてローマの人口は増加したが、女性が僅かなので、子孫を得ることが望めず国が一代限りで絶える危機があった。彼らローマ人は妻を娶るため近隣国のサビニ人と交渉したが、交渉は失敗に終わった。サビニ人は、ローマ人の素性の悪さを蔑み、また、近くに新たな社会が根付いてライバルになることを恐れたため、娘を嫁がせることを拒否した。ローマからの使者は「女性用の避難所を作ればふさわしい女性が集まるだろう」と言われて追い返された。ロームルスは、サビニ人を罠に嵌め未婚女性を拉致するという、誘拐婚を企てることとし、周到な準備を命じた。そして、ロームルスはネプトゥーヌス (Neptune Equester) の祭りを開催することを計画し、近隣の部族に祭りへの参加を呼びかけた。リウィウスによれば、カエニナ、クルストゥメリウム、アンテムナエといった町を含む多くのサビニ人が未婚女性を連れて参加したという。彼らは最初は家ごとに懇ろに招待された。催物の時刻が来て、サビニ人たちの目と心がそれへ釘づけになった時、示し合わせたとおりの襲撃が行われた。ロームルスが合図すると、ローマ人の若者がサビニ人の未婚女性を捕らえるべく走り散り襲いかかった。不意を突かれた女性たちは悲鳴をあげて逃げ惑ったが、男達に捕らえられ、無理矢理拉致された。容姿、美貌の麗しい女性はパトリキの有力者達のものと決められていた。役目を言いつかった下男どもに選ばれた哀れな美女たちは、取り押さえられ体を拘束され、自らが所有される家いえに送り届けられ、戦争捕虜として貴人に対して献上された。他の女性たちも力ずくで、ローマ人にとっては順調に身柄を確保され、自由を奪われた。ローマ人の計略は成功したが、悪辣な方法で大量の女性を強奪されたサビニ人は「神の掟、人の信義に背く裏切りに遭った」と訴えた。ローマに略奪された女性の数をウァレリウス・アンティアスは527人といい、ユバは685人としている。

屈辱的な仕打ちを受け、サビニ人未婚女性は悲憤したが、その身の上に良い見通しはなかった。今や彼女らの運命は完全にローマ人に握られて、助けは来なかった。ロームルスは自ら足を運び女性たちに説いてまわった。

ロームルスは、捕獲され虜囚の身となったサビニ人女性に対し、彼女らがこのような境遇になったのは全て近隣の民族が異民族婚を拒否したのが原因であって、彼女たちの両親のプライドのせいだと主張し、不法行為の責任は彼女らの両親であるとした。そして「結婚すればその後の生活は安泰で、市民権や財産権を夫と共に持つ、そして何よりも大事なことは人間にとって無上の宝である子を持ち、自由な人の母になれるということだ」とした。そして、「どうか怒りを鎮めてもらいたい。偶然によりその体を与えることになった相手に今度は心も与えてほしい。不法の後、しばらくして和解が生まれることはしばしばある。彼女らの故郷への思慕が埋め合わされるよう努力する」と述べ、ローマ人の妻になりローマ人の子を産むよう求めた[1]。そしてロームルスはサビニ族からのローマに強奪された女性たちの解放要求は拒否した。帰国の望みを絶たれたサビニ人女性はローマ人の理不尽な要求を受け入れた。サビニ人女性たちは強制的に婚姻関係を結ばされ、ローマ人の子を産んだ。ローマは一代限りで国が絶える危機を回避した。ロームルスの深謀遠慮により、サビニ人女性たちはその後もローマに留め置かれた。取り決めによりサビニ人女性を酷使することは禁止されたが帰郷は認められず、引き続きローマ人によって容赦なく子供を出産させられローマの発展に奉仕した[2][3]。

1562年 – ヴァシーでプロテスタントたちが虐殺される(ヴァシーの虐殺、ユグノー戦争のはじまり)。

ヴァシーの虐殺(ヴァシーのぎゃくさつ、フランス語: Massacre de Wassy,英語: Massacre of Vassy,英語: Massacre of Wassy)とは、1562年3月1日にフランスのヴァシーにおいてギーズ公フランソワの兵士たちの武力行動により、市民とユグノーの礼拝者たちが殺害された出来事。 この惨劇はフランス宗教戦争(ユグノー戦争)において最初の大きな出来事であったと確認されている。 これに続く一連の争いは翌年の1563年3月19日にアンボワーズ勅令(英語版)の署名により調停された。

虐殺

1562年3月1日、2代目ギーズ公フランソワは自身の領地への移動中、ヴァシーに立ち寄りミサへと参加することにした。フランソワは、ユグノーが納屋を教会として使用し、大規模な集会を開いて宗教的行事を行っているのを発見した。サン・ジェルマンの勅令(王令)ではユグノーの礼拝は街の城壁外での礼拝が条件とされていたが[2]、この礼拝はそれに反するものであった[3]。

公爵の一行の何人かがユグノーを道へ押し出そうとしたところ反発された。この出来事はエスカレートし、やがては石が飛び、公爵にぶつけられた。これに憤慨した公爵は部下に街の制圧と教会を焼くことを命じた。これにより62人の非武装のユグノーが殺され、100人を越える負傷者を出した[4]。

影響

「虐殺」はいくつかの教派間の戦端を開くこととなり、約一世紀以上に渡って中断されることなく、大きく長く続くフランス宗教戦争の最初の戦いとなった[5]。この出来事によりギーズ公はカトリック教徒に英雄とされたが、プロテスタントの貴族であったコンデ公ルイ1世は宮殿を去り、戦争の準備を始めた[3]。

1692年 – アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラム村でセイラム魔女裁判が始まる。

セイラム魔女裁判(セイラムまじょさいばん 英語: Salem witch trials)とは、現在のアメリカ合衆国ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で1692年3月1日に始まった一連の裁判である。200名近い村人が魔女として告発され、19名が刑死、1名が拷問中に圧死、2人の乳児を含む5名が獄死した。近世キリスト教世界の広い範囲に及んだ魔女裁判(魔女狩り)という現象の植民地アメリカにおける例であり、犠牲者数はヨーロッパの事例と比べれば際立ったものではないものの、現代では近世の魔女裁判の中で最も有名な事件であると考えられている[1]。

特徴

セイラム魔女裁判で処刑された人物は、全員が魔女であることを否定していた者たちであり、魔女であることを自供した者は一人も絞首刑になっていない。

歴史上、無実の人物を恣意的に魔女に仕立て上げた若者は多いが、その内のほとんどは痙攣や発作などの実際の病気を患っていたと考えられている。しかし、セイラムの告発者の少女らは3月28日にインガソル夫人に対し「みんなで楽しく過ごしたいから遊びでやっている」ことを仄めかしていた[6]。

この事件では、一人の被告人の裁判に莫大な時間を要したため、150人近い逮捕者の内、裁判が実現したのは31人だけだった。また、全ての被告人は、最終的に無罪となった者も含めて、獄中での生活費に加え、死刑執行人の手当てに至るまで全ての費用の支払い義務が課せられた。出獄の際にも料金が課せられたため、全員の釈放が決定した後でも、多くの人が獄中に残された。サラ・ダスティンは1693年1月に法的に無罪となったが、出獄料を払えず、獄中で死亡した。獄死したアン・フォスターの遺体の引き渡しには2ポンド16シリングが請求され、彼女の息子はそれを支払ってようやく彼女を埋葬することができた[7]。

1910年 – グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故

グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(Wellington, Washington avalanche)は、1910年3月1日にアメリカ合衆国ワシントン州ウェリントン近郊で発生した列車脱線事故である[2][4]。

猛吹雪のために2月24日から6日間にわたってウェリントン駅西側にある待避線で立ち往生していた列車2編成(第25列車、第27郵便列車)が、3月1日未明に発生した雪崩の直撃を受けて50メートル下の川に転落し、死者96名(乗客35人、鉄道職員及び労働者61人)、負傷者22名(乗客8人、鉄道職員及び労働者14人)の被害が出た[2][3][4]。雪崩による列車事故では、アメリカ合衆国で最悪の被害を出したものである[2][5]。

1932年 – 満洲国の建国が宣言される。

首都は新京(旧長春)[1]。日本民族・満洲民族・漢民族・モンゴル民族・朝鮮民族の「五族協和」による「王道楽土」建設をスローガンとし[5]、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政に迎え、1934年(昭和9年/康徳元年)から溥儀を皇帝とした帝制へ移行し、各大臣は満洲族で占められたが、要職は関東軍司令官のもと日本人が掌握した[2]。1945年(昭和20年/康徳12年)8月に対日参戦したソ連軍に占領されたことで消滅した[5]。ただし完全占領前の8月17日に重臣会議により満洲国の廃止が決定され、翌日に皇帝溥儀が退位を宣言している。

チャットgpt先生の3月1日のエッセイ

3月1日は歴史的な出来事が多く起きた日であり、特にローマの初代王ロームルスによるサビニの女たちの略奪やセイラム魔女裁判、グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故、満洲国の建国宣言など、様々な出来事が記録されています。

この日の歴史的な出来事は、人類の複雑な過去や社会の発展に対する洞察を提供します。特に、異民族間の関係や宗教的、政治的な闘争、自然災害に対する人間の脆弱性など、人間の歴史と行動の多様性を反映しています。

これらの出来事を振り返ることは、過去の教訓から学び、将来の世代が同じ過ちを繰り返さないようにするために重要です。また、異なる文化や信念の相互理解を深め、平和と協力のために努力する上で役立ちます。

歴史は私たちに、過去の出来事が現在や将来にどのように影響を与えるかを理解する機会を提供してくれます。そして、その理解は、より良い未来を築くための知恵と指針を提供してくれます。