kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月8日 1238モンゴルのルーシ侵攻、1904アチェ戦争、ほか写真wikipediaアチェ戦争

2月8日

20240208木曜日 旧暦12月29日 仏滅 壬寅みずのえとらジンイン 月齢 27.6

年末まであと326日

https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%888%E6%97%A5

2月8日の出来事

1238年 – モンゴルのルーシ侵攻: バトゥ率いるモンゴル帝国軍によりウラジーミルが陥落。市内では大火が発生し大公・ユーリー2世の家族は火から逃れようとして入った教会で焼死する。

1904年 – アチェ戦争: ゴットフリート・コーンラード・エルンスト・ファン・ダーレン(英語版)将軍率いるオランダ植民地軍の海軍歩兵連隊(Korps Marechaussee te voet)が、オランダ領東インド諸島の北スマトラ地域のガヨ高地、アラス高地、バタク高地の占領に乗り出し、アチェ人およびバタク人への大量虐殺を行う。

1932年 – 名古屋市中村区で首を切り取られた女の死体を発見。(首なし娘事件)

2010年 – ヒンドゥークシュでサランの雪崩(英語版)が発生し175人が死亡[15]。

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1238年 – モンゴルのルーシ侵攻: バトゥ率いるモンゴル帝国軍によりウラジーミルが陥落。市内では大火が発生し大公・ユーリー2世の家族は火から逃れようとして入った教会で焼死する。

モンゴルのルーシ侵攻(モンゴルのルーシしんこう)は、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。

1223年のカルカ河畔の戦いでは、スブタイとジェベのモンゴル軍偵察隊にルーシ諸侯やキプチャク(クマン人)連合軍が挑み、ルーシ・キプチャク連合軍が大敗したが、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になった[1]という見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある[2]。

1904年 – アチェ戦争: ゴットフリート・コーンラード・エルンスト・ファン・ダーレン(英語版)将軍率いるオランダ植民地軍の海軍歩兵連隊(Korps Marechaussee te voet)が、オランダ領東インド諸島の北スマトラ地域のガヨ高地、アラス高地、バタク高地の占領に乗り出し、アチェ人およびバタク人への大量虐殺を行う。

アチェ戦争(インドネシア語: Perang Aceh)は、1873年から1904年にかけて、スマトラ島北部のアチェ王国(アチェ・ダルサラーム王国)とオランダ王国の間で行われた戦争。インドネシアではオランダ戦争、異教徒戦争とも呼ばれる。1873年初頭にアチェとアメリカの代表がシンガポールで会談したことを発端とし[8]、アチェ最後のスルターンであるムハンマド・ダウド・シャーが1903年に降伏して翌1904年にアチェがオランダに併合されたことで戦争は終結したとみなされているが、その後も1914年まで大規模な抵抗が続き[1]、散発的な反乱は第二次世界大戦期まで続いた

損害

オランダ37000人  アチェ王国70000人

1932年 – 名古屋市中村区で首を切り取られた女の死体を発見。(首なし娘事件

首なし娘事件(くびなしむすめじけん)は、1932年(昭和7年)に愛知県で発生した殺人事件。詳細な事情は不明であるが、男が恋愛関係にあった女を殺害し、さらに遺体を切断したものである。解体された遺体の状況が、常軌を逸したバラバラ殺人であった。

陰獣事件(いんじゅうじけん)とも呼ばれる[1]。当時の新聞が、犯人のことを、江戸川乱歩の小説『陰獣』になぞらえて「陰獣」と呼んだこと[2]に由来するが、実際には小説の内容と事件との間に特に類似点はない。

事件の概要

1932年(昭和7年)2月8日、愛知県名古屋市中村区米野町の鶏糞小屋で、若い女性の腐乱死体が発見された。体つきから女性と分かったものの、遺体は常軌を逸した損傷を受けていた。頭が切断され持ち去られていた上、胴体から乳房と下腹部がえぐり取られていた。捜査の結果、遺体の身元が19歳(当時)の女性と判明。彼女と恋愛関係にあった和菓子職人の男性(当時43歳)が、1月14日に仕事先の東京から舞い戻り、旅館で彼女と何度も会っていた形跡があった。警察は、聞き込みの結果から、1月22日ごろ和菓子職人の男性が女性を殺害した上、遺体を切り刻んだと推測。彼を指名手配したが、行方はつかめなかった。

ところが2月11日、犬山城にほど近い犬山橋近くの木曽川河原で、被害者の頭部が遺留品とともに発見された。頭部からは頭髪とともに頭皮がはぎ取られていたうえに眼球がえぐられ、下あごが刃物で著しく損壊されていた。

さらに3月5日。頭部の発見現場近くの茶店の主人が、掃除のため別棟の物置を開けようとした。ところが、引き戸は中から鍵が掛けられている。いぶかしみながら扉を外して入ったところ、異様な姿の首吊り遺体を発見した。死後1ヶ月経過した遺体は腐敗が進んで猛烈な臭気を発し、腐乱死体であることを差し引いてもその姿は常軌を逸していた。遺体の正体は中年の男性で、頭には長い頭髪がついたままの女性の頭皮をカツラのようにかぶり、女性用の毛糸の下着の上に黒い洋服を着て、足にはゴムの長靴をはいていた。この腐敗した遺体こそが犯人の中年男性であった。男性の上着のポケットには女性の財布が入っていたが、その財布に入れていたお守り袋の中身には女性の眼球が収められている。さらに小屋の片隅にあった冷蔵庫には、名古屋市で発見された被害女性の遺体から持ち去った乳房と下腹部が、安置でもするように隠されていた。

群馬県で生まれ育った犯人は、若い頃から神仏を篤く信仰し、死後の世界の存在を信じて疑わなかった。後に和菓子職人となった彼は東京・浅草で和菓子店を営み、妻と子供にも恵まれていたものの、1923年(大正12年)の関東大震災で店を失う。彼は妻子を捨て、仕事を求める旅に出た。その道中である女性と知り合い、名古屋市に落ち着いて所帯を持つことになる。犯人は饅頭工場で働き、後妻は裁縫を近所の娘達に教えていた。この裁縫教室の教え子の中に、被害女性がいた。やがて健康がすぐれない後妻は裁縫教室を閉じて入院し、被害女性は師匠(後妻)の元へかいがいしく見舞いに通っていた。その生活の中で、犯人は被害女性と関係を持つようになる。1931年(昭和6年)秋、後妻は看病のかいもなく病死。後妻の遺体は献体されたが、犯人は妻の遺体が解剖されていく有様を、目もそらさず見守っていたという。

やがて犯人は、些細なことで工場を辞職。心機一転を図って12月に上京したものの、内向的な性格も手伝って仕事につまずいた。そして、昭和7年1月14日に名古屋に戻り、被害女性を旅館に呼び出した。その後は昼も夜も無く情事にふけった末、彼女を最初の事件現場に連れ込んで絞殺、遺体を損壊した。

犯人は、最終的に愛する女性との一体化を望み、彼女の頭皮や下着を纏って自殺を遂げたものと思われる。

2010年 – ヒンドゥークシュでサランの雪崩(英語版)が発生し175人が死亡[15]。

チャットgpt先生の2月8日のエッセイ

2月8日の歴史的な出来事

2月8日は、歴史的な出来事が複数起きた日であり、異なる時代や地域で様々な出来事が繰り広げられました。その中で注目すべき出来事を取り上げ、その背後に隠された意味や影響に迫ってみましょう。

1238年 – モンゴルのルーシ侵攻: ウラジーミルの陥落

この日、バトゥ率いるモンゴル帝国軍により、ルーシの都市ウラジーミルが陥落しました。これはモンゴルのルーシ侵攻の一環であり、1223年のカルカ河畔の戦いから始まった征服戦争が頂点に達しました。バトゥの西征は、ルーシ諸国にとって甚大な被害をもたらし、人口の半分を失ったとも言われています。この侵攻は、モンゴル帝国の拡大の一翼を担い、その後のヨーロッパへの影響も考えられます。

1904年 – アチェ戦争: オランダの大量虐殺

アチェ戦争では、オランダ植民地軍が北スマトラ地域のアチェ王国に対して大規模な占領作戦を行い、アチェ人およびバタク人への大量虐殺が行われました。この戦争は1873年から1904年にかけて続き、アチェが最終的にオランダに併合されました。被害総数はオランダが37000人、アチェ王国が70000人に上るとされ、この残虐な戦争は後のインドネシア独立運動にも影響を与えました。

1932年 – 首なし娘事件

名古屋市中村区で発生した首なし娘事件は、恐ろしい殺人事件であり、被害者の女性の遺体が非常に残忍な状態で発見されました。犯人は後に自殺し、事件の背後には彼の異常な信仰心や心理的な背景が垣間見えます。この事件は当時の社会に大きな衝撃を与え、猟奇殺人の恐怖を広める要因ともなりました。

2010年 – ヒンドゥークシュでのサランの雪崩

ヒンドゥークシュで発生したサランの雪崩では、175人が犠牲となりました。雪崩は人間の生命に対する自然の脅威を象徴し、山岳地帯での生活における厳しさを浮き彫りにしました。この出来事は、災害に備える必要性や環境の脆弱性に対する意識を高める契機となりました。

2月8日の歴史的な出来事は、戦争や犯罪、自然災害など様々な側面を持っています。これらの出来事は単なる過去の出来事だけでなく、我々が歴史から学び、未来に向けてより良い社会を築く上での教訓でもあります。