kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月3日 1901 福澤諭吉死去、1922北陸線雪崩直撃、ほか写真wikipedia福澤諭吉葬列

2月3日

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2月3日の出来事

1901年 – 福沢諭吉、思想家、慶應義塾創設者(* 1835年)享年66歳。

1922年 – 現在の新潟県糸魚川市勝山地区で雪崩が発生。列車が巻き込まれ死者90人、負傷者40名。(北陸線列車雪崩直撃事故)

1996年 – 中国雲南省麗江でM7.0の麗江地震発生。死者309人、負傷者17,057人(内重傷者4,070人)、家を失った人18万人の被害[4]。

1998年 – アメリカ海兵隊のパイロットがイタリア・カヴァレーゼのスキー場でリフトのケーブルをくぐりぬけて飛行しようとし、ケーブルを切断、20人を死亡させる。(チェルミス・ロープウェイ切断事件)

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1901年 – 福沢諭吉、思想家、慶應義塾創設者(* 1835年)享年66歳。

業績を基に「明治六大教育家」

咸臨丸船上での福澤諭吉と勝海舟の間柄はあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いた[注釈 7]。

(1862年)1月1日、長崎を出港し、1月6日、香港に寄港した。幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港で植民地主義・帝国主義が吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受けた。

白人至上主義

白人を絶賛する一方で黄色人種については「勉励事を為すと雖ども其才力狭くして事物の進歩甚だ遅し」と否定的であり、さらにその他の有色人種については野蛮人と評している。

諭吉の男女論

諭吉は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいち早く日本に紹介した。「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間であるため、同様の教育を受ける権利があると主張した[69]。自身の娘にも幼少より芸事を仕込み、ハインリヒ・フォン・シーボルト夫人に芸事の指導を頼んでいた。

諭吉が女性解放思想で一番影響を受けていたのがイギリスの哲学者・庶民院議員ジョン・スチュアート・ミルであり、『学問のすすめ』の中でも「今の人事に於て男子は外を努め婦人は内を治るとて其関係殆ど天然なるが如くなれども、ステュアート・ミルは婦人論を著して、万古一定動かす可らざるの此習慣を破らんことを試みたり」と彼の先駆性を称えている[70]。

一方で農村の女子教育には大変否定的であり、女子語学学校ブームに対して「嫁しては主夫の襤褸(ぼろ)を補綴(ほてい)する貧寒女子へ英の読本を教えて後世何の益あるべきや」「農民の婦女子、貧家の女子中、稀に有為の俊才を生じ、偶然にも大に社会を益したることなきにあらざれども、こは千百人中の一にして、はなはだ稀有のこと」「狂気の沙汰」と論じている[71]。

私生活

文久元年(1861年)、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女・錦と結婚し、四男五女の9人の子どもをもうけた。松山棟庵によると、諭吉は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという[75]。

晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。医学者の土屋雅春は、諭吉の死因の一つに「居合のやりすぎ」を挙げている[76]。晩年まで一日千本以上抜いて居合日記をつけており、これでは逆に健康を害すると分析されている。

期待していた水戸藩が維新前に水戸学の立原翠軒派と藤田幽谷派の内ゲバや天狗党で分裂してしまったことを例に挙げ、学問や政治の宗教化を厳しく批判し、その他宗教的なものは一切認めないと論じた[90]。

イギリスの政治体制を最も理想的な政治体制と考えており、日本の最終到着点もそこであると考えていた。イギリス議会人の代表的人物ウィリアム・グラッドストンを深く尊敬していた[95]。諭吉はしばしば、伊藤博文ら保守派が尊敬するビスマルクを「官憲主義」、グラッドストンを「民主主義」として対比して論じた[96]。1897年にグラッドストンが死去した際には『時事新報』にその死を悼む文章を載せている。その中で諭吉は、グラッドストン翁がアイルランド自治を訴えたり、アメリカ人を友視したりしたのは、翁の目的がアングロ・サクソン人の喜びにあったためであるとし、さらに深くその意義を考えると翁の真の目的は文明進歩の一点だったとする。世界に文明を広めて人類の幸福を増す大事業はアングロサクソン人種の力によるところが最も大きいと考えていた翁は、文明進歩のためにアングロサクソン人に重きをなしていたと考えられるからというのがその理由であった。また翁がヴィクトリア女王から爵位を受けとらず生涯平民で通したことも「高節清操」と高く評価した[95]。

諭吉の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。

晩年の自伝である『福翁自伝』において、適塾の有様について「塾風は不規則と云(い)わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉、丸で物事に無頓着(むとんじやく)。その無頓着の極(きょく)は世間で云うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止めない」と記している[101]。

上記の通り家柄がものをいう封建制度を「親の敵(かたき)」と激しく嫌悪した。その怒りの矛先は幕府だけでなく、依然として中華思想からなる冊封体制を維持していた清や李氏朝鮮の支配層にも向けられた。一方で、榎本や海舟のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「オポチュニスト」と徹底的に批判する一面もある(『瘠我慢の説』)。

諭吉は幼少期より酒を嗜み、月代を剃るのを嫌がるのを母親が酒を飲ますことを条件に我慢させたという[103]。適塾時代に禁酒を試みたが、親友の丹後宮津藩士・高橋順益から、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて遣るぞ。所が凡そ人間の習慣は、仮令(たと)い悪い事でも頓に禁ずることは宜しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草(タバコ)を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬ」と煙草を勧められ喫煙者になってしまい、禁酒にも失敗して「一箇月の大馬鹿をして酒と烟草と両刀遣いに成り果て」る結果に終わった[104]。三田の酒屋津國屋をひいきの店とし、自ら赴き酒を購入することもあった。

宗教については淡白で、晩年の自伝『福翁自伝』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有(ありがた)いだのということは一寸(ちよい)ともない。卜筮呪詛(うらないまじない)一切不信仰で、狐狸(きつねたぬき)が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている[106]。

あるとき酒に酔って素っ裸で塾内をうろついていると緒方夫人とばったり会ってしまった。このときのことをのちに「緒方先生の奥様の前に裸で出てしまった時の恥ずかしさは40年経っても忘れられない」と回想している。これがきっかけで「酒で失敗するのはもう御免だ」と一時的に酒を止め、10日ほどは我慢するが、同期生から「たとえ体に悪いことでも急に止めるのは良くない」と酒の代わりに煙草を薦められる。最初に吸ったときはむせてしまったが、数日で立派なヘビースモーカーとなった。結局酒も止められず、いつしか元の大酒飲みに戻っていたという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%85%AD%E7%A4%BE

明六社

1922年 – 現在の新潟県糸魚川市勝山地区で雪崩が発生。列車が巻き込まれ死者90人、負傷者40名。(北陸線列車雪崩直撃事故)

1996年 – 中国雲南省麗江でM7.0の麗江地震発生。死者309人、負傷者17,057人(内重傷者4,070人)、家を失った人18万人の被害[4]。

1998年 – アメリカ海兵隊のパイロットがイタリア・カヴァレーゼのスキー場でリフトのケーブルをくぐりぬけて飛行しようとし、ケーブルを切断、20人を死亡させる。(チェルミス・ロープウェイ切断事件

チェルミス・ロープウェイ切断事件(チェルミス・ロープウェイせつだんじけん)は、1998年2月3日にイタリアのチェルミス山(英語版)で発生した、アメリカ海兵隊航空機によるロープウェイのケーブル切断事件。

トレントの北東40キロメートルに位置し、スキー・リゾート地として知られる山村カヴァレーゼが事件の舞台となった。ロープウェイのゴンドラに乗っていた20名全員が死亡した。

航空機のパイロットである海兵隊のリチャード・J・アシュビー大尉と、その航法士ジョゼフ・シュワイツァー大尉は軍法会議にかけられた。過失致死の罪については無罪となったものの、機に搭載されていたビデオテープを破棄していたことから司法妨害および将校及び紳士に相応しくない行為について有罪となり海兵隊を不名誉除隊となった。

事件および一回目の裁判における無罪評決はイタリア国民の感情を刺激し、アメリカ合衆国とイタリア間の外交問題に発展した[1]。

類似の事故

1976年3月9日には同じロープウェイにおいて支持ケーブルが切れ、子供15人を含む42人が死亡する事故が発生している。

1961年8月にフランスにおいても類似の事故が発生している。この事故ではフランス空軍機がエギーユ・デュ・ミディからモンブランをつないでいたケーブルを切断し、6人が死亡した[3]。

チャットgpt先生の2月3日のエッセイ

2月3日の出来事

2月3日は、歴史的な出来事が多く起きた日です。まず、日本の歴史においては、福沢諭吉が亡くなった日でもあります。福沢諭吉は、明治時代の思想家であり、慶應義塾を創設した人物として知られています。彼は幅広い分野での活動を行い、その業績から「明治六大教育家」と呼ばれています。また、諭吉の思想や主張は多岐にわたり、彼の男女平等の考え方や教育に対する独自の見解は、当時の社会に大きな影響を与えました。

諭吉はまた、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの影響を受け、女性解放思想を早くから日本に紹介しました。その中で、男女平等や女性の教育に対する主張が際立っています。しかし、一方で彼の農村の女子教育に対する否定的な意見も存在し、その複雑な人物像が浮かび上がります。

また、2月3日には悲劇的な出来事もありました。1922年には、新潟県糸魚川市勝山地区で雪崩が発生し、列車が巻き込まれて死者90人、負傷者40名が出るという北陸線列車雪崩直撃事故が発生しました。この事故は、自然災害が人々の生活に与える影響を痛感させる出来事となりました。

そして、1998年の2月3日には、アメリカ海兵隊のパイロットがイタリアのスキー場でロープウェイのケーブルを切断し、20人が死亡するという事件が発生しました。この事件はアメリカとイタリアの外交問題を引き起こし、国際的な注目を集めました。

これらの出来事から見えてくるのは、歴史は様々な側面を持ち、喜びや悲劇が入り混じっているということです。日々の出来事から学び、進化していく社会の中で、歴史は私たちに様々な教訓を与えてくれるのです。

このエッセイでは、2月3日に起きた福沢諭吉の亡くなりや雪崩事故、ロープウェイのケーブル切断事件など、歴史的な出来事を取り上げ、その日が持つ複雑な側面を描いています。