kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月20日 1582天正遣欧使節出航、1933小林多喜二の虐殺、ほかwikipedia天正遣欧使節

2月20日

20240220火曜日 旧暦1月11日 大安 甲寅きのえとら コウイン 月齢 10.2

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2月20日の出来事

1582年(天正10年1月28日) – 天正遣欧少年使節が長崎港を出港。

1933年 – 築地署事件: プロレタリア作家・小林多喜二が特高警察の拷問により築地警察署で死亡[4]。

1968年 – 金嬉老事件: 金嬉老が借金返済を求めた暴力団員2人を射殺。翌日、寸又峡の温泉旅館で経営者、宿泊客ら13人を人質に籠城した。2月24日、金は記者に変装した警察官に取り押さえられ、逮捕された。

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1582年(天正10年1月28日) – 天正遣欧少年使節が長崎港を出港。

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した。豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれ

使節

伊東マンショ(主席正使) – 大友義鎮(宗麟)の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。

千々石ミゲル(正使) – 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。

中浦ジュリアン(副使) – 後年、司祭に叙階。1568年2月8日ころ(永禄11年正月)に肥前国中浦城主小佐々純吉の息子・小佐々甚吾として生誕。1633年、長崎で穴吊るしの刑により殉教。2008年、ローマ教皇により福者に列せられる。

原マルチノ(副使) – 後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。

1933年 – 築地署事件: プロレタリア作家・小林多喜二が特高警察の拷問により築地警察署で死亡[4]。

小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12月1日[注釈 1] – 1933年(昭和8年)2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な小説家、共産主義者、社会主義者、政治運動家。日本プロレタリア作家同盟書記長。日本共産党党員。

4歳のとき、一家で北海道の小樽に移住、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に学ぶ。小樽で銀行に勤めてから、葉山嘉樹、ゴーリキーなどの作品を通じてプロレタリア作家の自覚を持ち、小樽の労働運動にも関わり始めた。

1928年、共産党関係者大検挙(三・一五事件)の小樽を題材にした『一九二八年三月十五日』をプロレタリア文学の機関誌「戦旗」に載せ、翌年には『蟹工船』を発表して評価を得た。また、大農場の小作人と小樽の労働者の共同闘争を描いた『不在地主』(1929年)が原因で銀行を解雇された。その後は投獄と保釈をくりかえし、1931年、非合法の共産党に正式に入党。しかし1933年、警察に逮捕・虐殺された。

1924年に小樽高商を卒業し[1][3]、北海道拓殖銀行(拓銀)に入行して同行小樽支店に勤務し、そのころ5歳年下の恋人田口タキ[注釈 5]に出会う。タキは父親が残した多額の借金により13歳の頃より酌婦として飲み屋に売られていた。多喜二は友人からの借金でタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取った。多喜二の家族も暖かく迎えたが、タキは身分の差に悩み7ヵ月後に家出をする[6]。1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察(特高警察)による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となったともいわれる。

最期

1933年2月20日、多喜二は日本共産青年同盟中央委員会に潜入していた特別高等警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れた。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していた。多喜二はそこから逃走を図ったが、逮捕された。

同日、中央区築地の同じ場所に所在する築地警察署内においての取調べについては、今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を手塚英孝が『小林多喜二』で紹介している。それによると、警視庁特高係長中川成夫(警部。のちに滝野川区長、東映取締役)の指揮の下に多喜二を寒中丸裸にして、まず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかった[11]とある。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に多喜二の死亡が確認・記録された。

警察発表にもとづく当時の新聞報道:

2月20日正午頃別の共産党員1名と赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中だった多喜二は、築地署小林特高課員に追跡され約20分にわたって逃げ回り、溜池の電車通りで格闘の上取押さえられそのまま築地署に連行された[12]。最初は小林多喜二であることを頑強に否認していたが、同署水谷特高主任が取調べた結果自白した[12]。築地署長は、「短時間の調べでは自供しないと判断して外部からの材料を集めてから取調べようと一旦5時半留置場に入れたが間もなく苦悶を始め7時半にはほとんど重体になったので前田病院に入院させる処置を取り、築地署としては何の手落ちもなかった」との説明を行っている[13]。

多喜二死亡時の警視庁特高部長は安倍源基で、その部下であった中川、特高課長の毛利基(戦後、埼玉県警幹部)、警部山県為三の3人が直接手を下したとも言われている。しかし、毛利、山県が取調に立ちあったという文献はない。

多喜二死亡時の警視庁特高部長は安倍源基で、その部下であった中川、特高課長の毛利基(戦後、埼玉県警幹部)、警部山県為三の3人が直接手を下したとも言われている。しかし、毛利、山県が取調に立ちあったという文献はない。

警察当局は翌21日に「心臓麻痺による死」と発表したが、翌日遺族に返された多喜二の遺体は全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。この詳細について、小林の活動仲間で「全日本無産者芸術連盟」の機関紙「戦旗」の編集にも携わった詩人の壷井繁治は、戦後、東京12チャンネル(現:テレビ東京)の番組のインタビューで語っている。

知人の語る小林の死体の状況:

「前歯は折れてる、首には細引きの跡、左のコメカミにはね、何でなぐったか十円硬貨ぐらいの傷あとがある。それから裸にしたところがね、身体中傷だらけで、オマケに腹の下から腿全体が紫色にふくれあがって、それがね、ふつうの人間の倍くらいあるんですよ。よく見ると、その両腿もには、釘か錐を打ちこんだような穴の跡が十五、六もあって、そこは皮が破けて青黒い肉がむきだしているんですよ。それで立会いの安田徳太郎博士が『これでは腸も膀胱も破けてますよ。腹の中は出血でいっぱいでしょう』と言ったんです。で、睾丸も、陰茎もね、普通の人の三倍くらい脹れあがって、やっぱり内出血で紫色になってるんです。指もね、人差し指が逆にヘシ折られてね、指の背中が手の甲へつくんですよ。」[14][15](他にも、作家の手塚英孝が『小林多喜二』に多くの築地署留置場での目撃者や遺体を見た者らの証言を詳細に記録、作家の手塚英孝が『小林多喜二』に遺体の凄惨さを描写詳細に記録している[16]。)

周りの者が着物を着せてから、母・セキが出てきた。セキは多喜二の遺体を抱きしめて、「息子は心臓がよかった、心臓マヒで死んだなんてウソだ[14]」「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか」と叫んだ[17]。

結末:

周囲の者らは証拠とするため死体の解剖を東大・慶応・慈恵医大の病院に頼んだが、どの病院も特高警察を恐れて多喜二の遺体の解剖を断った[18][14]。

多喜二の死に顔は日本共産党の機関紙『赤旗』が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で、また岩松淳により鉛筆で描き残され[19][20]、千田是也がマスクを製作した[注釈 7][21]。

告別式は同年2月23日に杉並区馬橋の自宅で行われたが、付近には30-40人の警官らによる警戒本部が設けられ弔問客を排除あるいは検束していったため、数名の友人らと近親者のみの参加となった[18][22]。同年3月15日には有志による「労農大衆葬」が計画されたが、警視庁は開催を許可しなかった[23]。同日、新築地劇団の手によって「沼尻村」の上演も計画されていたが、こちらも当局により上演が禁止され、稽古中の俳優らも検束された[24]。

『中央公論』編集部は、多喜二から預かったまま掲載を保留していた『党生活者』の原稿を『転換時代』という仮題で『中央公論』(1933年4-5月号)に、遺作として発表した。全体の5分の1にわたり伏字が施された[25]。3月15日には築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。

1968年 – 金嬉老事件: 金嬉老が借金返済を求めた暴力団員2人を射殺。翌日、寸又峡の温泉旅館で経営者、宿泊客ら13人を人質に籠城した。2月24日、金は記者に変装した警察官に取り押さえられ、逮捕された。

チャットgpt先生の2月20日のエッセイ

2月20日は、日本の歴史において様々な出来事が起きた日です。それぞれの出来事には異なる背景や意味がありますが、その中でも特に注目すべき出来事をいくつか挙げてみましょう。

まず、1582年に天正遣欧少年使節が長崎港を出港したことは、日本とヨーロッパの間に文化や技術の交流が始まった重要な出来事です。彼らの使節団は日本の文化や技術をヨーロッパに紹介し、同時にヨーロッパの文化や技術を日本にもたらしました。特に、持ち帰られたグーテンベルク印刷機は日本での活版印刷の始まりを示すものであり、日本の出版文化に大きな影響を与えました。

また、1933年には築地署事件が発生しました。この事件は、プロレタリア作家である小林多喜二が特高警察の拷問によって築地警察署で死亡した事件です。小林多喜二の死は当時の日本の政治情勢や文化に大きな波紋を呼びました。彼の死は、特高警察の暴力や弾圧に対する批判を浴びることとなり、日本の文学や政治における自由と正義の追求に影響を与えました。

さらに、1968年には金嬉老事件が起きました。この事件では、金嬉老が借金返済を求めた暴力団員を射殺し、その後寸又峡の温泉旅館で人質を取るという事件が発生しました。この事件は暴力団や犯罪組織との闘いや、法と秩序の問題についての議論を巻き起こしました。

これらの出来事は、日本の歴史や文化、社会における重要な節目を示しています。それぞれの出来事が持つ意味や影響は多岐にわたりますが、過去を振り返ることで現在の日本社会や文化を理解する上で重要な示唆を与えています。