2月17日
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2月17日の出来事
1600年 – ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられる。
1937年 – 日蓮宗の殉教的宗徒「日蓮会殉教衆青年党」(死のう団)の5人が皇居・国会議事堂前などで切腹を図る。(死のう団事件)
1955年 – 横浜市の聖母の園養老院が漏電で全焼。98人焼死。(聖母の園養老院火災)
1972年 – 群馬県妙義山中で連合赤軍幹部の森恒夫と永田洋子を逮捕。
1978年 – 北海道幌加内町母子里の北海道大学演習林で最低気温氷点下41.2℃を記録(非公式記録をも含めた日本の最低気温を記録。天使の囁き記念日)。
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1600年 – ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられる。
1937年 – 日蓮宗の殉教的宗徒「日蓮会殉教衆青年党」(死のう団)の5人が皇居・国会議事堂前などで切腹を図る。(死のう団事件)
死のう団事件(しのうだんじけん)は、1930年代に法華教系統の新宗教「日蓮会」の青年部「日蓮会殉教衆青年党」(通称「死のう団」)を巡って発生した、一連の騒擾事件。 1933年7月2日に、集団で「死のう死のう」と叫びながら行進して逮捕されたことに端を発し、当初は「死のう団事件」は、この事件のことを指していた。しかし約3年半のちの1937年2月17日、彼らのうち5名が国会議事堂など5ヶ所で割腹を図る事件が発生するに及び、一層大きな衝撃を社会に与えた。そのため、この割腹事件をもって「死のう団事件」と称することが多い。
なお、事件当時の漢字、仮名表記に従えば「死なう團事件」となるが、本項では常用漢字、現代仮名遣いで「死のう団事件」とする(日本史上の有名な事件をまとめた書籍の一部には「死なう団」の表記もある)。
「死のう団」結成
1933年1月、日蓮会の新年会に出席した若者らは、このままではいけないと口々に言い合った。現状への不満を募らせた彼らの出した結論は、「青年部の結成」であった。江川に忠実で、かつ先鋭的であった若年層の面々は、結成が決まると直ちに結盟書を作成し、これに血判を押した。
彼らが行動の柱に据えた「不惜身命(ふしゃくしんみょう。理想実現のために身命を惜しまず。本来は仏教から)」の理念は、しかし時を経るごとに本義から乖離し、死ぬこと自体を目的としたものに変質していく。のちの悲劇の前兆であった。
宣言
我が祖国の為めに、死なう!!!
我が主義の為めに、死なう!!!
我が宗教の為めに、死なう!!!
我が盟主の為めに、死なう!!!
我が同志の為めに、死なう!!! 日蓮会青年部 (原文ママ)
拷問
だが、取調べは彼らが考えるほど甘くはなかった。折しも血盟団事件や五・一五事件が世間を賑わせていた。葉山署から報告を受けた神奈川県警は、特別高等警察課の全課員に非常呼集をかけ、県内各署の警官を動員して大々的な捜査と非常警戒を行った。7月3日には、日蓮会館を始めとする20箇所を家宅捜索し、書類やメモを押収した。
7月4日、江川が蒲田署に出頭。取り調べを行う警官に対して、江川は日蓮主義について諄々と説き、彼らの活動について理解させようと試みた。それは取り調べに答えるというより、不信心者に説法を行うという風情であった。
いくら取り調べを行っても、党員らは「知らぬ」と繰り返すばかりで、犯罪に繋がる証拠は挙がらなかったため、苛烈な拷問が始まった。殴る蹴るの暴行や、火の点いた煙草を全身に押し当て、あるいは力任せに髪を引っ張っては振り回す、といった激しい拷問が行われた。
この拷問に耐えかねた3人の党員が、転向を誓約して釈放された。
割腹
割腹した団員
1937年2月17日正午過ぎ、宮城前広場に、1人の男が現れた。「死のう」と書かれたビラを大量に撒いた32歳のその男は、突如持っていた短刀で腹を掻き切り、通行人に発見されて日比谷病院に搬送された。
同じ頃、竣工したばかりの新国会議事堂の前にタクシーが停まった。車から降りた2人の男は二手に別れ、1人は首相官邸に向かった。もう1人は議事堂の周りを歩き始めたが、突如警備の目を盗んで鉄柵を乗り越え、正面玄関に向かって走り出した。男はビラを撒きながら「死のう」と繰り返し絶叫した。気付いた警官や憲兵が駆け寄ってくると、男は立ち止まり、取り出した短刀を己の腹に突き立てた。
首相官邸を目指した男は、目標が見付からず焦りの色を見せたが、やがて意を決してある屋敷に入り、玄関脇で割腹した。傷を負いながらも満足気な顔をしていた男は、この屋敷が外務次官邸であったことを病院で聞かされると、無念の表情を浮かべた。
また12時45分頃、警視庁正面玄関ホール(当時の庁舎は霞ヶ関にあった)に現れた22歳の党員が、その場に正座して割腹を図っているところを特別警備隊の巡査に取り押さえられた。2時20分頃には、27歳の党員が内務省3階の便所で腹を切り、発見した守衛によって医務室に運ばれた。
5名の男は、こうして都内5ヶ所でそれぞれ腹を切った。ただし、上述の通り彼らは江川に従い、刃先だけしか出ないよう細工を施した短刀で切腹したため、いずれも致命傷は負わなかった。新聞は、再び大きな騒ぎを起こした「死のう団」を好奇の目で、あるいは気味悪げに報じた。
同日21時頃、2人の女が歌舞伎座4階の立見席から「死のう」と叫びながら大量のビラを撒いた。銀座の街頭でも女が、また品川駅に向かう電車の中でも男が、それぞれビラを撒いた。
警視庁は、直ちに日蓮会館の捜索に乗り出した。留守番役をしていた者やビラを撒いた者が身柄を拘束された。
3月3日、代議士の久山に付き添われて、江川が警視庁に出頭。「申し訳ございません」と頭を下げた江川に対し、特高部長は正業に勤しむよう諭して釈放した。
江川の死と日蓮会の終焉
生来病気がちであった江川は、肋膜炎や中耳炎を悪化させ、さらには結核を併発していた。日に日に衰弱する江川を、残った党員は東大病院に入院させた。彼らは無理をして治療費を捻出し、江川の療養生活を支えた。しかし病状は一向に良くなる気配はなく、医師も見放すほどであった。1938年3月15日、江川は「日蓮会館で死にたい」と、病の癒えぬまま退院。5日後の3月20日早朝に死去した。時に33歳であった。
これと前後して、信者らの「殉死」が相次いだ。まず、死にゆく江川を悲嘆した女が青酸カリを飲み自殺。また、江川の死去した日の午後、先に警視庁で切腹を企てた男が、江川の甥の家で青酸カリを飲んだ上、割腹して果てた。その5日後には、女性信者2名が猫要らず(殺鼠剤)を飲み、帝国女子医学薬学専門学校(現在の東邦大学)付属病院に運ばれたが死亡した。
同年6月10日、宮城前広場で腹を切った男が、千葉県竹岡(現在の千葉県富津市竹岡)に向かう定期船「湘南丸」に乗り込んだ。甲板に立った彼は、沖合4kmに差し掛かったところで突如「死のう」と叫び、ビラを撒きながら海中に没した。遺体は遂に発見されなかった(勿論生存していた可能性もある)。
同年7月、日蓮会館は取り壊され、「死のう団」は完全に壊滅した。
1955年 – 横浜市の聖母の園養老院が漏電で全焼。98人焼死。(聖母の園養老院火災)
聖母の園養老院火災(せいぼのそのようろういんかさい)とは、1955年2月17日、神奈川県横浜市戸塚区原宿町で起きた火災。
聖母の園
聖母の園養老院は、カトリック教会の社会福祉法人聖母会が、横浜市戸塚区原宿町の国道1号沿いにあった元海軍衛生学校の建物を駐留米軍から1946年3月に譲り受けて開設。その後、同年6月には神奈川県から正式に養護施設として認可を受けて運営していた。なお、同敷地内には養老院の他に修道院と聖堂も開設されていた。
収容者は、戦災などで身寄りをなくした60歳以上の老女たちで、老衰や病気でほとんど腰が立たず、生活保護を受けているものが多かった。当時143人の老女が老朽化した木造2階建ての、非常口も少なく火災対策もほとんどなされていない建物に収容されていた。
火事のその後
火災発生当時、院長の一杉満枝(当時43歳)はバチカンで開催されたカトリック教会の式典に日本代表として出席するためローマへ出張中で不在にしていた。そして2日後の2月19日に横浜港に帰国した時に初めてこの悲報を知り愕然としていたという。
死者数の内訳は入所者95名、職員2名、不明者2名の合計99名で、不明者2名は入所者の親族などが無届で泊まりに来ていたものと警察では推察したが現在に至るも2名の身元は不明のままである。なお、この死者数の特定には時間がかかり警察が発表したのは火災発生から4日後の2月21日になってからだった。
その他
犠牲者の1人に、イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニと親交があり、有名なオペラ「蝶々夫人」の制作に協力した功績のある大山綱介元イタリア公使夫人の大山久子(当時85歳)がいる。偶然にも2月17日は「蝶々夫人」が初演された日と同じ日(1904年)であり、中井英夫の『虚無への供物』では大山と養老院火災のエピソードが引用されている。
1972年 – 群馬県妙義山中で連合赤軍幹部の森恒夫と永田洋子を逮捕。
1978年 – 北海道幌加内町母子里の北海道大学演習林で最低気温氷点下41.2℃を記録(非公式記録をも含めた日本の最低気温を記録。天使の囁き記念日)。