kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日2月11日 55ネロが義弟ブリタンニクスを暗殺、1889森有礼暗殺される、ほか写真wikipediaネロ

2月11日

20240211日曜日 旧暦1月2日 友引 乙巳かのとみイッシ 建国記念の日 月齢 1.2

年末まであと323日

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2月11日の出来事

55年 – ローマ皇帝ネロが義弟ブリタンニクスを暗殺。

1889年 – 伊勢神宮で不敬な態度をとったと報じられた文部大臣森有礼が、国粋主義者の士族・西野文太郎に刺される。翌日死亡。

1950年 – 熊本県松尾村で路線バスが養殖池に転落。乗員乗客22人が死亡、重傷10人[1]。

1951年 – 居昌良民虐殺事件。

1969年 – 江藤小三郎(憂国烈士、江藤新平の曾孫にして衆議院議員江藤夏雄の三男)が国会議事堂前で遺書「覚醒書」を残して焼身自殺。

2018年 – サラトフ航空703便墜落事故が発生[3]。

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55年 – ローマ皇帝ネロが義弟ブリタンニクスを暗殺。

皇帝ネロ

セネカとネロ(左)。コルドバの像

ネロ

『The Remorse of the Emperor Nero after the Murder of his Mother』ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作(1878年)。母を謀殺した後の皇帝ネロ。

ネロの治世初期は、家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの教えや政治の補佐を受け、名君の誉れが高かった。しかし数年後にはネロとその周囲の人間(母と側近2人)との間に微妙な緊張関係が見られるようになり、それがネロの影響力に現れてくる。例えばネロが席につくとアグリッピナは隣に座っていたが、セネカがそれを諌めている。ネロの友人もアグリッピナに不信感を抱きネロ本人に忠告してくる。またネロは妻オクタウィアには不満で、解放奴隷のアクテ(英語版)を寵愛していたが、アグリッピナの命でネロから離されそうになったところ、セネカの助けで事無きを得るということもあった。

ネロが母親の干渉を疎ましく思うようになると、アグリッピナはかつて自らが退けたブリタンニクスに注目するようになる。この時点でもブリタンニクスは帝位継承権を有しており、その意味ではネロに代わりうる存在であった。また彼は成人式がせまっており、大人の仲間入り、すなわち帝位継承権を行使できる立場に近付いていた。そのブリタンニクスは成人の儀式目前で55年に急死した。タキトゥスによれば、ネロが毒殺したと言う。

ネロとアグリッピナは一触即発状態となったが、セネカやブッルスが仲裁に入り、事無きを得た。この頃、パエトゥスなる男がブッルスや母親の取り巻きの解放奴隷マルクス・アントニウス・パッラスがファウストゥス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの皇帝擁立を謀っていると告発したが、セネカが両名の弁護を担当し、パエトゥスは追放刑となった。しかし、カッシウス・ディオによれば、セネカもブッルスもこの事件以降、保身に努めるようになったと言う。そしてネロが妻オクタウィアと離縁し、ポッパエア・サビナと結婚しようとするとアグリッピナと対立することとなり、59年にはアグリッピナを殺害した。62年にブッルスが死去、同年セネカが再び横領の咎で告発される。ここに至ってセネカは引退をネロに申し出る。こうしてネロは妻オクタウィアと離縁、そしてポッパエア・サビナと結婚する。ポッパエアは既に結婚していたが、夫オト(後の皇帝)は離婚させられた上、ルシタニアに左遷された。その年の6月、オクタウィアが不倫の罪で自殺させられた。

1889年 – 伊勢神宮で不敬な態度をとったと報じられた文部大臣森有礼が、国粋主義者の士族・西野文太郎に刺される。翌日死亡。

森 有礼(もり ありのり、旧字体: 森 有禮、1847年8月23日(弘化4年7月13日) – 1889年(明治22年)2月12日)は、日本の政治家、外交官、思想家、教育者[1]。通称・助五郎、金之丞。栄典は贈正二位勲一等子爵。

第1次伊藤内閣で初代文部大臣となり、諸学校令制定により大日本帝国期の教育制度を確立した。また明六社、商法講習所(一橋大学の前身)の設立者、東京学士会院(日本学士院の前身)会員であり、明治六大教育家に数えられる。

当時の新聞が、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な欧化主義者であった森に人々から疑いの目が向けられる事となった。この事件は事実かどうかは定かではないが、この一件が森が暗殺される原因になった。木場貞長はのちにこの事件は事実無根であると書き残している。

1950年 – 熊本県松尾村で路線バスが養殖池に転落。乗員乗客22人が死亡、重傷10人[1]。

1951年 – 居昌良民虐殺事件

居昌事件(コチャンじけん)は、大韓民国において朝鮮戦争中の1951年に発生した事件。

2月9日から2月11日にかけて、慶尚南道居昌郡にある智異山で、韓国軍が共産主義パルチザンを殲滅するための堅壁清野作戦として、民間人719人を虐殺した[1][2][3][4]。

居昌良民虐殺事件とも呼ばれているほか[5][6]、2月7日に慶尚南道山清郡、咸陽郡で引き起こされた山清・咸陽虐殺事件とひと括りにして、居昌・山清・咸陽虐殺事件と呼称されることもある[7]。

居昌虐殺事件

山清・咸陽での堅壁清野作戦につづいて2月9日から2月11日にかけて韓国慶尚南道居昌郡にある智異山で崔德新師団長[7]指揮下の韓国陸軍第11師団(朝鮮語版)第9連隊第3大隊は吳益慶連隊長[7]の指揮により、居昌郡から一人残らず共匪パルチザンを殲滅するためとして住民719人(15歳以上334人と15歳未満385人)を虐殺した[3][2][4]。韓国軍は、韓国警察の家族までも除外することなく虐殺した[9]。

2月9日未明、第3大隊の部隊は作戦命令第6号によって居昌郡神院面で民家78世帯に放火し、住民80名余を殺戮した[1]。

2月10日、苽亭里、中楡里、大峴里、臥龍里の全民家を焼き払い、疎開させるという理由で住民を連行し、隊列に遅れた老人20名余を射殺し、女子ども100名余を大峴里担凉渓谷で虐殺し、その死体に小枝をかぶせて油をかけて焼却した[1]。10日午後、苽亭里、中楡里の全住民と大峴里、臥龍里の住民1000名を神院初等学校に強制的に収容した[1]。

2月11日朝、収容した住民を、軍警察、公務員、青年防衛隊の家族を警察に引き渡し、残った540名余の住民を珀珊渓谷に集め、機関銃などで射殺し、小枝をかぶせて火を放った[1]。待機させていた住民12名に死亡確認をさせたうち11名を射殺し、最後に残った1名が必死に命乞いをすると絶対に口外するなと撤収した[1]。

1969年 – 江藤小三郎(憂国烈士、江藤新平の曾孫にして衆議院議員江藤夏雄の三男)が国会議事堂前で遺書「覚醒書」を残して焼身自殺。

江藤 小三郎(えとう こさぶろう、1945年(昭和20年) – 1969年(昭和44年)2月11日)は、日本の思想家、社会運動家、陸上自衛官。陸上自衛隊生徒(7期)修了。

1969年(昭和44年)2月11日の建国記念の日に、国会議事堂前にてガソリンをかぶって焼身自決した行為が、翌年の三島由紀夫の自決(三島事件)の決意に少なからず影響を与え[1]、のちの新右翼・民族派運動にも影響を及ぼした。

「覚醒書」

混沌たる世界、暗雲立籠む皇国。自然科学におかされ地獄道に落ちし民族。

これを救う道、一事に極む。これ大自然に沿いし無私の心なり。無私の心、真我に通ず。真我集へば破るる事なし。国の大事、すべて無私より始まる。

ここに気付き行えばあとは康し。

一皇万民、天皇の許に真我が集う時、皇国毅然として興る。皇子皇民、一丸となり熱鉄玉を呑む勢いにて行えば世界万民を救う道をなすこと難くなし。

我、神命により不生不滅の生を得む。ここに肉体を放棄し永遠の生命を得む。

我「建国の日」に魂魄となりて、民族の危機にあたるものなり。

昭和四十四年二月十一日

2018年 – サラトフ航空703便墜落事故が発生[3]。

サラトフ航空703便墜落事故(サラトフこうくう703びんついらくじこ)は、2018年2月11日にドモジェドヴォ空港発オルスク空港行きの国内旅客便サラトフ航空703便(機材:An-148-100B)が離陸直後に墜落した事故である。

乗客65人と乗員6人の全員が死亡した。本件はラミア航空2933便墜落事故(2016年11月28日)以来の大型ジェット旅客機による旅客の死亡事故である[1]。

チャットgpt先生の2月11日のエッセイ

2月11日の出来事を見ると、様々な時代の出来事が含まれています。それぞれの出来事がその時代の背景や文脈を反映しており、歴史の中で重要な意味を持っています。

まず、55年にはローマ皇帝ネロが義弟ブリタンニクスを暗殺した出来事があります。この事件は、ネロの政治的権力の奪取とその後の暴政につながる重要な出来事でした。

1889年には、日本の政治家である森有礼が伊勢神宮での不敬な態度を理由に暗殺されたことが記録されています。森有礼は明治時代における重要な教育改革の立案者であり、その死は当時の政治的な状況を反映しています。

1950年には、日本の熊本県で路線バスが養殖池に転落し、多数の死傷者が出た事故が発生しました。これは交通事故の中でも特に重大な事件の一つです。

そして、1969年には日本の社会運動家である江藤小三郎が国会議事堂前で焼身自殺を図った出来事があります。彼の行為は当時の社会に対する強い抗議や意識の象徴として、後の時代にも影響を与えました。

最後に、2018年にはロシアのサラトフ航空703便が墜落し、乗員乗客全員が死亡した事故が発生しました。このような航空事故は技術や安全性に対する問題を示唆するものとして、世界中で注目を集めます。

これらの出来事は、歴史の中で重要な位置を占めるものであり、その背景や影響を理解することは、社会や文化を理解する上で重要です。