kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日12月31日1600東インド会社設立、1935寺田虎彦逝去ほか 写真wikipedia東インド会社社旗 

12月31日

20231231日曜日 旧暦11月19日 大安 癸亥みずのとい キガイ 月齢 18.1

12月の末日、1年の末日(大晦日)である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8831%E6%97%A5

12月31日の出来事

1600年 – イギリス東インド会社設立[1]。

1942年 – 香川県苗羽村(現:小豆島町)柚の浜沖合で内海汽船所属の「錦丸」(42トン)が転覆。死者・行方不明者72人(推定)[3]。

2014年 – 2014年上海外灘雑踏事故: 中華人民共和国・上海市の外灘で年越しを迎えようとした市民が、広場の階段で転倒し群集事故に。36人が死亡、47人が負傷した。

1935年 – 寺田寅彦、物理学者(* 1878年)逝去57歳

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1600年 – イギリス東インド会社設立[1]。

イギリス東インド会社(イギリスひがしインドがいしゃ、英: East India Company(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行およびインドの商業資本から貸付を受けながら、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。

当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。セポイの乱(インド大反乱)の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し、1858年に解散した。

概説

厳密には「イギリス東インド会社」は単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。

初期には東インド(インドネシア)の香辛料貿易をめざしてジャワ島のバンテンやインドのスーラトに拠点を置き、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸、台湾の安平にも商館を設けた。アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに移した。

インドにおける会社の大拠点はベンガルのカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。フランス東インド会社と抗争し、1757年にプラッシーの戦いで、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破し、インドの覇権を確立した。以後単なる商事会社のみならず、インド全域における行政機構としての性格をも帯びるようになった。

ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出して海峡植民地を設立、ビルマとも戦った。18世紀以降、中国の広東貿易にも参入してアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。しかし、同社による統治の失敗からインド大反乱を引き起こし、会社軍は反乱をようやく鎮圧したものの、インドの行政権をヴィクトリア女王に譲渡し、1874年に解散した。

1942年 – 香川県苗羽村(現:小豆島町)柚の浜沖合で内海汽船所属の「錦丸」(42トン)が転覆。死者・行方不明者72人(推定)[3]。

2014年 – 2014年上海外灘雑踏事故: 中華人民共和国・上海市の外灘で年越しを迎えようとした市民が、広場の階段で転倒し群集事故に。36人が死亡、47人が負傷した。

1935年 – 寺田寅彦、物理学者(* 1878年)逝去57歳

寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月28日 – 1935年(昭和10年)12月31日)は、日本の物理学者、随筆家、俳人。吉村 冬彦(1922年から使用)、寅日子、牛頓(ニュートン)、藪柑子(やぶこうじ)の筆名でも知られる。高知県出身(出生地は東京市)。

東大物理学科卒。熊本の五高時代、物理学者田丸卓郎と、夏目漱石と出会い、終生この2人を師と仰いだ。東大入学後、写生文など小品を発表。以後物理学の研究と並行して吉村冬彦の名で随筆を書いた。随筆集に『冬彦集』(1923年)など。

父親である寺田利正は土佐の郷士宇賀喜久馬の実兄で[8]、井口村刃傷事件で弟の切腹の際、介錯を務めたとされている[8]。 実の弟の首をわが手で刎ねたことがトラウマとなり、利正はしばらく精神を病み、土佐藩下士による討幕には参加せず、学問により社会を変えようと考えるようになり、そのことが寅彦が軍人より学者になることを選んだ伏線となっていると言われている。

著書

現在、作品は著作権が消滅し、パブリックドメインとなっている。

チャットgpt先生の12月31日のエッセイ

12月31日の歴史的出来事

1600年 – イギリス東インド会社設立:

この日、イギリス東インド会社が設立されました。この会社は、アジア貿易を目的に設立され、アジア各地での植民地経営や交易に従事しました。初期は香辛料貿易を主業務としていましたが、次第にインドにおける行政機構を築き上げ、植民地統治機関としての性格を帯びていきました。インド大反乱の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し、1858年に解散しました。

1942年 – 錦丸転覆事故:

香川県苗羽村(現:小豆島町)柚の浜沖合で、内海汽船所属の「錦丸」が転覆し、死者・行方不明者72人が発生しました。この事故は太平洋戦争中の出来事であり、戦乱の中での災害の一例となりました。

2014年 – 上海外灘雑踏事故:

中華人民共和国・上海市の外灘で、年越しを迎えようとした市民が広場の階段で転倒し、群集事故が発生。36人が死亡し、47人が負傷しました。この事故は大規模な集まりでの安全対策の必要性を浮き彫りにした痛ましい出来事でした。

1935年 – 寺田寅彦逝去:

寺田寅彦は日本の物理学者、随筆家、俳人として知られ、多くの著作を残しました。彼は東京で生まれ、東大物理学科を卒業しました。物理学の研究と並行して、吉村冬彦の名で随筆も執筆しました。彼は師である物理学者田丸卓郎と夏目漱石に終生敬意を払い、日本の文化・学問への貢献を果たしました。

寺田寅彦: 学問と文学の架け橋

寺田寅彦は、日本の近代科学の先駆者の一人でありながら、その豊かな文学的才能でも知られています。彼は物理学者として東大を卒業し、学問において深い理解を示しました。特に、師である田丸卓郎と夏目漱石との交流が、彼の知識の広がりを促しました。

寺田は吉村冬彦の筆名で随筆も執筆し、その中で日本の文学・文化に対する独自の見解を示しました。彼の作品は現在、著作権が消滅しており、パブリックドメインとなっていますが、その思索と洞察力は今もなお多くの人々に影響を与えています。

また、彼の生い立ちには家族の歴史との深い関わりがあります。父親が土佐の郷士宇賀喜久馬の実兄であり、井口村刃傷事件で実弟の切腹の際、介錯を務めたとされています。この経験が、寺田が学者としての道を選ぶ一因となったと考えられています。

彼の業績と人間性は、日本の歴史と文学において重要な位置を占めています。その偉大なる足跡は、学問と文学の架け橋として、今なお我々に示唆を与えています。