kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日12月28日 1890ウンデットニ-のスー族虐殺、1908メッシーナ地震、ほか 写真wikipedia犠牲者遺体の埋葬

12月28日

20231228木曜日 旧暦11月16日 友引 庚申かのえさる コウシン 月齢 15.1

年末まであと3日

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8828%E6%97%A5

12月28日の出来事

1890年 – ウンデット・ニーの虐殺 スー族インディアンのバンドに対して、米軍の第7騎兵連隊が行った民族浄化。

1908年 – メッシーナ地震。地震と津波で死者推定8万2000人。

1978年 – 田宮二郎[20]、俳優(* 1935年)死去。

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1890年 – ウンデット・ニーの虐殺 スー族インディアンのバンドに対して、米軍の第7騎兵連隊が行った民族浄化。

ウンデット・ニーの虐殺(ウンデット・ニーのぎゃくさつ、英:Wounded Knee Massacre)は、1890年12月29日、アメリカ合衆国サウスダコタ州ウーンデッド・ニーで、ミネコンジュー族ほかのスー族インディアンのバンド(一団、一行)に対して、米軍の第7騎兵隊が行った民族浄化。

このビッグ・フット・バンドの死者数に関しては、虐殺した側と虐殺された側とで証言が食い違っている。白人側は150人から多くて200人程度だとし、スー族側は約300人、またそれ以上の数[要追加記述]を挙げる向きもある。どちらにしろ、合衆国政府側は殺したスー族を上記のように扱って、その数を記録しなかったし、未だ十分な検証も行われていない[要出典]。

1908年 – メッシーナ地震。地震と津波で死者推定8万2000人。

メッシーナ地震[3](伊: Terremoto di Messina del 1908; 英: 1908 Messina earthquake)[注釈 1]は、1908年12月28日にイタリア南部のシチリア島からカラブリアにかけて発生した地震。モーメントマグニチュード(Mw)7.1の地震とそれに伴って生じた津波により、震源域となったメッシーナ海峡に面した大都市メッシーナとレッジョ・ディ・カラブリアは壊滅的な被害を受けた。犠牲者の数には諸説あり、8万2000人とも、10万人以上とも推定されている。近代ヨーロッパにおいて最悪の犠牲者を出した地震である。

1978年 – 田宮二郎[20]、俳優(* 1935年)死去。

田宮 二郎(たみや じろう、1935年〈昭和10年〉8月25日 – 1978年〈昭和53年〉12月28日)は、日本の俳優・司会者。

1960年代から1970年代にかけて俳優として活躍、代表作は映画『悪名』シリーズ、映画『白い巨塔』、テレビドラマ『高原へいらっしゃい』など。ほかにクイズ番組『クイズタイムショック』の司会としても長らく親しまれた(1969年1月9日 – 1978年9月28日)。

ドラマの終わりと共に

ドラマ撮影の間、9年に渡って司会を務めてきた『クイズタイムショック』を1978年(昭和53年)9月28日放送分をもって降板。病状が改善されないこともあり、自ら申し出たもので、司会者は山口崇へ引き継がれた。『白い巨塔』撮影終了後の田宮はすっかり虚脱状態になり、「財前五郎の後に、どんな役を演じたらいいかわからない」とプロデューサーの小林俊一に漏らすようになっていた。しかし、収録終了後、田宮は妻と温泉に行くなど回復しつつあるように見えた[3]。また、自殺3日前の12月25日には同ドラマの仕事仲間(田宮と花森ケイ子を演じた太地喜和子、プロデューサーの小林俊一)と3人で食事をしており、太地と小林はこの時の田宮の様子について、「かなりの上機嫌で、自殺する気配など全く感じられなかった」と語っている。また、同ドラマで柳原弘を演じた高橋長英も12月下旬に田宮と六本木へ飲みに行っているが、高橋によると、その時も田宮は機嫌が良く、自殺の兆候など全く見られなかったという。

衝撃の死

ドラマ『白い巨塔』の放映が残り2話となっていた1978年(昭和53年)12月28日の午前中、南青山のマンションに住む田宮の妻幸子から連絡を受けた田宮の付き人は、体調を崩した幸子の母親を病院に連れて行き、その後港区元麻布の田宮邸に戻ってから、そのことを田宮に報告した。生前の田宮の最期の言葉は、昼近くに付き人が聞いた「お腹が空いた」と言う言葉だった。付き人は田宮のために赤坂の洋食店で弁当を買って帰った。そして1階のキッチンでお茶を入れ、弁当と梅干しを載せたお盆を持って2階に上がり、寝室の前で声を掛けたが応答がなかった。しばらくしてドアを開けると田宮はベッドの上に仰向けで横たわり、米国パックマイヤー社製の上下2連式クレー射撃用散弾銃で自殺を遂げていた[12]。43歳だった。前年3月から躁鬱病で治療を受けており、過去3回「こうやれば死ねるんだ」と言って妻の前で猟銃自殺の真似をしたことがあり、9月の帰国直後妻に「もう死にたい」と漏らしていたことから警察はその動機を仕事の行き詰まりや病気を苦にしたものと推定した[13]。

付き人が発見した時、田宮は苦悶の表情を浮かべほとんど息もしておらず、股関節のあたりまで掛け布団が掛かっていて布団の下から銃口がのぞいていた。「部屋は血の海になっていた」という報道もあったが実際はそこまで血は流れておらず、田宮の体の左側に血が散っているという感じだったと言う。付き人は慌てて119番通報を、そして六本木にあった田宮企画の事務所に電話をした。寝室の隣室の書籍から遺書も見つかり警察は自殺と断定。田宮の死亡が確認されたのは13時50分頃で、マスコミには14時過ぎに田宮猟銃自殺の一報が入った。奇遇にもこの日は14時から日本テレビ(関東ローカル)で田宮が出演した映画『花と龍・第一部』(1973年公開、松竹)が放送されていたため、この映画の放送中に田宮自殺のニュース速報が流れることとなった。また、関西地区で14時から放送していた『スタジオ2時』(毎日放送制作、一部TBS系列局にもネット[注釈 5])では、鴨沂高校の同級生である落語家・初代森乃福郎の口から直接田宮の猟銃自殺が速報として伝えられたが、福郎はその場で悔しさのあまり原稿を叩きつけて号泣した。

その夜に仮通夜をすませ、翌29日の午前中に遺体の検視、その夜に通夜、そして30日に密葬が行われた。密葬後に行われた会見では、田宮の妻は約100名の報道陣を前に「田宮は哲学的な死を遂げたのだと思います」と語った[3]。年明けの1979年(昭和54年)1月12日に告別式を行った。

散弾銃の引き金を足の指で引いたとされているが、その当時、付き人いわく田宮の手元には銃はなかったはずだと言う。田宮は「銃は妻に取り上げられてどこにあるか分からない」といったことをもらしていて、自宅に置いてあった銃のケースに中身が入っている形跡もなかったと言う。葬儀数日後に形見分けがあり、付き人が田宮邸に手伝いに行った時、クローゼットの中から散弾が入った箱が見つかった。葬儀後しばらくして田宮の妻から付き人宛ての遺書だという物が手渡された。ごく普通の便箋に書いてあり、日付も田宮のサインもなく本人の筆跡かどうかも分からないが、《僕のセーターで気に入ったものがあったら、持っていって使ってください》と書かれていたという。

残された遺書は妻・息子達・二児の家庭教師・2人の弁護士・田宮企画顧問・奈良岡朋子・鬼沢慶一宛の8通あったとされている。そのうち妻へ宛てた遺書には、感謝の言葉や子どもたちを頼みますの言葉と共に、死の二ヶ月前から書きはじめた日記には、生きることの苦しみと死への恐怖が綴られ、「病で倒れたと思って(中略)諦めて欲しい」[14]、「四十三才まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上の倖せはないと自分で思う」[3] と書かれていた[13]。次男の田宮五郎へは当時から俳優を志していた彼に「俳優になるなら人間を知ってから」との言葉を生前に遺していた。

この田宮の自殺は、大きな衝撃をもって報道された。田宮も映画化された際に出演した小説『華麗なる一族』(山崎豊子原作)において万俵鉄平が猟銃自殺をする場面があり、山崎は田宮の死を電話で知るとすぐに「猟銃でしょう」と悟ったという。

この報道渦中での放映となったドラマ『白い巨塔』残り2話は皮肉にもさらなる注目を浴びることとなり、視聴率は上昇して最終話は31.4%を記録。結果多くの人々の記憶に残り、視聴率的にも大成功を収めることとなった。

チャットgpt先生の12月28日のエッセイ

12月28日は歴史的な出来事がいくつか起こった日であり、その中でも特に注目される出来事がいくつかあります。

1890年のこの日、アメリカ合衆国サウスダコタ州のウーンデッド・ニーで、ミネコンジュー族などのスー族インディアンのバンドに対して、米軍の第7騎兵隊が行ったウンデッド・ニーの虐殺が発生しました。これは民族浄化の一環として行われ、虐殺についての死者数には異なる報告がありますが、合衆国政府側は数を公式には認めず、未だに検証が不十分なままです。

1908年には、イタリア南部のシチリア島とカラブリアでメッシーナ地震が発生しました。地震とそれに伴う津波により、メッシーナとレッジョ・ディ・カラブリアの大都市が壊滅的な被害を受け、死者推定8万2000人以上が出ました。これは近代ヨーロッパにおいて最悪の犠牲者を出した地震として記憶されています。

1978年には、日本の俳優・司会者である田宮二郎がこの日に亡くなりました。彼は1960年代から1970年代にかけて俳優として活躍し、またクイズ番組『クイズタイムショック』の司会者としても親しまれました。田宮は躁鬱病の治療を受けながらも、仕事の行き詰まりや病気を苦にして自らの命を絶ちました。その死は大きな衝撃をもって報じられ、彼の遺作となったドラマ『白い巨塔』の最終話は視聴率的にも大成功を収めました。

これらの出来事からも分かるように、12月28日は歴史的な転機や悲劇の日として記憶されています。