12月27日
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12月27日の出来事
1923年 – 難波大助が裕仁親王(のちの昭和天皇)を狙撃した虎ノ門事件が発生。
1937年 – 満州重工業設立。
1939年 – トルコ東部エルズィンジャン県でマグニチュード7.8の地震(エルジンジャン地震)が発生。死者約3万3000人。
1971年 – 群馬県草津温泉スキー場の殺生河原で、スキーヤー6人が火山ガスにより中毒死[4]。
2007年 – パキスタン元首相ベーナズィール・ブットーが暗殺(英語版)される。
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1923年 – 難波大助が裕仁親王(のちの昭和天皇)を狙撃した虎ノ門事件が発生。
虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年(大正12年)12月27日に、東京府東京市麹町区虎ノ門外[1]で、皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた暗殺未遂事件[2]。
概要
1923年(大正12年)12月27日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇、当時22歳)が摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、貴族院へ向かうため御料車(自動車)に乗り、午前10時35分に皇居を発った[2]。
10時40分頃、皇太子の御召自動車は虎ノ門外(虎ノ門公園側)を通過中、芝区琴平町一番地西洋家具商あめりか屋前の群衆の中にいた難波大助が警戒線を突破して接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した[2]。銃弾は皇太子には命中しなかったが、車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長・入江為守(入江相政の父)が軽傷を負った[2]。自動車はそのまま目的地の貴族院に到着[2]。その時点で周囲が初めて入江の出血に気づいた。
なお、皇太子は事件後側近に「空砲だと思った」と平然と語ったとされている。皇太子は貴族院での開院式を終えて赤坂区の東宮御所に戻り、内閣総理大臣山本権兵衛・警視総監湯浅倉平や皇族・武官・見舞客に引見したあと、午後には参殿した秩父宮雍仁親王および高松宮宣仁親王とテニスをおこなった[2]。沼津御用邸滞在中の大正天皇と貞明皇后には、東宮大夫珍田捨巳が派遣された[2]。
一方、難波は「革命万歳」と叫んで自動車の後を追ったが、少し走ったところで、警察官や憲兵や群衆に囲まれてしまい、人々は難波を殴るやら蹴るやら踏むなど袋叩きにした[3]。犯人を逮捕したのは憲兵隊の者だった[4]。それから難波は麻縄で手足を縛られて警察の自動車に押し込められ、警視庁へ連行された。車内でも両脇の警察官から散々殴られ首を絞められたり、髪を引っ張られた[3]。
難波は逮捕された後、大逆罪で起訴され1924年(大正13年)11月13日に死刑判決を受けた[5]。11月14日、皇太子と皇太子妃〔後の香淳皇后〕は裁判判決文を受け取る[5]。11月15日、難波は死刑を執行された。
この事件の背景には、関東大震災後の社会不安や大杉事件・亀戸事件・王希天事件などの労働運動弾圧に対する社会主義者達の反発、不満があった[要出典]が、なぜそれが皇太子銃撃になったのかは不明のままである。
関東大震災後に頻発したテロ事件の一つで、震災復興を進めていた第2次山本内閣は、引責による総辞職を余儀なくされた。
その他
難波が犯行に使ったステッキ銃は、河上肇の「思い出断片」によると伊藤博文がイギリスのロンドンで手に入れて、人づてに難波作之進に渡ったものであった。難波は「気晴らしの狩猟のため」と称して持ちだした。
1937年 – 満州重工業設立。
満洲重工業開発株式会社(まんしゅうじゅうこうぎょうかいはつ)は、満洲重工業開発株式会社管理法により1937年(康徳4年)に設立され、ポツダム宣言の受諾に伴って閉鎖された満洲国の特殊法人・持株会社[1]。通称は満業(まんぎょう)。満洲国内の鉱工業を一元的に統制することを目的とし、日産コンツェルン総帥鮎川義介が初代総裁、高碕達之助(後に総裁)が副総裁を務めた。
1939年 – トルコ東部エルズィンジャン県でマグニチュード7.8の地震(エルジンジャン地震)が発生。死者約3万3000人。
エルジンジャン地震(エルジンジャンじしん)[2][3][4]は、1939年12月27日午前1時57分(現地時間)、トルコ東部エルズィンジャン県で発生したマグニチュード7.8の地震である。死者約3万3000人、負傷者約10万人、家屋損壊約11万7000件にのぼる、同国史上最も甚大な被害をもたらした震災であった[5][6]。
1971年 – 群馬県草津温泉スキー場の殺生河原で、スキーヤー6人が火山ガスにより中毒死[4]。
殺生河原(せっしょうかわら)は、群馬県草津町にある地名。草津白根山の南東山腹にある旧火口の一つ。無数に開いた噴気孔から硫化水素の蒸気が噴き出し、その周囲には硫黄の結晶もみられる[1]。ただし危険なため噴気が出ている場所は立ち入り禁止となっている[1]。夏場は荒涼とした風景を目当てに訪れる観光客に、冬場はスキーヤーなどに親しまれている。
1971年の死亡事故
1971年12月27日、中学生、高校生を含む6人のスキーパーティーが、硫化水素ガスにより中毒死する事故が発生した。当時は、草津温泉スキー場が振子沢スキー場として白根火山ロープウェイ山頂駅まで拡大しており、殺生河原一帯もゲレンデとして組み込まれていた。当時、自然状態の硫化水素の発生は特段の変化はなかったが、付近では人造温泉を製造するためにボーリングが行われており、パイプから漏れた高濃度の硫化水素と二酸化炭素が濃集したところにスキーヤーが突っ込んだことが原因と推測された。事故後、温泉開発会社は殺生河原で人工温泉の製造を取りやめたほか、草津町は殺生河原付近の硫化水素濃度の観測を強化した[3][4]。
2007年 – パキスタン元首相ベーナズィール・ブットーが暗殺(英語版)される。
シンド人(英語版)とクルド人の混血であり、ズルフィカール・アリー・ブットーの娘として生まれる。オックスフォード大学を卒業後、1977年に本国パキスタンに帰国。しかし、当時はジア=ウル・ハクによる軍事政権であったため、何回も投獄された。1984年に一度釈放され、その隙を見てイギリスに亡命した。1986年に帰国後、サッチャリズムに影響を受けた彼女はリベラルな綱領を人民党に適応させ、1988年に第12代首相となった。
しかし、グラム・イシャク・カーン率いる軍によって彼女は首相の座を降り、その後ナワーズ・シャリーフの汚職問題での弾劾後、1993年に再度首相に返り咲いた。2期目では、女性の権利向上や経済民営化を促進したが、彼女の家族の汚職や賄賂事件によって政権支持率が低迷し、1997年の選挙で敗北。1998年、ドバイへ亡命した。
米国の仲介とペルベズ・ムシャラフとの交渉も相まって、2007年に帰国。文民政府の再度樹立とイスラム主義者への暴力の反対を掲げた。12月27日、ラーワルピンディーでの政治集会の後、暗殺された。
評価
西欧では暗殺されたことも含めて、軍事政権や「イスラム原理主義」と戦った民主化の女性闘士と高く評価されており、2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユサフザイは、イスラム世界における初の女性首相であるベーナズィールに刺激を受けたと語っている[4]。しかし、このような評価に多くの専門家は異論を唱えている。
太田述正は、自身のブログで、ブットーは封建的で腐敗した汚職政治家と断じている[5]。また、その中で引用されている英国オブザーバー紙のイギリスの著名歴史学者ダリンプルの記事[6]でも、太田と同様の見方をしており、英語はよどみなく話せても母国語のはずのウルドゥ語やシンド語を正確に話せない「欧米向け政治家」と切り捨てた。
チャットgpt先生の12月27日のエッセイ
12月27日のエッセイ:
1923年の虎ノ門事件は、大正時代における重要な出来事でした。当時、社会不安や労働運動の弾圧に対する反発が高まっており、関東大震災後の混乱が影響していました。難波大助による皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)への狙撃未遂は、その時代の社会状況を反映しています。事件は、労働者や社会主義者の抗議の一環として起こったものであり、その後の逮捕と死刑判決が注目を浴びました。
1937年には、満州国内の鉱工業を統制する目的で設立された満洲重工業開発株式会社が発足しました。これは、当時の国際情勢や日本の満州進出に伴う動きの一環でした。また、同日に発生したエルジンジャン地震は、トルコでの大規模な自然災害であり、多くの犠牲者を出したことで知られています。
1971年の草津温泉スキー場での中毒死事故は、硫化水素ガスによるもので、スキーヤー6人が犠牲となりました。この事故は、自然環境と人間活動が絡み合い、悲劇を引き起こす例として警鐘を鳴らしました。
そして、2007年のベーナズィール・ブットー元首相の暗殺は、パキスタン政治の複雑な歴史の中で発生しました。彼女は民主主義の女性闘士として高く評価されていますが、同時にその政治的な経歴には賛否両論があります。彼女の死は、国内外で大きな衝撃を与え、パキスタンの政治情勢に深い影響を与えました。
これらの出来事は、歴史の中で重要な節目となっています。過去の出来事を振り返りながら、それぞれの背後に潜む社会や政治の複雑さを理解することは、現代社会においても重要です。