12月23日
20231223土曜日 旧暦11月11日 先負 乙卯きのとう、イツボウ 月齢 10.1
年末まであと8日
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12月23日の出来事
1912年 – 北海道の夕張炭鉱でガス爆発事故が発生、死者216人。同炭鉱では同年4月29日にも大勢の死者が出る事故が起きたばかりであった[1]。
1933年 – 日本共産党スパイ査問事件。日本共産党の宮本顕治らが中央委員の小畑達夫・大泉兼蔵を特高警察のスパイとして査問。数日のうちに小畑が死亡。
1948年 – 極東国際軍事裁判で死刑判決を受けたA級戦犯7名の絞首刑を執行。
2013年 – ミハイル・カラシニコフ、ロシア連邦(旧ソ連)の戦車長、銃器設計士(* 1919年)
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1912年 – 北海道の夕張炭鉱でガス爆発事故が発生、死者216人。同炭鉱では同年4月29日にも大勢の死者が出る事故が起きたばかりであった[1]。
1912年(明治45年/大正元年): 夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて4月29日と12月23日に爆発事故。それぞれ死者269人、216人[1]。
1933年 – 日本共産党スパイ査問事件。日本共産党の宮本顕治らが中央委員の小畑達夫・大泉兼蔵を特高警察のスパイとして査問。数日のうちに小畑が死亡。
日本共産党スパイ査問事件(にほんきょうさんとうスパイさもんじけん)[注釈 1][1]は、治安維持法下の1933年(昭和8年)に、東京府東京市(現東京都)で発生した日本共産党中央委員であった小畑達夫が死亡し、同じく中央委員であった大泉兼蔵らが負傷した事件である。
両者は「日本共産党にもぐりこんだ特別高等警察のスパイ」として査問とよばれるリンチにかけられたものだと裁判では認定された[2]。戦前の治安維持法の下で行われた裁判であったが、復権処置に対して例外規定の『監禁致死、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反』に該当していた為、本来ならば復権処置は行われないはずだが、GHQから司法省に対し指示があり、SCAPINやポツダム命令などに基づく超憲法的な特別な指示により、公民権回復の措置がとられ、検察により「復権証明書」が出された。
1948年 – 極東国際軍事裁判で死刑判決を受けたA級戦犯7名の絞首刑を執行。
刑の執行
7人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より巣鴨拘置所で行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった明仁親王(現在の上皇)の15歳の誕生日であった。これについては、作家の猪瀬直樹が自らの著書[134]で、皇太子に処刑の事実を常に思い起こさせるために選ばれた日付であると主張している。
その後、7人の遺体は横浜市の久保山斎場で米軍によって秘密裏に火葬され、その後、小型の軍用機で「横浜の東およそ30マイル(約48キロメートル)の地点の太平洋の上空」から洋上に散骨されたことが2021年6月、アメリカの国立公文書館に所蔵されていた米軍文書で明らかになっている[135][136]。また、遺灰の一部は米軍から回収した三文字正平弁護士らにより、静岡県熱海市の興亜観音に持ち込まれ一時安置の後、1960年に愛知県幡豆郡幡豆町(現:西尾市)にある三ヶ根山の殉国七士廟に祀られている[137]。
2013年 – ミハイル・カラシニコフ、ロシア連邦(旧ソ連)の戦車長、銃器設計士(* 1919年)
ミハイル・ティマフェービッチ・カラシニコフ(ロシア語: Михаи́л Тимофе́евич Кала́шников, ラテン文字転写: Mikhail Timofeyevich Kalashnikov, ロシア語発音: [kɐˈlaʂnʲɪkəf] ミハイール・ティマフィェーヴィチ・カラーシュニカフ、1919年11月10日 – 2013年12月23日[1][2])は、ロシアの軍人、銃器設計者、政治家。史上もっとも大量に製造され拡散しているアサルトライフルである「AK」(露: 7,62-мм автомат Калашникова, 7.62mmカラシニコフ突撃銃)の設計者であり、第二次世界大戦後の旧ソ連を代表する銃器設計者である。
AKはシンプルな設計で量産に向いていたこと、「どんなに乱暴に扱われても壊れない」「グリスが切れようが水に浸かろうが砂に埋めようが、まだ撃てる」と言われるほどの並外れた耐久性を備えていたことから、旧共産圏をはじめ、発展途上国でライセンス生産品やその改良型、コピー商品が横行した。2009年11月10日、カラシニコフは90歳の誕生日を迎え、モスクワのクレムリンにてメドベージェフ大統領からロシア連邦では最高位の勲章「ロシア連邦英雄」を授与されたが、式典の際、AKが犯罪、テロリズム、紛争で用いられることが多い事実について、「私は母国の領土を守るための武器をつくった。時に不適切な場所で使われたこともあるが、それは私の責任ではない。政治家の責任だ」と事実上の批判をしている[5][6]。中華人民共和国によるAKのコピー商品生産にも「中国はライセンス切れにもかかわらず、ロシア政府や関係者にことわりなくAKの生産を続けている。彼らは、買い手さえあればどこにでも売る。それがAKの評価を落とすことになる。開発者としてはきわめて不愉快なことだ」と嫌悪感を隠していない[7]。また、少女が軍人に扮している日本の漫画『魔法の海兵隊員ぴくせる☆まりたん』のために、刊行元のホビージャパンがサインを貰いに行った際には「子供に銃を持たせちゃいかんよ!」とコメントしている[8]。
ウォッカと時計
2004年、カラシニコフは「カラシニコフ」ブランドのウォッカを売り出した[9]。テレビインタビューでなぜウォッカに銃と同じ名前をつけたかと聞かれ、「私はいつも著名な自分の銃の名前を良いことをすることで広め、向上させたいと思っている」と答えている。
2005年には時計のブランドとして「カラシニコフ・ウォッチ」を立ち上げている。ブランドキーワードは『自由(LIBERTAD)』、『正義(JUSTICE)』、『団結(SOLIDARIDAD)』、『独立(INDEPENDENCE)』そして『平和(PEACE)』。デザインコンセプトとして、旧ソ連の象徴である赤い星を使用しており、全てのケースバックにはロシア語で「テロリズムのない自由な人生を」というメッセージが刻印されている。
晩年
カラシニコフの葬列(2013年12月26日、イジェフスク市内)
2012年、カラシニコフはイジェフスクにある3LDKのアパートで、孫と二人で暮らしていた。兵器会社であるイズマッシュ社の月給は400米ドル。国家功労賞の報賞金や年金を含めても月800ドル程度であった。会社の民営化後、AKの生産に対して0.5%のライセンス料が支払われるようになった。ソ連解体後は、民生用スポーツライフルの開発をしていたが、AK74Mの改良モデルである「AK-200」など、軍用ライフルの設計にも参加している[10]。長期間発射テストを行ってきたため、聴力に障害が出ていたという[11]。
2013年4月、ロシア正教会のトップであるキリル総主教に対し書簡を送り、自ら開発したAKにより多数の人命が奪われたことに対する心の痛みを告白。敵であったとしても人々の死に罪があるのか等の問いかけを行った。これに対して総主教は、「カラシニコフ氏は愛国主義の模範」とする返信を送っている[12]。
チャットgpt先生の12月23日のエッセイ
12月23日のエッセイ:
12月23日は歴史的な出来事が多く起きた日の一つです。まず、1912年に北海道の夕張炭鉱でガス爆発事故が発生し、死者216人が出ました。同じ炭鉱では4月29日にも大勢の死者が出たばかりで、安全対策の必要性が浮き彫りになりました。
1933年には日本共産党スパイ査問事件が発生し、日本共産党の中央委員であった小畑達夫と大泉兼蔵が特高警察のスパイとして査問されました。この事件は治安維持法下で行われた裁判であり、特殊な状況下での公民権回復の措置が取られました。
1948年には極東国際軍事裁判でA級戦犯7名の死刑が執行されました。この出来事は、戦後の歴史の中で重要な節目であり、戦争犯罪に対する裁判が行われたことを示しています。
そして、2013年にはミハイル・カラシニコフが亡くなりました。彼はロシアの銃器設計者であり、「AK」として知られるアサルトライフルを設計した人物でした。その後の彼の晩年では、自身の設計が紛争やテロに悪用されたことに対する複雑な感情を抱いていたことが伺えます。
この日の出来事は歴史の中で様々な側面から見ることができ、社会や個々の人物の運命が交錯する瞬間が詰まっています。歴史の教訓を学び、未来に向けてより良い社会を築くために考えるきっかけとなるでしょう。