kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
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今日という日12月22日 1849ドストエフスキ-銃殺刑直前に処刑中止、1972ウルグアイ空軍機墜落生存者71日ぶりに救出 写真wikipedia墜落地点十字架

12月22日

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12月22日の出来事

1849年 – フョードル・ドストエフスキーが死刑執行直前に特赦が与えられ、シベリアへの流刑に減刑になる。

1972年 – ウルグアイ空軍機571便遭難事故でアンデス山中に墜落した乗客の生存者16人が71日ぶりに救出。

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1849年 – フョードル・ドストエフスキーが死刑執行直前に特赦が与えられ、シベリアへの流刑に減刑になる。

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー[* 1](ロシア語: Фёдор Миха́йлович Достое́вский[* 2] [ˈfʲɵdər mʲɪˈxajləvʲɪtɕ dəstɐˈjɛfskʲɪj] ( 音声ファイル)、1821年11月11日〔ユリウス暦10月30日〕 – 1881年2月9日〔ユリウス暦1月28日〕)は、ロシア帝国の小説家・思想家である。レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフと並び、19世紀後半のロシア小説を代表する文豪である。

28歳で空想的社会主義に関係して逮捕されるが、出獄後、代表作である『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などを発表し、「現代の預言書」とまでよばれる文学を創造した。

死の体験と流刑

その後、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦が与えられて(この一連の特赦は全て仕組まれたものであった)、シベリアに流刑へ減刑となり、オムスクで1854年まで服役する。

この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。刑期終了後、セミパラチンスクにおいて兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する[4]。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があった。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。

自身の賭博にのめり込む性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感を伴う珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。賭博好きな性質は、必然としてその生涯を貧乏生活にした。借金返済のため、出版社との無理な契約をして締め切りに追われる日々を送っていた。あまりのスケジュール過密さのため、『罪と罰』『賭博者』などは口述筆記という形をとった。速記係のアンナ・スニートキナは後にドストエフスキーの2番目の妻となる。

また、小説以外の著名作に『作家の日記』がある。これは本来の日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、時事評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含み、後年ドストエフスキー研究の根本文献となった。ドストエフスキーは『作家の日記』でユダヤ人を批判する反ユダヤ主義的な主張を死去するまで繰り返し、またアーリア民族を賛美した[5]。

思想

反ユダヤ主義者

「ロシアにおける反ユダヤ主義」および「反ユダヤ主義」を参照

ドストエフスキーは改宗ユダヤ人のブラフマンによる反ユダヤ主義の書物『カハルの書』(1869年)から影響を受けた[8]。1873年以降はユダヤ人への攻撃が激しくなり、ドストエフスキーは死去するまで反ユダヤ主義的な発言を繰り返した[5]。

1873年にドストエフスキーは、ロシア民衆が飲酒で堕落したままであれば、「ユダヤ人たちは民衆の血をすすり、民衆の堕落と屈辱を自分たちの糧とするであろう」とし、農村はユダヤ人に隷属させられた乞食の群れとなると警告した[9]。

1876年にはユダヤ財界人が自分たちの利益のために農奴制の復活をもくろんでいるとし[5]、ユダヤ人がロシアの土地を購入すると元利を戻そうとしてたちまち土地の資源が枯渇されるということに異議を唱えればユダヤ人は市民同権の侵害だと騒ぐだろうが、それはタルムード的な国家内国家の重視であり、「土地だけでなくやがては百姓も消耗させられてしまうとしたら同権も何もあったものではない」と反論した[10]。他方のロシア国民は「最近の、いまわしい堕落、物質主義、ユダヤ気質、安酒にひたるという生活にもかかわらず」正教の大義を忘れなかったと称賛した[11]。

同年10月には、ロシアの民衆の間では無秩序、不身持ち、安酒、機能不全の自治制度、農村を食い物にする高利貸し、そしてジュー(ユダヤ人)が君臨しており、「金があれば何でも買える」という歪んだ不自然な世界観の持ち主である商人長者は儲けになればユダヤ人とも結んで誰でも裏切り、愛国心がなく[12]、教育啓蒙で武装しているロシアの知識人は「汚らわしい取引所的堕落の時代」における物質主義の怪物を撃退できるが、民衆は「すでにユダヤ人に食い入られた」と診断した[13]。

1876年12月にはロシア知識人には「ユダヤ化した人々」がいて、経済面からのみ戦争の害を言い立て、銀行の破産や商業の停滞で人を脅迫し、トルコに対してロシアは軍事的に無力であるなどと主張するが、彼らは当面する問題の理解が欠けていると批判した[14]。

一方でドストエフスキーを反ユダヤ主義者だと非難したユダヤ人アルカディ・コフナーに宛てた手紙の中で、ドストエフスキーは次のように答えている。

私は、はっきり申しますが、いまだかつてユダヤ人の敵だったことはありません!しかし、あなたが言うように、すでに40世紀にもわたる彼らの歴史は、次のことを証明しています。この民族は、極めて強い生命力を有しており、その歴史全体を通して、さまざまな『国家の中の国家』を形成せざるを得なかった、ということです。

— ドストエフスキー、1877年

小説『カラマーゾフの兄弟』(1880年)では、肉欲と物欲の権化であるフョードルがユダヤ人が多く住むオデッサでユダヤ人によって金を稼いで貯め込む才覚を磨いたとし[29]、このユダヤ人は金貸し業者であったとされる[8]。また儀式殺人で快楽を引き出すユダヤ人について描写した[5][30]。

ドストエフスキーはユダヤ人による儀式殺人について、V・ダーリ『ユダヤ人によるキリスト教徒少年殺害とその血の利用について』(1844年)、リュスタンスキー『ユダヤ人セクトが宗教的目的でキリスト教徒の血を利用する問題について』(1876年)、フヴォリソン『ユダヤ人はキリスト教徒の血を用いるか』(1879年)などを読んでいた[8]。

1972年 – ウルグアイ空軍機571便遭難事故でアンデス山中に墜落した乗客の生存者16人が71日ぶりに救出。

ウルグアイ空軍機571便遭難事故(ウルグアイくうぐんき571びんそうなんじこ、英語: Uruguayan Air Force Flight 571)は、1972年10月13日にウルグアイ空軍の571便機がアンデス山脈に墜落した航空事故である。

乗員乗客45人のうち29人が死亡したが、16人は72日間に及ぶ山中でのサバイバル生活の末に生還した。この出来事は奇跡的として多方面からの注目を浴びるが、同時に生存者が死者の人肉で飢えを凌いでいたことをめぐり物議を醸すこととなった。

乗客数   40

乗員数   5

死者数   29

生存者数              16

10月22日(日)

配給管理された食糧が尽き、自然植生植物も動物も雪で覆われている山には存在しなかった。機体内で議論が行われ、ロベルト・カネッサは仲間の遺体を人肉食して生存を続けることを主張した。何人もの生存者が食べることを拒否したが、ロベルト・カネッサが主導権を握った。この決定は人肉食する相手のほとんどが彼らの親友・級友であったので軽い決定ではなかった。

生存者のひとりナンド・パラードの著書で2006年に出版された『アンデスの奇跡:72日間を生き延びて山脈から生還 (en)』ではこう綴られている。

「          高山では、身体に必要なエネルギーは膨大だった。…新たな食料を発見するという望みはなく、我々は本気で飢えていた。我々は新たな食料を探し求めて機内を捜索した。…何度も胴体の中を探し回り、モーゼルで山を登った。我々は、荷物の断片である革片を、それに使われている化学物質が身体に与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。我々は藁を見つけようとして多くの座席やクッションを切り裂いたが、藁は使われていないことがわかった。…我々は何度も同じ結論に達した。我々が着ていた衣服は食べられないし、アルミニウム、プラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった[2][3]。 」

乗客は全員カトリック教徒だったが、ピアス・ポール・リードが、問題となっている行為は聖餐(せいさん)と同一視されると主張した。それは唯一の生存の方法であった。他の人々は、そのことを祝福したが救出後にその行為が発覚したときには態度を翻している。

チャットgpt先生の12月22日のエッセイ

12月22日の歴史的な出来事とフョードル・ドストエフスキーの生涯

12月22日は歴史的な出来事がいくつかあり、その中でも特筆すべきは19世紀のロシアの文豪、フョードル・ドストエフスキーの死刑執行直前の特赦と、ウルグアイ空軍機571便の遭難事故の生存者の救出が挙げられます。

フョードル・ドストエフスキーの生涯

フョードル・ドストエフスキーは、1821年にロシア帝国で生まれました。彼は文学界でレフ・トルストイやイワン・ツルゲーネフと共に19世紀後半のロシア小説を代表する文豪として知られています。彼の代表作には『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、そして最後の大作となる『カラマーゾフの兄弟』などがあります。

彼の生涯には詩的な創造力とともに、困難な時期が多く見られます。彼は28歳の時、空想的社会主義に関与したことが原因で逮捕され、死刑判決を受けました。しかしその後、銃殺刑執行直前に特赦が与えられ、流刑先がシベリアへと減刑されました。この経験は後の著作に多大な影響を与え、特に『死の家の記録』に反映されています。

ドストエフスキーは賭博や病気といった要因に苦しみつつも、その作品には人間の心の奥深さや哲学的洞察が凝縮されています。また、彼の思想は時折反ユダヤ主義的な発言を含んでおり、これは彼の後半生において一部の論争を引き起こしました。

ウルグアイ空軍機571便の遭難事故

同じく12月22日に起きた出来事として、1972年のウルグアイ空軍機571便の遭難事故があります。この事故では、アンデス山中に墜落した乗客の生存者16人が71日ぶりに救出されました。この遭難生存者たちは極限状態で生き延びるために困難な決断を迫られ、その中には遺体を食べるという極めて過酷な状況も含まれていました。

この出来事は人間の生命力と適応力を物語り、極限状態での人間の行動について深く考察させられるものでした。ナンド・パラードの著書によれば、彼らは生きるために新たな食料を見つける望みを持ちながらも極端な飢えに苦しみ、絶望的な状況に立ち向かっていました。

この日の出来事から見えてくるのは、人間の生命の脆さと同時に、極限の状況での生存本能や人間性の深い部分が浮かび上がるとともに、時折には非情な決断を迫られることもあるという現実です。

12月22日には歴史的な出来事や人物が交差し、人間の生の奥深さや強さが鮮やかに描かれる瞬間が刻まれています。