kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日12月20日 1858西郷隆盛と月照入水自殺、1917ソ連秘密警察チェーカー設立、ほか 写真wikipediaチェーカーの地下室

12月20日

20231220水曜日 旧暦11月8日 赤口 壬子  月齢 7.1 上弦

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https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8820%E6%97%A5

12月20日の出来事

1858年(安政5年11月16日) – 西郷隆盛が、清水寺の僧侶月照とともに錦江湾へ入水自殺した。西郷は救助されたが、月照はそのまま亡くなった[1][2]。

1917年 – ソ連初の秘密警察「チェーカー」設立。

1924年 – ミュンヘン一揆を主導した罪でランツベルク刑務所に収監されていたアドルフ・ヒトラーが出所。

1942年 – トルコ北中部でM6.9、1500人が亡くなった。

1952年 – 乗客、乗組員115名を乗せ、ワシントンからサンアントニオに向かっていたアメリカ軍のC-124輸送機が墜落[5][6]。

1995年 – アメリカン航空965便墜落事故。

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1858年(安政5年11月16日) – 西郷隆盛が、清水寺の僧侶月照とともに錦江湾へ入水自殺した。西郷は救助されたが、月照はそのまま亡くなった[1][2]。

文化10年(1813年)、大坂の町医者の長男として、讃岐吉原(現在の善通寺市)に生まれた。

文政10年(1827年)、叔父の蔵海の伝手を頼って京都の清水寺成就院に入り、天保6年(1835年)住職となった。しかし尊王攘夷主義に傾倒して公家たちや活動家たちと関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、幕府から危険人物とみなされた。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭している。

安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷とともに京都を脱出して土浦藩士・大久保要や水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門らの支援の元、しばらく大坂に留まっていた。さらに老中・間部詮勝の入京に先立ち、西郷の強い希望により、有村俊斎らの助力を受けて西郷の故郷である薩摩藩に海路逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し「日向国送り」を命じる。これは、単に身柄を移送するのではなく、薩摩国と日向国の国境で殺害することを意味していた。これを知った月照は死を覚悟し、西郷とともに錦江湾に入水した。西郷は奇跡的に一命を取り留めたが、月照は死亡した。享年46であった。「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」と伝えられている。

参考 日本における同性愛   西郷と月照が同性愛だったというのは有名な話である。

1917年 – ソ連初の秘密警察「チェーカー」設立。

ウラジーミル・レーニンによって十月革命直後の1917年12月20日に人民委員会議直属の機関として設立された。KGBの前身にあたるソビエトの最初の政治警察である[5]。

赤色テロル

「チェーカーの地下室」Ivan Vladimirov(ロシア語版)作。

十月革命後、反ボリシェヴィキの西側諸国の干渉によるロシア内戦が勃発すると、チェーカーはレーニンにより、裁判所の決定なしに、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられた。これがのちの粛清の引き金となる。1918年2月、ドイツ軍に攻撃されると、即決裁判による処刑が合法化された[4]。

当初チェーカーは組織的体系も整っておらず人数も100人足らずの少数であったが、次第に組織も整備され人員も増やされてゆく。1918年4月11日から12日の深夜にかけてチェーカーはモスクワのアナーキストが立てこもる20軒の住居を襲撃し520人を拘束、25人を処刑した。これがチェーカーによる最初の組織的かつ計画的な行動とされている。

レーニンは1918年6月に一時期廃止された死刑を復活させた。

1918年7月17日のロシア皇帝ニコライ2世らロマノフ家の処刑はレーニンが指示したが、これは赤色テロの先駆けとなった[4]。ロマノフ家の処刑にはヤコフ・ユロフスキーら3人のチェキストが関与していたとされ、亡命できた者を除いてミハイル大公ら皇帝の親族や従者に至るまで全員が惨殺された。ここにおいて、テロルの対象が特定の個人の行為ではなく、個人の属する「階級」となった[4]。これは、1917-18年の革命初期に散発的に発生していたテロルとは性格の異なるものであった[4]。

1918年7月、社会革命党(SR、エス・エル党)の蜂起がおき、8月にはチェーカーのウリツキーが暗殺され、レーニンへの暗殺未遂もおこると、9月5日、レーニンは赤色テロルを宣言し、多数が処刑されていった[4]。

チーストカ(粛清)

チェーカーは収容所管理や、教会での分裂工作も行った[4]。1920年末、チェーカーの幹部ラツィスは「チェカーの行動は、反革命が根をおろしてきたソヴィエト生活のすべての分野にまでひろがらなければならない」「チェカーの活動範囲からまぬがれるところはどこにもない」と述べており[4]、チェーカーはソ連全域の全ての生活を監視するとされた。

1921年の党員の点検「チーストカ(粛清)」でチェーカーは、党員の過去情報を提供した[4]。こうした党員の点検は、のちにスターリンによって拡大され、大粛清となり、250万人が逮捕され、そのうち68万余が処刑され、16万余が獄死することとなった[7]。

GPUへの改組

内戦が終結した1922年2月8日、チェーカーはGPUと改名し、1934年にはNKVDの一部局である国家保安総局となる。その後変遷を経てスターリンの死後、1954年に再び独立してKGBとして存続する。KGBおよび共産圏の秘密警察はチェーカーを模範としており、残虐な尋問・拷問・処刑などの手法が受け継がれた。

拷問

チェーカーは、様々な種類の拷問を行なった[8]。生きたまま皮膚や頭皮を剥がされ、「戴冠」と称して有刺鉄線を頭部に巻きつけたり、突き刺されたり、十字架に磔にされ(共産党は無神論でありキリスト教などの宗教は否定された)、絞首刑にされ、石で殴り殺され、板に縛られ、沸騰したお湯をゆっくりとかけられたり、内側に釘が打ち付けられた樽に入れられ転がされた[8]。冬に裸にさせた囚人に水をかけて氷像にして凍死させたり、頭部がちぎれるまで首をひねって殺されたケースもあった。女性は、処刑される前に拷問されレイプされた。 8歳から13歳までの子供も投獄され、時折処刑された[9]。

キーウに駐屯している中国人のチェーカー分遣隊は、縛られた犠牲者の胴体に鉄管を取り付け、そのなかにネズミを放したうえで火をつけて、逃げようとしたネズミが囚人の体を齧させるような虐待も行なった[8]。ロシア革命と内戦には多くの中国人共産主義者が参加しており、ボルシェビキの護衛を担っただけでなく[10][11]、チェーカーのメンバーとして任務を果たしたり[12]、赤軍の一個連隊としても編成され[13][14] 、赤軍には数万人規模の中国軍があったとされる[15]。また、赤軍には極東ロシアの朝鮮族[16][17]、チェコスロバキア人、クン・ベーラのハンガリー共産党, ラトビア・ライフル兵なども編成された[18]。

1919年夏までに、赤軍は100万人以上で構成され、1920年11月までに180万人規模となった[19]。赤軍の主力はロシア人であったが[14]、1919年時点で、チェーカーの中核構成員はラトビア人であり、 ロシア兵が処刑をいやがった場合にはラトビア人と中国人兵士が処刑を担当した[12]。

こうした拷問や虐待については、何度も共産党機関紙プラウダやイズベスチヤが報じた[20]。

また、チェーカーは公然と誘拐・拉致を行なった[21][22]。アントーノフらによるタンボフ反乱でも誘拐の手法が用いられた。

1924年 – ミュンヘン一揆を主導した罪でランツベルク刑務所に収監されていたアドルフ・ヒトラーが出所。

1942年 – トルコ北中部でM6.9、1500人が亡くなった。

1952年 – 乗客、乗組員115名を乗せ、ワシントンからサンアントニオに向かっていたアメリカ軍のC-124輸送機が墜落[5][6]。

1995年 – アメリカン航空965便墜落事故

概要

アメリカン航空965便(機体番号N651AA)はこの日、乗員8名、乗客155名を乗せ、マイアミ国際空港を定刻より約2時間遅れで離陸した。

機長はアメリカン航空で長年の飛行経験を積んだベテランであり、アルフォンソ・ボニーリャ・アラゴン国際空港への着陸経験もあった。また、機体は新型のボーイング757-223であり、優れた自動操縦装置を持っていた。

コロンビアのカリ郊外のアルフォンソ・ボニーリャ・アラゴン国際空港へ着陸するため降下中に機体が山に激突。事故発生8時間後に生存者は救助された。159名が死亡、4名が重傷を負った。犠牲者のうち1人は、救出後に病院で死亡した。クリスマス休暇前ということで、出稼ぎでアメリカに渡っていたコロンビア人が多く搭乗していた。搭乗者の中には、1960年代に怪奇派レスラーのザ・マミーとして活躍したプロレスラー、ベンジー・ラミレスがおり、彼も事故の犠牲になった[1]。

経験を積んだベテランパイロットが乗り込み、優れた自動操縦装置を持つ新型のボーイング757が迷走して墜落した事は、航空業界に大きな衝撃を与えた。

チャットgpt先生の12月20日のエッセイ

12月20日のエッセイ:

12月20日は歴史的な出来事が多く起こった日であり、その中でも注目すべき出来事を取り上げてみましょう。

まず、1858年(安政5年11月16日)には、西郷隆盛が清水寺の僧侶月照とともに錦江湾へ入水自殺したという出来事があります。西郷は救助されましたが、月照は亡くなりました。西郷隆盛は尊王攘夷主義に傾倒し、幕府との対立から逃れるために数々の困難に立ち向かいました。この出来事は、時の政治情勢と個々の人間ドラマが交錯する悲劇的なエピソードとして知られています。

1917年には、ソ連初の秘密警察「チェーカー」が設立されました。チェーカーは、十月革命後の混乱期において即座に容疑者の逮捕や処刑を行う権限を有し、その後のソビエト連邦の秘密警察の原点となりました。赤色テロルと呼ばれる一連の抑圧的な行動も行われ、これが後の大粛清につながりました。

1924年には、ミュンヘン一揆を主導した罪で投獄されていたアドルフ・ヒトラーが出所しました。ヒトラーは後にナチス党を指導し、ドイツの独裁者として歴史に名を刻むこととなります。

そして、1995年にはアメリカン航空965便の墜落事故が発生しました。この事故では多くの乗客が犠牲になり、航空業界において重要な問題を浮き彫りにしました。経験豊富なパイロットや新型の機体であるにもかかわらず、迷走してしまった原因が検証され、航空安全対策の重要性が再確認されました。

これらの出来事は歴史の一ページを彩るものであり、個々の出来事がどれもその時代の特異性や複雑さを反映しています。歴史の中で繰り広げられた様々な出来事から学び、進化していくことが、私たちの未来に向けた道を切り拓く手助けとなるでしょう。