12月15日
20231215金曜日 旧暦11月3日 先勝 丁未 ひのとひつじ テイビ 月齢 2.1
年末まであと16日
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12月15日の出来事
1914年 – 福岡の方城炭鉱でガス爆発事故。死者687人。
1970年 – 対馬海峡で韓国の連絡船南営号沈没事故起こる。死者300人以上。
2022年 – 北海道の知床半島沖で観光船「KAZU1」が沈没し、20名が死亡、6名が行方不明になった事故について、国の運輸安全委員会が、沈没に至る経過報告書を公表した[10]。
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1914年 – 福岡の方城炭鉱でガス爆発事故。死者687人。
開鉱
筑豊炭田の三菱合資会社、後の三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)は、1896年(明治29年)に炭層調査を開始し、1902年(明治35年)当時辺鄙な農村地帯であった田川郡方城村で縦坑建設に着手[2]。三菱方城炭鉱は、1908年(明治41年)第二坑を完工し同社主力鉱として開鉱した[2]。1910年(明治43年)第一坑が完成[2]。当時最新式の直下型縦坑方式を採用し、昇降機で縦坑を深さ270メートルまで降りたあと、横向きの坑道に入る構造であった。炭鉱は1908年(明治41年)に12万トン、5年後の1913年(大正2年)には26万トンを出炭し、急激に躍進をとげてゆく。鉱山には赤レンガの煙突や昇降機用の21メートルの巨大な鉄塔がそびえたち、炭都筑豊の新しい名所となった。のどかだった方城村も様相を変え、労働者と家族が暮らす炭鉱長屋が立ち並び、最寄りの金田駅前には盛り場や映画館もでき、好景気に沸く炭鉱町となった。
方城大非常(方城炭坑瓦斯爆發)
場所 日本の旗 日本・福岡県田川郡方城村伊方
日付 1914年12月15日
午前9時40分
原因 三菱合資会社「方城炭坑爆発調査報告」:不明
福岡鉱務署「方城炭坑瓦斯爆発調査復命書」:滞留したメタンガスや炭塵に安全ランプから引火
死亡者 671人(入坑者667人、救援隊員4人)
三菱炭鉱が公式発表した大非常の死者は671人である。そのうち131人が女性で、11歳から18歳の若年者は71人(男44人・女27人)いた。また4人は救援隊で、当時の入坑者688人のうち死者は667人、生存者は21人であり、死亡率は坑内にいた者全体の97%に達し、本件事故は今なお2位以下を大きく引き離す日本最悪の炭鉱爆発事故となっている[3]。
当時の炭鉱作業員は炭鉱の被雇用者ではなく、「納屋」と称する多数の鉱山周辺の派遣企業に所属していた。公式死亡者数は納屋から提出された名簿を基にしているが、名簿から漏れた者も多かった上、名簿そのものを提出しない中小の納屋もあったため、当時の新聞記事では推定死者数が655人から800人まで幅があり、また地元では死者は1000人を超えていると噂された。親子兄弟の労働者も多く一家全滅が22名、また孤児784名と、扶養者を失った老人51名を生み出した。一方、石炭運搬用の馬11頭も犠牲となった。遺体捜索は年が明けてなおも続いた。遺体は8体ずつ昇降機で引き上げられ、急造の火葬場には幅2メートルほどの細長い溝が掘られて4本のレールを渡した上に棺を乗せ、石炭で火葬にした。
その後
方城大非常と同年に勃発した第一次世界大戦は、石炭価格の上昇をもたらし、筑豊地方に戦争景気をもたらした。その後方城炭鉱も1915年(大正4年)5月から一部稼動を再開し、活気を取り戻してゆく。筑豊は全国出炭量の半分を占めるまでに発展し、戦後まで長く日本経済を支えた。
しかし、昭和30年代後半から産業用のエネルギーが石炭から石油に転換し筑豊の炭鉱は次々と閉鎖されていった。方城炭鉱も1962年(昭和37年)に閉山され、人員整理し別会社として存続をはかるが、1964年(昭和39年)には再び閉山を余儀なくされている。基幹産業の消滅で地域の雇用は失われ、人口の半数以上が他地域へ転出、筑豊には多くのボタ山だけが残された。税収8割以上が失われた方城町は厳しい財政状況へと追い込まれ、準用財政再建団体に転落。2006年に周辺自治体と合併して福智町となり消滅した。
閉山後の方城炭鉱跡は、現在は九州日立マクセルの工場となっている。敷地内には炭鉱の遺構の一部が保存され、許可を得れば見学も可能である。近隣の寺院には現在も事故遭難者の墓が残るが、既に100年以上が経過し、福圓寺の法要に列席する遺族や関係者の数は年々減り続けている。三菱が慰霊碑を設置した神社もその後廃絶し、現在は跡地に慰霊碑だけが残る。
1970年 – 対馬海峡で韓国の連絡船南営号沈没事故起こる。死者300人以上。
2022年 – 北海道の知床半島沖で観光船「KAZU1」が沈没し、20名が死亡、6名が行方不明になった事故について、国の運輸安全委員会が、沈没に至る経過報告書を公表した[10]。
チャットgpt先生の12月15日のエッセイ
12月15日は歴史的な出来事がいくつかありました。その中で特に注目されるのは、1914年に福岡の方城炭鉱で発生したガス爆発事故です。この事故は日本の炭鉱史上最悪の事故となり、多くの犠牲者を出しました。
当時、方城炭鉱は三菱合資会社(後の三菱鉱業)によって運営され、急速に成長していた炭鉱町でした。石炭の需要が高まり、方城炭鉱は繁栄の兆しを見せていました。しかし、1914年12月15日の午前9時40分、突如としてガス爆発が発生し、死者687人という壊滅的な被害をもたらしました。
事故原因については、当時の技術や安全対策が不十分であったことが挙げられています。三菱炭鉱は最新技術を導入していたものの、ガスや炭塵が積もりやすい状況で、安全対策が不十分だったとされています。事故後、生存者21人のうちの4人は救援隊員で、死亡率は驚異的な97%に達しました。この事故は、石炭鉱業の危険性や安全対策の必要性を改めて示す出来事となりました。
方城炭鉱の閉山後、地域は経済的な打撃を受け、筑豊地方は次第に衰退していきました。戦後、石炭の使用が減少し、石炭鉱業は次第に姿を消していきました。方城町も2006年に周辺自治体と合併して福智町となり、その後は消滅しました。
この事故から約100年後の2022年にも、北海道の知床半島で観光船「KAZU1」の沈没事故が発生し、20名が死亡しました。安全対策の必要性は歴史を通じて変わらず、事故の教訓を生かし、今後も安全な社会の構築が求められています。