kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日12月13日 1867新撰組油小路事件、1948泉山三六蔵相国会キス事件 写真wikipedia新撰組屯所八木邸

12月13日

20231213水曜日 旧暦11月1日 大安 乙巳きのとみ イッシ 月齢 0.1 新月

年末まであと18日

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8813%E6%97%A5

12月13日の出来事

1867年(慶応3年11月18日) – 新撰組が伊東甲子太郎ら御陵衛士を暗殺(油小路事件)。

1948年 – 泉山三六蔵相が会期中の国会食堂内で泥酔し女性議員に悪態。翌日議員辞職(国会キス事件)。

——————————————————————   

1867年(慶応3年11月18日) – 新撰組が伊東甲子太郎ら御陵衛士を暗殺(油小路事件)。

慶応3年3月10日(1867年4月14日)、新選組を離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成した伊東甲子太郎が、勤王倒幕運動に勤しみ薩摩藩と接していることを、新選組が間諜として潜り込ませていた斎藤一から聞き明らかとなった。

御陵衛士の粛清

新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとした。遺骸を引き取りにきた同志は、藤堂平助・篠原泰之進・鈴木三樹三郎・服部武雄・毛内有之助・加納道之助・富山弥兵衛の7名であった。この待ち伏せによって、新選組結盟以来の生え抜き隊士で元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに、服部武雄・毛内有之助の3名が討死した。

偶然、現場を通りかかった桑名藩士・小山正武の談話(史談会速記録)によると、新選組隊士40~50名が御陵衛士7名を取り囲み、まず藤堂が討たれ、次に毛内が討たれ、最後に服部が奮戦したが及ばず討死したということである。

藤堂に関しては、近藤と試衛館以来の同志である永倉新八・原田左之助が逃がそうと試みたものの、近藤の心情を酌めなかった他の隊士に斬られた。

戊辰戦争時、劣勢となった近藤勇は流山で大久保大和(剛)と称して新政府軍に出頭したが、新政府軍に加わっていた元御陵衛士の加納鷲雄(道之助)らに正体を看破されて捕縛され、ついに斬首となった。

1948年 – 泉山三六蔵相が会期中の国会食堂内で泥酔し女性議員に悪態。翌日議員辞職(国会キス事件)。

国会キス事件(こっかいキスじけん)は、1948年12月13日に大蔵大臣・泉山三六が泥酔により、他党の女性議員の手を握ったり抱きついたりしたため議員辞職した事件である。

泉山は、参議院食堂に大蔵委員を招いて会食、酒を飲み過ぎ議場脇のソファに酔いつぶれた。そのため法案説明に塚田十一郎大蔵政務次官が代わって立ったが、この泥酔を目撃した野党側は一斉に議場から退席。さらに泉山蔵相が食堂で民主党の山下春江議員に抱きついたり、廊下で日本社会党の松尾トシ子の手を握ったことが分かり、野党は懲罰動議を出した。

慌てた政府と所属する民主自由党は泉山蔵相をたたき起こし深夜の永田町をドライブして酔いを醒まそうとし、さらに国会の医務室で酔い覚ましの注射を打ってベッドに寝かせつけた。

その間に、野党婦人議員は院内粛清を決議、民主自由党役員会でも除名論が出た。

明けて12月14日1時半、緊急懲罰委員会を開けとの野党側の要求に対し民主自由党の明礼輝三郎懲罰委員長は雲隠れし、4時、政府は院内で緊急閣議を開き泉山蔵相の辞任を決定、泉山は吉田茂首相を訪ね進退伺を出した。

懲罰委員会で山下議員は「口にすることも出来ないような行動に出た。逃げようともがいて左アゴに噛み付かれた」、また松尾議員は「30秒ぐらい握って離さないので、振り放して逃げた」と証言した。泉山蔵相は午後には衆議院議員辞職届を提出した。

この事件を受けて戸叶里子議員らが議場内粛正に関する決議を衆議院本決議を提出し、12月22日に全会一致で可決された。

12月13日の衆議院予算委員会に泥酔状態で出席したことが問題となる。さらに、酔った勢いで議員食堂前の廊下で山下春江議員に抱きついてキスを迫り、抵抗されると顎に噛みつくなどの不祥事(国会キス事件)が発覚。野党が一斉に反発し、審議を拒否したことから翌14日に引責辞任すると共に議員辞職した。この事件を重く見た衆議院では、12月22日に議員は酒気帯び登院を厳禁とする国会決議「議場内粛正に関する決議」が全会一致で可決されている。

盃を傾けながら(1955年)

しかし、この一件で「大トラ大臣」として知名度が向上した事が功を奏してか、かえって一般人気は高まったと見え、1950年の第2回参議院議員通常選挙では全国区から立候補し、得票数第7位で当選。以後、参議院議員を2期12年務めた。

1967年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章(勲六等からの昇叙)[2][3]。

1981年7月7日死去、85歳。死没日をもって従三位に叙される[4]。

チャットgpt先生の12月13日のエッセイ

12月13日のエッセイ:

12月13日は歴史的な出来事が複数起きた日であり、その中で特に注目すべき出来事は、1867年の新撰組による伊東甲子太郎ら御陵衛士の暗殺(油小路事件)と、1948年の泉山三六蔵相による国会キス事件です。

新撰組のエピソードは、慶応3年11月18日に発生した油小路事件に関連しています。御陵衛士の伊東甲子太郎が新選組を離脱し、薩摩藩との接触が露呈。これにより新選組が伊東を暗殺しようと試み、その結果、多くの御陵衛士が討死する悲劇が生まれました。この事件は、幕末の混迷と武士道の終焉を象徴するものとなりました。

1948年の国会キス事件は、泉山三六蔵相による議員辞職を引き起こした出来事です。泥酔した状態で女性議員に不適切な行動をとり、これが大きなスキャンダルとなりました。泉山は辞任を余儀なくされ、その後の対応や野党の反発が政治界に大きな波紋を広げました。この事件は、政治家の倫理観や品位に対する厳格な態度を要求する社会の一石を投じる出来事であり、その後の政治倫理の意識向上に寄与しました。

また、泉山蔵相はその後も政治界での活動を続け、一般人気が高まりました。「大トラ大臣」として知られ、その知名度が選挙での当選に繋がるなど、一転して彼の人気は上昇しました。その後の政治キャリアや勲章の受章なども見ると、人生において波乱万丈ながらも成功と挫折を乗り越え、最後まで政治家としての意義を果たしたことが伺えます。

この日の出来事は、歴史的背景と個々の人間ドラマが絡み合い、時代の変遷とともに人間の姿勢や社会の価値観が浮き彫りにされる一例と言えるでしょう。