11月8日
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11月8日の歴史上の出来事
1519年 – スペインの探検家エルナン・コルテスがアステカ帝国の首都テノチティトランに進軍。メキシコ征服を開始。
1520年 – ストックホルムの血浴。スウェーデンのカルマル同盟からの独立運動を鎮圧した国王クリスチャン2世が、スウェーデン人の反乱指導者ら100名以上を捕え、翌日処刑。
1923年 – ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」でアドルフ・ヒトラー率いるナチス一派がバイエルン首脳部を拘束、ミュンヘン一揆が起こる。
1939年 – ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が起こる。
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1519年 – スペインの探検家エルナン・コルテスがアステカ帝国の首都テノチティトランに進軍。メキシコ征服を開始。
インディオたちに白い神ケツァルコアトルの化身と崇められるようになっていたコルテスは、アステカ王モクテスマ2世に「国をお返しします」と言われて丁重に迎えられ、アステカの首都テノチティトランを6日間案内されて見学し、アステカが思いの外強力であることに気づいた。このとき、血塗られた神殿も案内された。まだ動いている心臓が銀の皿にのせられていたという。
コルテスはアステカ帝国を支配、そしてアステカ文明を完膚なきまでに粉砕し、その文化に全く理解を及ぼさなかった。また、コルテスはキリスト教徒、それも敬虔なるカトリック信徒であったがために、インディオの社会が持っていた人身供犠などの「野蛮」とされる側面のみをあげつらい、インディオの習慣を廃止させようとしたとの意見もある。
事実、彼らは征服先で黄金を略奪し、インディオの大量虐殺を行った。そして多くのインディオ女性を強姦し、さらには征服が一段落したのちは征服者としての政治的経済的な力でこれまた多くのインディオ女性を妾として所有した。[要出典]コルテス自身も、インディオ女性のマリンチェを妾として寵愛し、彼女との間に生まれた子供にマルティンと名付けており、現在も子孫がメキシコにいる。
かつてはコルテスの行為に関しては、インディオたちを人身供犠などを掲げる残酷な旧来の宗教の因習や鞏固な身分制から解放した、宣教師によって福音に接することが出来た、などと肯定的に捉える見解が大半を占めた。また、コルテス一行を評してナワトル語で書かれた『コディセ・フロレンティーノ』には「平和の神」と記されている。
しかし、スペイン人による支配と搾取は、先住民の文化・伝統・宗教を徹底的に粉砕し、先住民は白人入植者たちに奴隷の様に使役されるという状況に置かれた。18世紀から19世紀にかけて多発したインディオの反乱は後にメキシコ独立の原動力とはなったが[注釈 1]、19世紀に独立したメキシコ帝国、メキシコ合衆国の実権を手にしたのは、かつて略奪と虐殺を繰り返したコンキスタドールの子孫であった。インディオの社会的立場の向上は、20世紀にならなければ実現し得なかった。
1520年 – ストックホルムの血浴。スウェーデンのカルマル同盟からの独立運動を鎮圧した国王クリスチャン2世が、スウェーデン人の反乱指導者ら100名以上を捕え、翌日処刑。
ストックホルムの血浴(スウェーデン語: Stockholms blodbad)は、デンマーク王クリスチャン2世が1520年にスウェーデンのストックホルムで行なったスウェーデン人に対する処刑ないし粛清である。
「ストックホルムの血浴」
同年11月4日にクリスチャン2世はストックホルムの大聖堂で復権したトーレ大司教によって油を塗って清められ[2]、スウェーデンの法律に沿って国を統治すると宣言した。その後3日間にわたって晩餐会を開催し、11月7日、ついに虐殺は引き起こされた。クリスチャン2世は反乱の罪を赦すという声明を発し、スウェーデン側の貴族、僧侶、都市の自由市民の有力者たちを晩餐会に招いた。彼等はクリスチャン2世の言葉を信じて投降したものの、全員がストックホルムの王宮に入城すると、大扉は閉じられ、招かれた客は総て捕らえられた。クリスチャンは最初から独立派の罪を許すつもりなどなく、これを機に独立派を根絶やしにする事でスウェーデン独立運動の息の根を止めようと画策していたのだ。
翌11月8日、形ばかりの裁判によって、彼等は死刑の判決を下され、その日の内に、スウェーデンの有力者たちは次々に処刑された。その犠牲者の数は、100名を超えた。ストックホルムの大広場は大量の血の海に染まることになった。これが後に「ストックホルムの血浴」として知られる事件のあらましである。最後までクリスチャン2世の軍勢に抵抗したクリスティーナは裏切り者の売国奴として糾弾され、クリスチャン2世によって「生き埋めか火炙りか」の2択を迫られたが気絶。領地の大半をクリスチャン2世に譲る事を条件に死刑は免れたが息子2人と共にデンマークに連れ去られ幽閉された。クリスティーナの母も罪を問われ、こちらは溺死を宣告されたがこちらも領地の大半を譲る事を条件に命だけは助けられた。彼女もまた娘と一緒にデンマークに連れ去られ幽閉される事となった。
その後
クリスチャン2世はこの粛清によってスウェーデンでは最早大規模な反乱は起こらないものと思ったが、逆にこの事件はスウェーデン解放戦争(英語版)の直接の発端となった。罪を許す事を条件に降伏を受け入れたはずなのにその言葉を裏切って独立派の面々を処刑したり独立派の象徴であったクリスティーナをデンマークに連れ去って幽閉した事はスウェーデンの人々を大いに団結させる事となった。「ストックホルムの血浴」で父を殺された若年の騎士グスタフ・ヴァーサは、北部スウェーデンに逃れその地で反乱軍を組織、独立派の新指導者としてスウェーデン独立戦争を戦い抜きスウェーデンの独立を勝ち取った。この若き騎士こそ後のスウェーデン王グスタフ1世である[要出典]。
1923年 – ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」でアドルフ・ヒトラー率いるナチス一派がバイエルン首脳部を拘束、ミュンヘン一揆が起こる。
ミュンヘン一揆(ミュンヘンいっき、ドイツ語: München Putsch)は、1923年11月8日から9日に、ドイツ国のミュンヘンでエーリヒ・ルーデンドルフ、アドルフ・ヒトラーら国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を始めとする州右派勢力によって結成されたドイツ闘争連盟(英語版)が起こしたクーデター未遂事件。半日あまりで鎮圧され、ヒトラーら首謀者は逮捕された。
1939年 – ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が起こる。
ヨハン・ゲオルク・エルザー(Johann Georg Elser、1903年1月4日 – 1945年4月9日)は、ドイツの反ナチ運動家。アドルフ・ヒトラー暗殺未遂事件の実行者として知られる。
例年は8時半から10時半まで続く演説を8時開始に早め、9時7分に演説を切り上げ会場を後にした[17]。ヒトラーが退席した後聴衆も帰り始めたが、9時20分に時限爆弾が爆発し、ビュルガーブロイケラーの店内は爆風で大きく破壊された[18]。演壇の後ろにあった柱は爆発で粉砕され、店内に残っていた人たちの上に天井や梁やがれきが崩れ落ちた。最終的には8人が死亡し、62人が負傷した[18]。
*他にも合計42回の暗殺計画があり、すべてヒトラ-は逃れている。
チャットgpt先生の11月8日のエッセイ
11月8日は歴史的に重要な出来事が複数起こった日であり、その中から2つの出来事に焦点を当ててみましょう。
1. 1519年 – スペインの探検家エルナン・コルテスによるアステカ帝国征服の開始
1519年のこの日、スペインの探検家エルナン・コルテスは、アステカ帝国の首都であるテノチティトランに進軍し、メキシコ征服を開始しました。コルテスは白人としてアステカのインディオたちから「白い神ケツァルコアトルの化身」と崇められ、アステカ王モクテスマ2世に歓迎されました。彼はアステカの首都を6日間案内され、その強力さを認識しました。しかし、結局、スペイン人による支配と搾取はアステカ文明を壊し、多くのインディオたちを虐殺しました。この出来事は後にメキシコの歴史に大きな影響を与え、独立運動や文化の変化につながりました。
2. 1923年 – ミュンヘン一揆
1923年11月8日、ドイツのミュンヘンでアドルフ・ヒトラー率いるナチス一派がバイエルン首脳部を拘束し、ミュンヘン一揆が発生しました。このクーデター未遂事件は半日で鎮圧され、ヒトラーと首謀者は逮捕されました。ミュンヘン一揆はヒトラーが政治的な力を持つ前の出来事でしたが、後にヒトラーがドイツ国内での権力を確立する上でのステップとなりました。
これらの出来事は歴史的に重要で、文化や政治への影響を持っています。コルテスによるアステカ帝国の征服は中南米の歴史に影響を与え、ヒトラーによるミュンヘン一揆は第二次世界大戦とナチズムの台頭に繋がりました。歴史は私たちに多くの教訓を提供し、これらの出来事から学び、未来をより良くするための知識を得ることが重要です。