kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月10日1567松永久秀軍東大寺焼亡、1614真田幸村九度山脱出、ほか 写真wikipedia焼亡前東大寺模型

11月10日

20231110金曜日旧暦9月27日 大安 壬申みずのえさる ジンシン 月齢 26.4

年末まであと51日

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8810%E6%97%A5

11月10日の歴史上の出来事

1567年(永禄10年10月10日) – 松永久秀、三好義継軍が三好三人衆が陣取る東大寺を急襲し、大仏を含めた堂宇が焼失。(東大寺大仏殿の戦い)

1614年(慶長19年10月9日) – 真田幸村(信繁)、九度山を脱出し、大坂城へ入城。

1939年 – 岩手県松尾鉱山で落盤事故が発生。死者・行方不明者83人以上[2]。

1944年 – ゲシュタポと親衛隊がケルンでエーデルヴァイス海賊団団員ら13名の公開処刑をおこなう。

1946年 – ペルーのアンカシュ(内陸)でM 7.2の地震。死者1500人。

——————————————————————————-   

1567年(永禄10年10月10日) – 松永久秀、三好義継軍が三好三人衆が陣取る東大寺を急襲し、大仏を含めた堂宇が焼失。(東大寺大仏殿の戦い

東大寺大仏殿の戦い(とうだいじだいぶつでんのたたかい)は、永禄10年(1567年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀、三好義継と三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦。松永久秀の居城であった多聞山城の周辺でも戦闘があったため「多聞山城の戦い」とも呼ばれている。

東大寺攻め

三人衆・筒井連合軍が奈良に駐屯してから約6ヵ月が経過した。多聞山城を背後に松永・三好連合軍も奮闘しているが、兵力は三人衆・筒井連合軍が上で、有利に作戦を展開していた。膠着状態の中、10月10日に松永・三好連合軍は三人衆軍の本陣がある東大寺を奇襲した。この時の戦いの状況を「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」(『多聞院日記』)と記している。午後11時に戦闘が開始され、戦闘中に穀屋から失火し法花堂それから大仏殿回廊、そして日をまたいだ翌10月11日午前2時には大仏殿が焼失したようである。また、「四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍が夜討、三人衆側も死力を尽くして戦ったが対抗できず、遂には中門堂と西の回廊に火を放たれて焼失した。この戦いで多くの者が討ち死にした。」(『多聞院日記』)と記しており、『東大寺雑集録』にも午後10時と記載されているので、戦闘はこの時間帯から開始されたと思われている。十分な戦闘準備が整っていない三人衆軍の不意打ち狙いであり、東大寺は防備を目的とした砦でもなく、そのような中で懸命に防ごうとしたが支えきれず、浮き足だって崩れ去っていったのではないかと思われる。この戦いで三人衆軍は討ち死にしたり、焼け死んだりした者が300名を数えた。またルイス・フロイスの『日本史』では違う内容で記載している。「多聞山城を包囲した軍勢の大部分は、その大仏の寺院の内部とこの僧院のあらゆる場所に宿営した。その中には我らの同僚によく知られていた一人の勇敢な兵士もいたのであるが、我らは世界万物の創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心な、誰かある人にたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護していた間に、ひそかにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠くはなれた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘以外は何も残らず全焼してしまった」(『日本史』)と記してある。この文中にある「我ら」というのはイエズス会のことであり、三人衆軍の兵士でイエズス会に入信している誰かが放火したとしており、『多聞院日記』や『東大寺雑集録』とは違う記載になっている。切羽詰った久秀が三人衆軍を大仏殿ごと焼き殺そうとした兵火説や、不意打ち狙いの夜襲のためやむ得ず失火してしまった説、三人衆軍の一部の兵による放火説など、現在でも議論になっている。

奈良の大仏を「戦国時代に仏頭は松永久秀の兵火によって焼き落とされ」と紹介されたり、織田信長が徳川家康に松永久秀を紹介する時に、三悪事の1つとして東大寺大仏を焼討したと紹介したので、久秀が焼討したと現在でも語られている。しかし『大和軍記』には「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されていたり、『足利李世紀』には「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されている事から、『松永久秀の真実』では「松永方が放火して焼けたのではなく、罪があるとしても、過失により、大火を招いたものだろう。ましてや久秀が指示して大仏殿を焼いたということはあり得ない」としていたり、『筒井順慶の生涯』によると「大仏殿は久秀が意図的に焼いたものではなく、戦のさなかに三好方で起きた不慮の事故によって焼けてしまった」としていたり、今谷明によると「大仏炎上は久秀の仕業とされているが、実際は三好方の失火であった。信長に2回も謀反した悪辣ぶりが後世の付会を呼んで、すべての久秀の罪業に押付けられたのである」とする[2]。これより直ちに「松永久秀の放火説」がなかったとは言えないが、最近の研究によると「戦の最中の不慮の失火説」が有力である。

1614年(慶長19年10月9日) – 真田幸村(信繁)、九度山を脱出し、大坂城へ入城。

域内には高野山の開祖である空海(弘法大師)の母が暮らしていたという慈尊院があり、空海は月に9度母に会いに来ていたことから九度山の地名が付いたと伝わる[1]。

古くからの高野山領であり、明治まで続いた。関ヶ原の戦いで西軍に与して敗れた真田昌幸・信繁(幸村)親子が1600年に九度山に流罪となり、困窮した生活を送った[2]。

1939年 – 岩手県松尾鉱山で落盤事故が発生。死者・行方不明者83人以上[2]。

1944年 – ゲシュタポと親衛隊がケルンでエーデルヴァイス海賊団団員ら13名の公開処刑をおこなう。

1946年 – ペルーのアンカシュ(内陸)でM 7.2の地震。死者1500人。

チャットgpt先生の11月10日のエッセイ

11月10日のエッセイ:

11月10日は歴史的に多くの出来事が起こった日で、それらの出来事は時代や地域によって異なります。以下に、いくつかの重要な出来事とその背後にある意義について考えてみましょう。

まず、1567年に起きた東大寺大仏殿の戦いは、戦国時代の日本における重要な出来事でした。この戦闘は、松永久秀と三好義継軍が三好三人衆が陣取る東大寺を急襲し、大仏を含む堂宇が焼失した事件です。この出来事は、激しい市街戦が繰り広げられたことで知られており、多くの武将や兵士が討ち死にしました。その背後には、権力闘争や領地争いなど、戦国時代特有の複雑な政治状況が影響していたことが考えられます。

次に、1614年に真田幸村(信繁)が九度山を脱出し、大坂城へ入城した出来事は、戦国時代の英雄である真田幸村の行動を示しています。関ヶ原の戦いで西軍に敗れた彼とその家族は、九度山に流罪となり、苦しい生活を送ったとされています。その後、大坂城への入城は、彼の忠誠心と戦国時代の不確かな運命を象徴しています。

1939年に岩手県の松尾鉱山で発生した落盤事故では、83人以上の死者や行方不明者が発生し、安全対策の重要性を再確認させられる出来事でした。安全な労働環境の確保は、産業の発展において不可欠であり、この事故はその重要性を改めて浮き彫りにしました。

1944年にゲシュタポと親衛隊によってケルンで行われたエーデルヴァイス海賊団団員ら13名の公開処刑は、第二次世界大戦中の恐ろしい出来事の一例です。戦争は人間性の暗い側面を浮き彫りにし、人々に平和と人権の尊重の大切さを教える痛ましい出来事でもあります。

最後に、1946年にペルーで発生したM 7.2の地震で1500人以上の死者が出た出来事は、自然災害の破壊力を示しています。この出来事は、地震に備え、適切な対策を取る必要性を強調し、災害復旧への支援やコミュニティの連帯の大切さを再認識させました。

11月10日に関連するこれらの出来事は、歴史と現代の教訓を提供しています。過去の出来事から学び、将来に向けて持続可能な社会を築くために、我々は適切な行動をとる必要があります。安全、平和、人権、環境への配慮は、私たちの共通の価値であり、これらを大切にすることが、より良い未来への鍵となるでしょう。