kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月8日  1871シカゴ大火、ほか写真wikipedia失火後の町。

10月8日

20251008水曜日旧暦8月17日赤口(庚戌かのえいぬコウジュツ)月齢 16.2

乙巳きのとみ年丙戌ひのえいぬ月庚戌かのえいぬ日  年末まであと84日

吉方位 隠遁日 庚戌かのえいぬ日 北 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%888%E6%97%A5

10月8日の出来事

1203年(建仁3年9月2日) – 源頼家の外戚として権力を誇った比企能員が滅ぼされる。(比企能員の変) 損害詳細不明。

1455年(康正元年8月27日) – 日野富子が足利義政の正室になる。

1862年 – 南北戦争: ペリービルの戦いが行われる。

時             1862年10月8日

場所        ケンタッキー州ボイル郡

結果        南軍の戦術的勝利 北軍の戦略的勝利 損害 南軍 2万2千人中 戦死傷3401人 北軍 1万6千人中 戦死傷4276人。

1868年(慶応4年8月23日) – 会津戦争: 母成峠の戦いに勝利した官軍が若松城下に到達。白虎隊二番士中隊員20人が飯盛山で自刃。

1871年 – シカゴ大火。シカゴ中心部を焼失し、死者250人を出す惨事となる。

1895年 – 乙未事変により閔妃が暗殺される。

1945年 – 大分県で暴風雨。33人が死亡、68人が負傷。流失家屋110戸、全壊家屋2368戸などの被害[1]。

1954年 – 内郷丸遭難事件。相模湖で定員の4倍以上の客を乗せた遊覧船・内郷丸が沈没。中学生22人死亡。

1989年 – 北の真砂岳で8人が凍死する遭難事故が発生した[2]。

1994年 – 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件: 長良川右岸河川敷(岐阜県安八郡輪之内町)にて集団暴行を受けて死亡した男性2人が遺体で発見される。後に愛知県出身の当時19歳少年(2011年に死刑確定)をはじめとする不良少年グループによる連続殺人事件と判明。

2001年 – リナーテ空港事故が起こる。

乗員乗客110人を乗せたスカンジナビア航空686便コペンハーゲン行MD-87型機と4人が搭乗しパリに向かっていたドイツ籍のセスナ サイテーションが、視界50mの濃霧の中、滑走路上で衝突し、両機に搭乗していた全員が死亡したほか、686便が衝突した手荷物管理棟のイタリア人の地上職員8人が死傷した。

———————————————–   

1203年(建仁3年9月2日) – 源頼家の外戚として権力を誇った比企能員が滅ぼされる。(比企能員の変) 損害詳細不明。

比企能員の変(ひきよしかずのへん)は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月2日、鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって粛清、族滅された。比企能員の乱、比企氏の乱、小御所合戦とも。

吾妻鏡以外の事件に関する史料・文献

事件当時に記録された京都貴族の日記、その他の文献史料によれば、事件の経過は『吾妻鏡』の記述と異なっている。

藤原定家の日記『明月記』によると、建仁3年(1203年)9月7日に鎌倉からの使者が到着して、頼家が1日に死去したと報じ、その後継をめぐって家臣の間に権力をめぐる争いが起こり、頼家の子が頼家の祖父時政に殺されて、頼家に心を寄せた在京御家人も討たれ、また朝廷に実朝の将軍就任要請がされたことが記されており、同様の記録が近衛家実の『猪隈関白記』、白川伯王家業資王の『業資王記』などにも見られる。頼家が死んだものとして実朝の将軍就任を要請する使者が京都に到着した9月7日は、頼家が出家させられた当日である。

鎌倉から京までの使者の進行速度からすれば、使者は9月1日か2日に鎌倉を出発しており、まさに比企一族が滅ぼされた前後である。使者が送られた時点では頼家はすでに危篤であり、一幡・比企能員の殺害が予定されていたものと考えられる。

また、事件当日に時政邸を警護した小代行平の子孫が記した置文の『小代文書』には、比企能員が単身、平服で時政邸を訪れたことが記されている。『吾妻鏡』で頼家与党として処罰されたとされている中野能成は、比企氏が滅ぼされた2日後の9月4日の日付で「比企能員の非法のため、所領を濫妨されたそうだが、特別処遇を与える」という時政による所領安堵の書状が『市河文書』に残されている。時政の子北条時房は頼家の近習であり、この能成とは深い関係があった。

慈円の『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので、8月30日に自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が、9月2日に能員を呼び出して天野遠景に組み付かせ、仁田忠常に刺し殺させた。そして広元の屋敷に武士を送って頼家を監視下に置き、同時に小御所にいる一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡は母が抱いて逃げ延びたが、残る比企一族は能員の息子たち、糟屋有季、笠原親景、渋河兼忠、婿の児玉党など皆討たれた。また忠常は頼家の側近として特に重んじられた者だったが、頼家の状態を知らなかったため能員を討ったものの、5日に侍所に2人で出仕していた北条義時と戦って討たれた。一方、出家直後から徐々に回復した頼家は、一幡の世になって皆が仲良くしているだろうと思っていたところ、比企氏が滅ぼされた2日にこれを聞いて激怒。病み上がりの状態で太刀を手に立ち上がったが政子がこれを押さえ付け、10日に修禅寺に押し込めてしまった。さらに11月3日になって一幡は義時の手勢に捕らえられ、義時の郎党の藤馬という者に刺し殺されて埋められたという。

1455年(康正元年8月27日) – 日野富子が足利義政の正室になる。

日野 富子(ひの とみこ、藤原富子(ふじわらのとみこ)、永享12年(1440年) – 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府の第8代将軍・足利義政の正室(御台所)。

人物

その活動に対する庶民からの評価は決して高くなく、戦乱で苦しむ庶民をよそに巨万の富を築いた「悪女」「守銭奴」と評された。夫の義政が東山山荘の造営のため費用捻出に苦心していたときは、一銭の援助もしていないことから「天下の悪妻」とも呼ばれる[35]。一方で、火災で朝廷の御所が焼け、修復するため膨大な費用が必要になったときは自身の蓄財から賄ったりしていた[36]。幕府財政は贈答儀礼や手数料収入などに頼ったものに切り替わりつつあり、富子の蓄財もその文脈で考える必要があるとも指摘されている[37]。遺産は7万貫(約70億円)に達していたという。

学問にも熱心であり、関白・一条兼良から『源氏物語』の講義を受けている。将軍家御台所とはいえ、関白が女性に講義をするのは異例であるが、富子はこのために莫大な献金を行っている。

義尚の急死とそれに続く義政の病没によって、幕府内部が動揺する中で40年近く幕府とともに歩んできた富子は「御台」として引き続き幕府内部に大きな影響を与えてきた[注釈 4]。明応の政変における将軍追放も「御台」富子の支持があって初めて可能であったと言われている。

応仁の乱の原因として義尚の後見人を山名宗全に頼んだことが挙げられるが、近年の研究で『応仁記』が記した虚構ではないかとされている[38]。理由として、富子が自身の妊娠中に妹の良子を義視に嫁がせてその基盤強化に力を貸していること(男子が生まれてもそれが成人する可能性が低かった当時、義視との連携を維持して万一の場合に義視と実妹の子が将軍職を継ぐのが富子としては望ましかった)[39]、富子が宗全に依頼した出来事は『応仁記』以外の記録には見当たらず、義尚が生まれる前に宗全が諸大名と連携、その中に義視がいたことが挙げられている[40]。実際に義視を排除したかったのは義尚の養育係である伊勢貞親であり、文正の政変の一因としてこの動きに山名宗全・細川勝元らが反発したことにあるのではないか、と推測されている[41]。

1862年 – 南北戦争: ペリービルの戦いが行われる。

時             1862年10月8日

場所        ケンタッキー州ボイル郡

結果        南軍の戦術的勝利 北軍の戦略的勝利 損害 南軍 2万2千人中 戦死傷3401人 北軍 1万6千人中 戦死傷4276人。

ペリービルの戦い(ペリービルのたたかい、英:Battle of Perryville、またはBattle of Chaplin Hills)は、南北戦争中盤の1862年10月8日、南軍のハートランド攻勢(ケンタッキー方面作戦)の頂点として、ケンタッキー州ペリービルの西、チャップリンヒルズで行われた戦闘である。

概要

南軍将軍ブラクストン・ブラッグのミシシッピ軍[5]は、北軍ドン・カルロス・ビューエル少将のオハイオ軍の実質的には1個軍団に対して戦術的勝利を上げた。この戦闘はケンタッキーの戦いと呼ばれることもあり、戦闘後間もなくブラッグ軍がテネシー州に引き上げ、境界州であるケンタッキー州は戦争の残り期間北軍の支配するところとなったので、北軍の戦略的勝利と考えられている。

1868年(慶応4年8月23日) – 会津戦争: 母成峠の戦いに勝利した官軍が若松城下に到達。白虎隊二番士中隊員20人が飯盛山で自刃。

1871年 – シカゴ大火。シカゴ中心部を焼失し、死者250人を出す惨事となる。

被害

死者250人以上、17,400以上の建造物が全焼。鎮火した10月10日早朝までに2,000エーカー(約800ヘクタール)以上を焼き尽くした。被害額は当時にして約2億ドル、家を失った人は10万人に上ったという。

1895年 – 乙未事変により閔妃が暗殺される。

1945年 – 大分県で暴風雨。33人が死亡、68人が負傷。流失家屋110戸、全壊家屋2368戸などの被害[1]。

1954年 – 内郷丸遭難事件。相模湖で定員の4倍以上の客を乗せた遊覧船・内郷丸が沈没。中学生22人死亡。

内郷丸遭難事件(うちごうまるそうなんじけん)は、1954年(昭和29年)10月8日昼過ぎ、神奈川県津久井郡与瀬町(現在の相模原市緑区与瀬)にある相模湖で発生した水難事故である。

定員の4倍以上の客を乗せた遊覧船の内郷丸が運航中に浸水により沈没、中学生22人の死者が出た[1]。

1989年 – 北の真砂岳で8人が凍死する遭難事故が発生した[2]。

1994年 – 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件: 長良川右岸河川敷(岐阜県安八郡輪之内町)にて集団暴行を受けて死亡した男性2人が遺体で発見される。後に愛知県出身の当時19歳少年(2011年に死刑確定)をはじめとする不良少年グループによる連続殺人事件と判明。

概要       

不良少年KM(当時19歳・愛知県出身)とその関連人物たちが11日間で計4人を集団暴行して殺害した連続殺人事件。

概要

暴力団に所属した主犯格3人を中心とした犯行で、当時未成年の不良少年らによる凄絶なリンチの末の凶行として社会を震撼させた[注 1][3]。一連の事件では計10人が逮捕され[3]、うち主犯格3人は全員が当時少年でありながら控訴審までに死刑判決を言い渡され[8][9][10][11]、最高裁判所で上告を棄却する判決を受けたことで死刑が確定した(少年死刑囚)[12][4]。

2001年 – リナーテ空港事故が起こる。

乗員乗客110人を乗せたスカンジナビア航空686便コペンハーゲン行MD-87型機と4人が搭乗しパリに向かっていたドイツ籍のセスナ サイテーションが、視界50mの濃霧の中、滑走路上で衝突し、両機に搭乗していた全員が死亡したほか、686便が衝突した手荷物管理棟のイタリア人の地上職員8人が死傷した。

チャットgpt先生の10月8日のエッセイ


10月8日という日

10月8日は、旧暦であれば秋が深まる時節、月齢は16.2、ほぼ満ちた月が夜空に輝く頃である。今年の干支は「乙巳」、そしてこの日の干支は「庚戌」。陰陽道において「隠遁日」とされ、静かに身を慎む日ともされる。暦の上では一歩ずつ年の終わりへと歩みを進め、残りの日数を数える声がどこかしら肌寒さを帯びて聞こえてくる。

しかし歴史をひもとけば、この10月8日は「静けさ」とは程遠い、数々の事件や惨禍が刻まれた日でもある。

鎌倉時代初期の1203年、源頼家の外戚として権勢をふるった比企能員が北条時政の謀略により一族もろとも滅ぼされた。いわゆる「比企能員の変」である。権力の座を巡る暗闘の果てに、一門は粛清され、若き将軍頼家も権力の座を追われていく。歴史の記録は、「誰が真の勝者だったのか」を曖昧にしながら、血で染まった鎌倉政権の一断面を私たちに突きつける。

また、室町時代の1455年には、日野富子が足利義政の正室となった。彼女は後に「悪女」と称される一方、幕府財政を支えるほどの蓄財と権力を握り、「御台」として幕府内部に長く影響を及ぼした人物である。10月8日という日が、ひとりの女性の歩む壮大な歴史の序幕となったのだ。

時を下って1862年、この日ケンタッキー州では南北戦争の「ペリービルの戦い」が起こった。南軍が戦術的勝利を得たものの、最終的に北軍が戦略的主導権を握り、ケンタッキー州は以後北軍の支配下となる。4千人を超える命が散ったその日もまた、秋の乾いた空気の中に血の匂いが混じっていただろう。

さらに1871年、アメリカでは「シカゴ大火」が発生し、10万人もの人々が家を失った。1895年の「乙未事変」では朝鮮王妃・閔妃が暗殺され、20世紀に入ってもまた、日本各地での遭難事故や暴風雨、そして1994年の連続リンチ殺人事件や2001年のリナーテ空港事故といった惨事が、この日を暗く彩っている。

こうして振り返ると、10月8日は「火」と「血」と「涙」に深く結びついた日であるようにも見える。だが一方で、満ちゆく月が夜空を照らし、秋の虫の声が響く季節でもある。自然が静謐さを見せるその時、歴史は常に騒がしく動き、人の営みの儚さを私たちに語りかけている。

年の瀬まであと84日。騒乱の歴史を背負う日であっても、私たちはこの日を「今ここ」で穏やかに迎えている。過去に散った無数の命と出来事を思い起こすことは、私たちが平穏の意味を噛みしめるための、静かな祈りに通じるのかもしれない。