kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
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今日という日10月3日BC52ガリア戦争終結1932満州開拓団出発1942ナチスV2打ち上げ

10月3日

20231003火曜日 旧暦8月19日 友引 甲午きのえうま コウゴ 月齢 18.1

年末まであと89日

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%883%E6%97%A5

10月3日の歴史上の出来事

紀元前52年 – アレシアの戦いが終結。ガリア戦争が実質的に終結し、ガリアがローマ帝国の版図に組み込まれる。

1932年 – 満州開拓武装移民団第一陣416人が日本を出発。

1942年 – ナチス・ドイツが開発していたV2ロケットが、3度目の挑戦で初の打ち上げ成功。宇宙空間に到達した初めての人工物体となる。

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紀元前52年 – アレシアの戦いが終結。ガリア戦争が実質的に終結し、ガリアがローマ帝国の版図に組み込まれる。

ガリア戦争(ガリアせんそう、ラテン語:Bellum Gallicum, ベッルム・ガッリクム/ベルルム・ガルリクム)は、紀元前58年から紀元前51年にかけて、共和政ローマのガリア地区総督ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア(現:フランス、ベルギー、スイス等)に遠征してその全域を征服し、共和政ローマの属州とした一連の戦争を指す。

一連のガリア戦争によって、カエサルはガリア全域をローマの支配圏に組み入れた。この戦争により、カエサル自身も将軍としての実績を積んで権威を高め、ガリアからの莫大な戦利品により財産を蓄えた。また、長年の苦楽を共にした将兵たちは、共和政ローマにではなくカエサル個人に忠誠を誓うようになり、精強な私兵軍団を形成した。

名声高まるカエサルの勢力を恐れた元老院派はポンペイウスと結んでカエサルと対抗する姿勢を強め、紀元前49年1月10日のカエサル及び配下のローマ軍団によるルビコン川渡河から始まるポンペイウス及び元老院派との内戦へ突入することとなった。

アレシアの戦い

ガリアのリーダ- ウェルキンゲトリクスは未だ去就を定めかねているガリア諸部族に対して決起を呼びかけ、結束を強めるため各部族から人質をとり、命令に従わないものは容赦なく処罰した。このようにしてガリアを糾合したウェルキンゲトリクスは、過去のローマ軍の戦い方を研究しており、正面決戦では太刀打ちできないと考え、徹底した焦土作戦とゲリラ戦を展開した。重要拠点を除いて都市や村を焼き払い、食料や家畜も最低限のもの以外は残さなかった。これによってローマ軍の兵站の破壊を狙ったのである[2]。

→ウェルキンゲトリクスはアウァリクムも焼き払うつもりであったが、ビトゥリゲス族の「全ガリアで最も美しく、最も肥沃なこの町を焼かないでくれ」という懇願により取りやめられた。4月までにローマ軍はアウァリクムを制圧、カエサルは見せしめのために住民と守備隊の40,000人を皆殺しにした(アウァリクム包囲戦)。

「ウェルキンゲトリクスは、最上の武具を身にまとい、飾った馬にまたがってアレシアを出た。ローマ軍の陣地へ入ったウェルキンゲトリクスは、着座するカエサルの周りを馬にまたがったままで悠々と一周した。しかる後、ウェルキンゲトリクスは馬から下り、全ての武具を脱ぎ捨て、カエサルの足元で跪いていたが、ローマ兵に拘束された」[9]。

ガリア軍と生き残ったアレシアの市民は全て捕虜となった。アルウェルニ族とハエドゥイ族はローマの寛大さを見せつけるため解放され、一部はカエサルの軍団に吸収された。その他のガリア人は、兵士1人につき1人ずつ奴隷として与えられた。
ウェルキンゲトリクス

最終的にはガリアの都市アレシア(現在のディジョンに近い地域)に追い詰められ、ローマ軍に包囲された。突破作戦を決行するも失敗し、部下達の保全を条件についに降伏、投降した(アレシアの戦い)。その後、ウェルキンゲトリクスはローマへと送られ、6年間トゥッリアヌムに投獄された後、カエサルの凱旋式が行われた際に処刑された。カエサルは基本的に敵に回った人間でも処刑することがなかった(蛮族に対してもやや基準が厳しいが、人質の倍増で済ますことがほとんど)が、若くして統一組織のないガリアの諸部族をまとめあげ、しばしばローマ軍を打ち破った彼に対してだけはそうはしなかった。優秀すぎたために危険人物であるという政治的な判断によるものである。

1932年 – 満州開拓武装移民団第一陣416人が日本を出発。

満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は、1931年(昭和6年)の満洲事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満洲、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。1932年(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、満洲国建国直後から1945年の敗戦までの14年間に日本各地から満洲・内蒙に開拓民として、27万人が移住した。満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とも言われる[1][2]。

概要

日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。加藤完治が移住責任者となり、満洲拓殖公社が業務を担っていた。この移住は1945年半ばまで続き、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。

1942年 – ナチス・ドイツが開発していたV2ロケットが、3度目の挑戦で初の打ち上げ成功。宇宙空間に到達した初めての人工物体となる。 V2ロケットは、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ミサイルであり、弾道ミサイルである。それ以前から開発されていたアグリガット(Aggregat)ロケットシリーズのA4ロケットを転用・実用兵器化し、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが報復兵器第2号(Vergeltungswaffe 2)と命名したため、この名で呼ばれることとなった。この兵器は同大戦末期、主にイギリスとベルギーの目標に対し発射された(→発射映像[3])。後にアメリカ合衆国でアポロ計画を主導したヴェルナー・フォン・ブラウンが計画に参加し設計を行ったことで知られる。