kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日10月25日1917十月革命、1944神風特別攻撃隊レイテ戦戦果ほか 写真wikipedia

10月25日

20231025水曜日 旧暦9月11日 先勝 丙辰ひのえたつ ヘイシン 月齢 10.4

年末まであと67日

https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8825%E6%97%A5

10月25日の歴史上の出来事

1917年 – レニングラードで十月革命が発生。

1944年 – ナチスの親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがエーデルヴァイス海賊団取締りのための「青少年の徒党撲滅」命令を発令。

1944年 – 21日より出撃した日本軍の神風特別攻撃隊による特攻作戦が本格化。

2010年 – スマトラ島沖地震、マグニチュード7.8。

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1917年 – レニングラードで十月革命が発生。

十月革命は、社会主義左派勢力ボリシェヴィキにより引き起こされた。一連のロシア革命のなかでは、帝政を崩壊させ、立憲民主党(カデット)主導の臨時政府を成立させた二月革命に次ぐ第二段階にあたる。

臨時政府の閣僚が残る冬宮に対する占領は、10月25日午後9時45分に防護巡洋艦アヴローラの砲撃を合図として、ヴラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ(英語版)率いる部隊が進入して始まった。冬宮はコサックや士官学校生、女性部隊により防衛されていたが、抵抗らしき抵抗はほとんどなく、26日未明の午前2時ごろに占領された。会議を続けていた閣僚たちは、なすすべなく逮捕され、ケレンスキーは冬宮を脱出し最終的に国外へ逃亡した[16]。

十月革命の公式な日付は、冬宮を除くすべての政府機関が占領された10月25日とされている。10月25日から26にかけての出来事は、後年になりソ連政府は実際よりも劇的に記している。イギリスのペトログラード駐在武官アルフレッド・ノックスは冬宮の守備が体をなしておらず、ほぼ無抵抗で占領された様を目撃して書き残しているが[17]、1920年に革命3周年を記念して冬宮で上演された歴史再現群衆劇『冬宮への突入』では、冬宮占領の様子が劇場的に描かれている。

1944年 – ナチスの親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがエーデルヴァイス海賊団取締りのための「青少年の徒党撲滅」命令を発令。

エーデルヴァイス海賊団(エーデルヴァイスかいぞくだん、ドイツ語: Edelweißpiraten)は、ナチス政権下のドイツに存在した若者のグループである。これはヒトラーユーゲント内の厳しい統制生活に対抗した若者の自然発生的な運動として、ドイツ西部で1930年代末に発生した。彼らは主に14歳から18歳の若者で構成されていた。当時のドイツでは、少年たちは学校を卒業(当時は14歳で卒業する)した後、ヒトラーユーゲントに入隊、17歳でドイツ国家労働奉仕団に入り、兵役に就くことになっていた[1]が、このグループの若者たちはこれを避けようとしていた。

彼等に類似したグループとして「モイテン」、「スウィング・ボーイ」(en)が存在した[2]。

1944年10月25日、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは「青少年の徒党撲滅」命令をだし、これらの活動を押さえ込む事を決定、12月7日、デュッセルドルフでは一斉検挙が行われた。ゲシュタポはこれらのグループを「全て解体した」と報告、デュッセルドルフで10グループ・283名、デュースブルクで10グループ・260名、エッセンにおいては4グループ・124名、ヴッパータールで4グループ・72名が検挙されている[17]。

しかし、ナチス当局は彼等を取り締まる反面、全てを排除できないというジレンマに陥っていた。彼等若者は、将来のドイツを支えることになる立場であり、戦局の悪化で軍需労働者や兵士となる人員の不足が深刻化している中では、彼等全てを捕らえて処刑するわけにはいかなかった。しかも、ゲルマン民族至上主義を唱えるナチスにとって、彼等は本来、遺伝的に健康で優秀たるドイツ人であったが、その態度も問題を生じていることも間違いなかった[17]。

結局、政府諸機関は明らかに腰の定まらない、場当たり的な対応を取らざるを得なかった。ある当局者は、エーデルヴァイス海賊団は青少年が非行化しているだけで、ヒトラーユーゲントに魅力がないことが原因とし、別の当局者は、この活動の背後に大規模な陰謀があるとした。しかし、エーデルヴァイス海賊団自体は単なる「非行」でもなければ「抵抗組織」でもなく、ナチズムを拒否することがテーマであった[18]。

結局、政府による取締りではグループを解散させることはできず、また、反体制組織とは判断されずに終わった。ナチスによって処刑された海賊団員の犠牲者の家族は賠償金を受け取れない状況である。

1944年 – 21日より出撃した日本軍の神風特別攻撃隊による特攻作戦が本格化。

10月25日、午前7時25分、関率いる5機の敷島隊はマバラカット基地から出撃した[119]。

7時40分に菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦がタフィ1上空に到達した。このときにはタフィ1各艦のレーダーには多数の友軍機影が映っていたため、この4機が日本軍機と気づくものはおらず、気づいたときにはそのうちの1機が高度2,500mから40度の角度で護衛空母「サンティ」に向かって急降下していた[124]。急降下してきた零戦は舷側から5m内側の飛行甲板に命中して貫通し、飛行甲板下で搭載爆弾が爆発して、42m2の大穴を飛行甲板に開けて、16名の戦死者と47名の負傷者を生じさせたが、幸運にも火災が航空燃料や弾薬に引火することはなかったので致命的な損傷には至らなかった[125]。

続く2機は、護衛空母「サンガモン」と「ペトロフ・ベイ」に向かってそれぞれ急降下したが、いずれも対空砲火を浴びて両艦の至近海面に墜落した[126]。残る1機は護衛空母「スワニー」に急降下。「スワニー」は対空砲火で応戦、零戦は火を噴いたものの、そのまま後部エレベーター付近の飛行甲板に命中、機体と爆弾は貫通して艦内で爆発して、71名の戦死者と82名の負傷者という大きな損害を発生させた[127]。特攻機が命中した「サンティ」と「スワニー」の損害は大きかったが、いずれもサンガモン級航空母艦であり、排水量基準:11,400t 満載:23,235tと大型で、護衛空母のなかでも非常に強固に建造されていたため、この後も任務を続行した[123]。しかし、10月26日に「スワニー」はもう1機特攻機が命中して、損傷を被って戦線離脱している[128]。「スワニー」が攻撃を受けたのは正午すぎとされているが、この時刻から見て、攻撃したのは同日午前10時15分に出撃した植村率いる大和隊と見なされている。大和隊の3機のうち1機が急降下し、飛行甲板上にあった艦上攻撃機に激突、この艦攻もろとも大爆発、甲板上に並んでいた9機の艦載機も次々と誘爆し、アメリカ軍が報告書に「艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷」と記したほどの損傷と死傷者113名を被らせている。この殊勲機が隊長の植村であったかは不明である[129]。

この戦果はのちの関率いる敷島隊より先に挙げた戦果であったが、戦果報告は、菊水隊の護衛戦闘機が帰還した午前9時45分になされ、その戦果報告の確認のやりとりに時間を要して連合艦隊への報告が遅延し、結果的に3時間もあとの敷島隊の戦果が「神風特別攻撃隊」の初戦果扱いとなってしまった[130]。

護衛空母「ホワイト・プレインズ」に向かって急降下していた零戦1機がホワイト・プレインズの対空砲火が命中し損傷したため、目標を「セント・ロー」に変更し[123]、「セント・ロー」の艦尾1,000mから高度30mの低空飛行という着艦するような姿勢で接近してきた。「セント・ロー」は搭載していたMk.IV20mm機関砲とボフォース 40mm機関砲で応戦したが、零戦はそのまま、発見1分後に[134]、飛行甲板中央に命中した。零戦が命中した瞬間に航空燃料が爆発して、猛烈な火炎が飛行甲板を覆い、搭載していた250kg爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その爆発で格納庫内の高オクタン価の航空燃料が誘爆し、その後も爆弾や弾薬が次々と誘爆した[135]。あまりの爆発の激しさに、付近を航行していた重巡洋艦「ミネアポリス」の乗組員が海中に吹き飛ばされたほどであった。手が付けられないと判断したフランシス・J・マッケンナ艦長は特攻機が命中したわずか2~3分後の10時56分に総員退艦を命じ、その後も何度も大爆発を繰り返して30分後に沈没した。114名が戦死もしくは行方不明になり、救助された784名の半数が負傷したり火傷を負っていたが、そのうち30名が後日死亡した[136]。この「セント・ロー」を仕留めた零戦が関の搭乗機だという説が広く認知されている[137]。他にも護衛空母「キトカン・ベイ」に1機命中したが、爆弾が艦を貫通して海上で爆発したため大きな被害は与えることができなかった。また、「ホワイト・プレインズ」直上で特攻機が爆発して同艦に火災を生じさせた[132]。

10月26日、及川古志郎軍令部総長は、神風特攻隊が護衛空母を含む5隻に損傷を与えた戦果を奏上した。昭和天皇(大元帥)はこの生還を期さない特攻作戦については知らされておらず、同月28日には説明資料も作成された[141]。及川軍令部総長は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と嘉賞の言葉を受けた。その言葉は軍令部から全軍に向けて発信され、セブ島にいた中島は、特攻隊員らの前で電文を読み上げ督励した。また、昭和天皇は、10月30日に米内海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と述べた[142]。

2010年 – スマトラ島沖地震、マグニチュード7.8。

21時42分22秒(現地時間)死傷者数        死者413人 行方不明者163人

チャットgpt先生の10月25日のエッセイ

10月25日は、歴史的な出来事が多く起きた日です。この日の出来事は様々な時代と文化に関連しており、その中でも特に注目すべき出来事をいくつか紹介します。

1917年、レニングラードで十月革命が勃発しました。この革命は、ロシアでの帝政の崩壊と、ボリシェヴィキによる社会主義政権の樹立をもたらしました。十月革命は、ロシアの歴史において重要な出来事であり、帝政を終焉させました。この出来事は、二月革命に続く一連のロシア革命の中で最も重要なものの一つでした。

1944年、ナチスの親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが「青少年の徒党撲滅」命令を発令しました。この命令は、エーデルヴァイス海賊団と呼ばれる反体制の若者グループを取り締まるためのものでした。このグループは、ナチス政権下でヒトラーユーゲントに対抗する自発的な運動として発生しました。若者たちは、ヒトラーユーゲントの厳格な統制に対抗し、反ナチスのスタンスを取りました。ナチス政権はこれらの反体制的な若者グループを取り締まるのに苦労し、一部は解散させることができませんでした。

同じ日、1944年には日本軍の神風特別攻撃隊による特攻作戦が本格化しました。この特攻作戦は、日本軍が敵艦船に対して自己犠牲を払って攻撃する試みで、その目的は連合国の軍艦に損害を与えることでした。この特攻作戦は非常に困難で危険な任務であり、多くの日本の若者が犠牲となりました。その中には、敵艦船に特攻を仕掛けた者も含まれています。

最後に、2010年にはスマトラ島沖でマグニチュード7.8の地震が発生し、多くの死傷者を出しました。地震は自然災害の一例であり、地球の力がどれほど破壊的で予測不可能であるかを示すものでした。この出来事は、地震の影響を受けた地域における救援活動と復興の必要性を再び強調しました。

10月25日の歴史的な出来事は、政治、戦争、自然災害など、さまざまな側面を持つものであり、我々にその重要性と教訓を考えさせてくれます。この日の出来事は、人類の歴史を通じて学び、成長する機会を提供してくれるものです。