kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
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10月1日

20231001日曜日 旧暦8月17日 赤口 壬辰みずのえたつ ジンシン  月齢 16.1

年末まであと91日

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10月1日の歴史上の出来事

紀元前331年 – ガウガメラの戦い。アレクサンダー大王がペルシア帝国を破る。

1938年 – ナチス・ドイツがズデーテン地方に進駐。

1939年 – 第二次世界大戦: ワルシャワ包囲戦 (1939年)(英語版)の末ドイツがワルシャワを占領。

1946年 – ドイツの戦争犯罪者を裁くニュルンベルク裁判が終了。

2015年 – アメリカオレゴン州でアムクワ・コミュニティー・カレッジ銃撃事件が発生。10人が死亡、7人が負傷した[6]。

2017年 – 2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件[7]。

2022年 – カンジュルハン・スタジアムの悲劇: インドネシアカンジュルハン・スタジアムにて暴動が起き、125人が死亡した[13]。

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紀元前331年 – ガウガメラの戦い。アレクサンダー大王がペルシア帝国を破る。

ガウガメラの戦い(ガウガメラのたたかい)は、ティグリス川上流、現在のイラク北部と推定されるガウガメラにおいて、紀元前331年10月1日に行われたアルゲアス朝(マケドニア王国)およびコリントス同盟の連合軍とアケメネス朝の戦いである。アレクサンドロス3世(大王)率いる連合軍(以下「マケドニア軍」)がダレイオス3世率いるペルシア軍を破った。アルベラの戦いともいう[1]。なお、この戦いはガウガメラとアルベラ付近で起こったものであるが、主戦場がガウガメラだったため、厳密にはガウガメラの戦いが妥当である。

マケドニア軍40000万対ダレイオス軍250000以上(一説に百万)。

マケドニア軍のファランクスはサリッサと呼ばれる6メートルの長さの槍で武装していた。ペルシア軍の歩兵は大半が訓練不足であり、装備でも劣った。ダレイオスの重装歩兵はギリシア人傭兵と、近衛兵である1万人の不死隊だけだった。ギリシア人傭兵はファランクスとして戦ったが、その槍は3メートルしかなく、不死隊の槍にいたっては2メートルしかなかった。

損害はマケドニア軍死傷4000人対ダレイオス軍40000人。

1938年 – ナチス・ドイツがズデーテン地方に進駐。

1939年 – 第二次世界大戦: ワルシャワ包囲戦 (1939年)(英語版)の末ドイツがワルシャワを占領。

1946年 – ドイツの戦争犯罪者を裁くニュルンベルク裁判が終了。

ニュルンベルク国際軍事裁判(ニュルンベルクこくさいぐんじさいばん)は、第二次世界大戦において連合国によって行われたナチス・ドイツの戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日 – 1946年10月1日)。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれた。日本の極東国際軍事裁判(東京裁判)と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。

武井彩佳は歴史修正主義者によるニュルンベルク裁判の批判を、次の4点にまとめている[68]。

ニュルンベルク裁判は、正当性に欠いている問題。戦勝国が、検察官と裁判官を同時に務めることは出来ない。

法的な問題。ドイツを裁く根拠となった「平和に対する罪」や、「人道に対する罪」の概念は、犯罪が行われた当時は確立しておらず、事後法で遡及的に裁いてはならないとする法の大原則に反する。

道義的な問題。米英軍によるドイツの都市への無差別爆撃、ソ連軍による略奪や強姦、虐殺、東欧からのドイツ人の追放など、連合国側の戦争犯罪が不問にされた。

ニュルンベルク裁判が、ドイツ人の「集団罪責論」に立っているという問題。集団罪責論とは、戦争責任は政治指導者だけでなく、一般市民にもあるとする。ドイツ人全体を犯罪者とする思想は、ユダヤ人全体を犯罪者としたナチスと同じである。

武井は南京大虐殺、従軍慰安婦、ホロコーストの否定などの歴史修正主義の動きに批判的な歴史学者である[69]が、歴史修正主義者の主張には、以下の点において正当性が含まれていると指摘する[70]。

ポーランド進攻は、ソ連はドイツと開戦前にポーランド分割を合意して進攻していたのに、裁判ではドイツを断罪する側の裁判官の席についていた。これは相手も同じ事をしているのに、どうして自分たちだけが責められるのか。という理論として使われるようになる。

連合国の戦争犯罪についても、修正主義者の主張通りである。

集団罪責論は、ドイツ人にも独裁政治に抵抗した人や迫害された人がいたが、それらの違いを一般化し、塗り込めてしまう単純化であり、ドイツ人が強く反発したのも理解できる。

また、武井は戦後秩序の形成に画期的だったはずのニュルンベルク裁判は、皮肉にも歴史修正主義の「生みの親」になったとしている[71]。

アンネッテ・ヴァインケ(Annette Weinke)は、ニュルンベルク裁判の最大の欠点として、ドイツ降伏直後の1945年5月にフランス軍がアルジェリアのセティフで4万人の民衆を虐殺した(Sétif and Guelma massacre)が、フランスに対する反乱行為として正当化を行い、フランス軍人は処罰されず、1946年以降、特に戦勝国による侵略行為、民間施設への爆撃、虐殺などに対して、ニュルンベルク裁判で創造された規範が一度も適用されず、拘束力を持たなかった事である。と指摘している[49]。

ヴェルナー・マーザーは、ニュルンベルク裁判の問題点として、おおよそ次の点を指摘する。

法廷の中立性が守られていない。

戦勝国のみで裁判官が構成されており、法廷の中立性を侵している[72]。

事後法を用いて、法の遡及で裁いている。

事後法であり、法は遡及してはいけないという法の大原則を侵している[73]。(国際連合は、1950年に法の遡及は人権侵害であると声明を出している[74]。)

侵略戦争という定義の薄弱性

侵略戦争の定義に関する議論の席でソ連の代表の一人が「人は侵略、侵略と口にするが、その時は何だが知っている。だが、概念を定義するとなると困難に突き当たる」と困難さを述べている[50]。侵略戦争の定義は現在に至っても存在していない[50]。また、侵略戦争の定義が定まれば、困るのは戦勝国側であり、ニュルンベルク裁判以前も以降も戦勝国は国際法違反の侵略行為を繰り返しているからである。これらの侵略行為は、戦後定められたニュルンベルク諸原則が採用されていれば、死刑になる者が出るはずであったが、誰も裁かれることはなかった[75]。

戦勝国軍の戦争犯罪の処理の甘さ

例えばアメリカ軍はベトナム戦争でソンミ村の大量虐殺を引き起こしたが、その戦争犯罪者たちは、ウィリアム・カリー (軍人)を除いて全員無罪となり、カリーも僅か三年で釈放されてしまい、カリーは犯罪者ではなく英雄になった。と身内に対する甘い処理を指摘している[76]。

被告や弁護団への不当行為

被告へ拷問や暴行があった[57][56]。弁護団へ提供された資料は、翻訳されておらず、事前の入手は許されず、被告への弁護に使用するのは不可能だった。一方検察は翻訳されており、事前に入手していた[51]。弁護団や被告に有利な資料は行方不明になった[52]。検察側が提示した資料は偽造された可能性がある[77]。法廷に提出された証言の供述文書に対し、不審を感じた弁護側が証人に反対尋問を要請したが拒否され、反対尋問が許可されることはなかった[55]。

連合国側が重大な国際法違反を行っている問題

例えば、日本に対する原爆投下[78]や、ドイツ人追放である。ドイツ人追放はドイツ降伏後、無防備となったドイツ人やドイツ系住民に対し行われたもので、ドイツ東部領土からドイツ人が追放された。また東ヨーロッパに何世代にも渡って住居していたドイツ系住民もドイツ系というだけで、ロシア、ポーランド、チェコスロバキアの国籍を有していたのにもかかわらず、土地や金銭を奪われて迫害を受けて追放された。この過程により、最大で200万人もの犠牲者が出たとされている。未だに、土地、財産が返還されていないドイツ人、ドイツ系住民に行われた迫害、虐殺行為は、あらゆる国際法に違反しており、ハーグ陸戦条約(特に55条)、ケロッグ=ブリアン条約、大西洋憲章、ジュネーヴ条約、ウィーン条約、多くの国際連合宣言、驚くべき事に戦勝国がニュルンベルク裁判で定めたはずのニュルンベルク諸原則にすら違反していた[79]。

マーザーはニュルンベルク裁判は国際法廷などというものでは決してなく、勝者の法廷であって、戦争を起こした罰を与えるというアメリカの伝統に則ったものであると評している[80]。

不起訴になったカティンの森事件

ニュルンベルク裁判でソ連代表検事のイオナ・ニキチェンコは、カティンの森の虐殺の責任をドイツ側に押し付けようとした。

1946年7月にカティンの森事件について、ドイツによる犯罪かどうか討議が行われたが証拠不十分とされた。

ソ連側は1990年に崩壊するまでドイツの仕業と主張していた。

1992年10月にロシア政府は、虐殺をスターリンが指令した文書を公表し、ソ連側が犯人であることが確定した[81][82][83][84]。

発見されなかったヒトラーのユダヤ人絶滅命令や計画書

ニュルンベルク裁判の判決によれば、ナチスやヒトラーはユダヤ人を絶滅させる思想や計画を持っていたとされている[85]。だが、現在(2023年3月)においても、そのようなヒトラーの命令書や計画書は発見されていない。

また、ユダヤ人絶滅の設計図(青写真)も存在せず、絶滅の為の国家予算も付かず、一元的な管理を行う組織も無かった。

日本の主な専門書も、ヒトラーのユダヤ人絶滅命令を示す文書は見つかっておらず、ヒトラーの命令書があったかは不明であり、おそらく存在しなかったのだろう(特に栗原説[86]が顕著)、としている[87][88][86][89] [90][91]

ヒトラーの側近に居たユダヤ系軍人

ヒトラーの側近であったドイツ空軍元帥エアハルト・ミルヒ(英: Erhard Milch)(独: Erhard Milch)はユダヤ系の軍人であった。

第三帝国の敗戦まで戦ったミルヒは戦犯として裁かれ有罪判決を受けた。(エアハルト・ミルヒ裁判)

ミルヒの上司であったヘルマン・ゲーリング空軍元帥が、ユダヤ系のミルヒを庇っていたとされる[92]。

ベルンハルト・ロッゲ(英: Bernhard Rogge)は、ユダヤ系ドイツ軍人であり、第二次世界大戦中は、ドイツ海軍の提督として活躍し、戦果を上げた。この功績からヒトラーから柏葉付騎士十字章を授与された。最終階級は海軍中将であった。

ドイツ海軍総司令官カール・デーニッツ提督は、ニュルンベルク裁判で、自分が率いたドイツ海軍は反ユダヤ主義ではないと証言した[93]。

ロッゲ提督も、ドイツ被告の為に弁護を行った[94]

大幅に誇張されていた強制収容所の死亡者

最初にダッハウ収容所である。かつては、10万人や45万人もの犠牲者が出たとされていた[95]が、現在では41,500人前後だと判明しており、その内の3分の1以上が終戦までの6か月間に腸チフスなどで病死したものであった。[96]。

次にザクセンハウゼン収容所である。1946年2月19日の法廷において、ソ連はザクセンハウゼン収容所において、84万人のソ連兵が皆殺しにされたと主張した[注釈 9]。現在、ザクセンハウゼン収容所の公式の資料館は、犠牲者を数万人(Zehntausende)としており、そのうち、ソ連兵捕虜の犠牲者は1万3千人以上としている。少なくとも75万人近い誇張がある[注釈 10]。

次はマイダネク収容所である。ニュルンベルク裁判当時は、ソ連は150万人の犠牲者が出たと主張した[注釈 11]。現在、この150万という人数は、ソ連崩壊後大幅に下方修正されている。現在(2023年1月時点)のマイダネク収容所の公式の犠牲者の数は公式サイトなどにより、裁判当時よりも142万人も多い、8万人(そのうち6万人がユダヤ人)としている[注釈 12]。ラウル・ヒルバーグによると、マイダネクのユダヤ人死者は5万人である[97]。カルロ・マットーニョ(Carlo Mattogno)によるとマイダネクの死亡者の総数は約4万人と推定している(そのうちのユダヤ人の割合は不明)[98]。ティル・バスティアン(Till Bastian)によると、マイダネクの死亡者の総数は約2万人である[99]。しかし、現在(2023年1月時点)の公式見解や公式サイトで、裁判当時よりも約300万人以上も多かったと判明している収容所がある。

アウシュヴィッツ収容所である。アウシュヴィッツ収容所の死亡者数も、裁判当時の人数は400万人とされたが、現在では下方修正されて110万人としている[注釈 13]。だが、公式の110万も、確実ではなく、それ以下だとする説もある。

詳細は「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所#アウシュヴィッツの死亡者数について」を参照

ダッハウ収容所でガス室による虐殺があったとの証言がニュルンベルク裁判で行われた(後述)。公式サイトにも書いてある通り[注釈 14]、ガス室による虐殺は実際には無かった。

2015年 – アメリカオレゴン州でアムクワ・コミュニティー・カレッジ銃撃事件が発生。10人が死亡、7人が負傷した[6]。

2017年 – 2017年ラスベガス・ストリップ銃乱射事件[7]。60人無差別殺害。

2022年 – カンジュルハン・スタジアムの悲劇: インドネシアカンジュルハン・スタジアムにて暴動が起き、125人が死亡した[13]。

*10月1日は放送局の開局数がやたら多いのだが、これって何か理由があるのかな?

チャットgpt先生の10月1日のエッセイ

10月1日は歴史上多くの重要な出来事が起こった日であり、その中からいくつかを取り上げてみましょう。

紀元前331年 – ガウガメラの戦い: この日、アレクサンダー大王がガウガメラの戦いでペルシア帝国を破りました。この戦いは古代史上の有名な戦闘の一つで、アレクサンダー大王の帝国拡大に大きな影響を与えました。

1938年 – ナチス・ドイツがズデーテン地方に進駐: ナチス・ドイツがズデーテン地方(現在のチェコ共和国の一部)に進駐し、ミュンヘン協定によってこの地域を獲得しました。これは第二次世界大戦の前触れとなる出来事でした。

1939年 – ワルシャワ包囲戦: ナチス・ドイツがポーランドの首都ワルシャワを包囲し、第二次世界大戦が本格的に始まりました。この出来事はポーランド侵攻の一部でした。

1946年 – ニュルンベルク裁判が終了: 第二次世界大戦後、戦争犯罪者を裁くために行われたニュルンベルク裁判がこの日に終了しました。この裁判は国際的な戦犯裁判の前例となりました。

2015年 – アムクワ・コミュニティー・カレッジ銃撃事件: アメリカのオレゴン州でアムクワ・コミュニティー・カレッジで銃撃事件が発生し、多くの犠牲者が出ました。これはアメリカの銃乱射事件の一例で、銃規制についての議論を巻き起こしました。

2017年 – ラスベガス・ストリップ銃乱射事件: ラスベガスで大規模な銃乱射事件が発生し、多数の人々が犠牲となりました。これはアメリカ史上最悪の大量射撃事件の一つです。

2022年 – カンジュルハン・スタジアムの悲劇: インドネシアのカンジュルハン・スタジアムで暴動が起き、多くの人々が死亡しました。この出来事は安全とセキュリティの重要性についての議論を呼び起こしました。

なぜ10月1日に放送局の開局が多いのかについては特定の歴史的な理由があるわけではないと思われます。ただし、番組スケジュールや予算の都合、新しいテレビシーズンの開始など、放送局がさまざまな要因を考慮して開局日を設定することが一般的です。そのため、10月1日が開局日として選ばれることが多いのかもしれませんが、これについては個別の局や国によって異なるでしょう。